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放送界の先人たち~横澤彪氏

【放送界に携わった先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」等で名を馳せたプロデューサー、横澤彪氏のインタビューをお届けする】


放送人の会とは

 一般社団法人「放送人の会」は、放送局、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わる人、携わった人、放送メディア、放送文化に関心をもつ人が、個人として参加している団体です。

 「放送人の会」では「放送人の証言」として先達のインタビューを映像として収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めています。既に30人の証言をYouTubeにパイロット版としてアップしています。

 「調査情報デジタル」でも証言を紹介すべく、テキスト版抄録を公開しています。これまでに演出家・鴨下信一氏、キャスター・磯村尚徳氏、ジャーナリスト・兼高かおる氏、 アナウンサー・鈴木健二氏、沖縄を代表する放送人・川平朝清氏のインタビューを紹介しました。今後も随時文字ベースで公開したいと思っています。

<本インタビューは2004年10月15日に収録。聞き手はNHKでドキュメンタリーを担当した各務孝氏>

横澤彪(よこざわ・たけし)氏の略歴
1937年生
1962年 東京大学文学部社会学科卒業後、フジテレビ入社
1974年 「ママとあそぼう!ピンポンパン」で初プロデューサー
1980年 「THE MANZAI」で頭角を現わす
1987年 「FNSスーパースペシャル 1億人のテレビ夢列島」ゼネラルプロデューサー
1992年 「平成教育委員会」エグゼクティブプロデューサー
1995年 フジテレビ退社
1995年 吉本興業役員就任 同常務東京本社代表
2001年 同社専務取締役
2011年没

横澤彪氏の証言(抄)

こき使われたAD時代

各務 フジテレビへ入社されたのは、たしか昭和37年、1962年ですか。

横澤 そうですね。

各務 それで最初、AD(アシスタント・ディレクター)をやってらした頃は、どういった番組についていたんですか。

横澤 最初に配属されたのは、編成局第2制作部というところで、教養番組セクションなんですよ。ですから教養番組といわれるものをやらされましたね。

各務 その頃、早く亡くなった(林家)三平さん(1925~1980)なんかとお知り合いになったわけですか。

横澤 そうですね。当時は生放送が多かったもんで、ADが足りなくなるんですよ。そうすると「悪いけど、今週ちょっとこの番組やれ」とか言われて、付き合わされるんですね。ですから、三平さんの番組、昼くらいの生放送だったりですね。そういうのにお付き合いしなくちゃいけない。もう、今から考えれば想像を絶するぐらい人手不足なんです。一人で何でもやれっていうようなね。

各務 それで、これじゃいかにも重労働だということで、組合に。

横澤 若いADがこき使われて、非常におかしいと、それが主な争点。まあ、組合を結成したんですが、えらいことになりました、はい。

各務 それが理由で、産経出版ですか、そちらの方に入った。

横澤 正確に言うとフジテレビ事業局勤務ですね、最初は。で、そこで配属された部長さんが、マーチャンダイジングと出版と両方やりたいっていうプロジェクトの所で、若いの俺しかいないってとこですね。で、フジテレビのこの出版部門を産経新聞にくっつけるということで、産経に行ったんですよ。

各務 でもそこにたしか、7年間くらい行ってたわけでしょ。

横澤 いやいや。ええと(1970年から)5年。産経新聞に、出っ張ってたのは4年くらいじゃないですか。

制作部門に復帰、伝説のお笑い番組「THE MANZAI」の誕生

各務 それで、お笑い番組に戻られるというか、復帰されて。

横澤 それもね、調子悪い時って、結構人事異動が多いんだね。ちょっと年をとっていた、ベテランのお笑い系のプロデューサーが全部ね、美術行ったり、移っちゃったんですよ。

各務 ああ。

横澤 で、いなくなっちゃったんで、どうしようって会社も考えたんだね、「そういえば、なんか君、昔お笑いやってたんだろう」「やってました」みたいな話で戻ることになって。それで、ちょっとスタジオ収録を見に行ったんですよ。当時、近所のおばちゃんみたいな暇な人を集めてきて、スタジオにお客さんとして入ってもらうシステムがありましてね。

各務 ええ。ええ。

横澤 で、ふっとスタジオに入ったら、俺が昔ADでやっていた時と同じおばちゃんがいるわけ、そこに。それで同じように「ぐはは、ぐはは」ってね、大笑いしてくれる。サービス精神でね。

各務 ええ。

横澤 笑ってくれるんだけど、いやいや、これはやっぱりいかがなものかと思いましたよ。まず真っ先に、これはいかんだろうと、いくらなんでも。

各務 その頃はまだいわゆる、お笑い屋っていうのを入れてたんですか。

横澤 そうそう、お笑い屋ですね。そんなこともあって、いかにも古めかしいなと痛感しましたね。

各務 それで構造改革をしようと思われたんですか。

横澤 思いましたよ。もちろん思いましたね。

各務 で、具体的にはそれが「THE MANZAI」※ なんかに出てくるわけですか。

※ (1980年~)火曜ワイドスペシャル(20:00-21:30)で放送。若い世代に向けての「漫才ブーム」の起点となり、その後の「オレたちひょうきん族」の基盤となった

横澤 そうですね。そういう番組として出てきたと思うんです。

各務 「THE MANZAI」っていう、ローマ字の表記、命名はやっぱり横澤さんですか。

横澤 はい。悩んでたんですよ、タイトルをどうしようかって。だって、本当のこと言って、最初あの番組をやりたくなかったんですよ。

各務 そうなんですか。

横澤 「勘弁してくださいよ」って言ったのね、どうしてかっていうと、当時、企画書を強制的に何個か出さなくちゃいけなかったんですね。

 で、別にやる気もなく、ただいっぱい書いたんです。そしたら、漫才の番組をやると視聴率が取れるんじゃないかって、編成のスタッフが思い至りましてですね。でまぁ、何はともあれ企画ファイルをばぁっと見てったら「東西対抗漫才大会」っていう企画があったんですよ。そしたらそこに「横澤」って書いてあったわけ、企画提出者の欄に。

 それで呼ばれて「ちょっと漫才番組やんないか」って言うわけ。「それ、いつなんですか」って言ったら「4月1日だ」って言うんですよ。「えっ、それ、特番のとこじゃないですか!特番やる枠でしょ?」って。

各務 はい。

横澤 そしたらね、どうも予定してたものが、コケちゃったと。裏にTBSの「ドリフの全員集合」の特番が入っているわけ。

各務 ええ。

横澤 要は勝ち目がないから、スッとコケたらしいんだ。それを穴埋めしろってわけ、突然。ゴールデン(ゴールデンタイム・19時~22時)でそういうお笑い番組が放映されるなんてのは、当時のフジテレビにとっては何年ぶりっていうぐらいですからね。急遽どうしようかって、スタッフみんなで考えて。

 まず、どういうことやりたいんだって言ったら、さっきちょっとお話ししたように、構造改革をしたいとみんな言うんですね。セットから赤い提灯を廃止したいとか、いろいろ意見がありましてね。

各務 なるほど。

横澤 それで「東西対抗漫才大会」はいかにも古臭いから、そうじゃないタイトルを考えなきゃいかんと。そしたら、美術のデザイナー、高橋さんっていうんですけど、その人がね、セットプランを持って来たんです。ラフのセットプラン。そしたら、演者がやる後ろに切り文字で「MANZAI」と電飾で置きたいと、きったなく書いてあるわけ。

各務 はい。

横澤 もうそれ見たときね、4人くらいでぱっと見たんだけど、電気に打たれましたね。「これ、これ、これ、」みたいな。それで「THE」を付けて「THE MANZAI」にしようと。

各務 なるほど。

横澤 で、それを持ってったら「とんでもない」って言われて。

各務 とんでもないって言われた? 

横澤 言われましたよ。こっちもそれこそ「とんでもない」って言い返して喧嘩になって。それで1回目は、妥協案として「THE MANZAI」も生きましたけど、ぐじゃぐじゃ説明が付いたタイトルになってしまったんです※。

※ 1980年4月1日火曜ワイドスペシャル(第1回)「THE MANZAI~翔べ!笑いの黙示録東西激突!残酷!ツッパリナンセンス」

 でも出演者は、とにかく有名無名に関係なく、自分たちが聞いてみて、何かメッセージを感じる人、メッセージ性を持ってる人にしようということで、見て回りました。それで(テレビでは)やったことのないような人を連れてきたんです。それが成功した一つの(要因)。若手というか、今まで全国ネットの放送に出たことのない人たちが出てきたのが、ショックだったんじゃないでしょうかね、第一段階としては。

スタジオは君たちの遊び場だよ

各務 「オレたちひょうきん族」は、当時の、フジテレビにとっての裏番組である「全員集合」※に対するアンチテーゼというか、当時確かに土曜日の夜、圧倒的に強かったですからね。そこにないものを作ろうという覚悟があって、ですか。

※「8時だョ!全員集合」 1969年~1985年、(土)20時~21時。TBS

横澤 いや、そんな高邁な思想もなくてね、ただ集まらないんですよ、人が。忙しくて。特にひどいのが吉本(興業)ね。約束した時間には絶対来ない。もうどんどん(時間が)遅くなるわけ。明け方にまでなっちゃうんです。みんなもうヘロヘロで。これは普通の考えでやっていると、とんでもなく時間もかかっちゃうし、終わらない。

 (出演者は)漫才でネタをやることには多少長けてても、スタジオのバラエティーなんかやったことないわけじゃないですか。漫才じゃないから、やる方も不安なんですね。そういう状態でやってましたから、これはもう根本的に考えを変えようってことで、スタジオはもう、君たちの遊び場だからと。何やってくれても結構ですよ、ということで収拾していったんです。だから、やけくそですよ、そういう意味では。

各務 まあ、今ですから、そういうことをおっしゃられるわけで、当時としてはやっぱり、計算はあったんじゃないですか。

横澤 いやいや。計算があったとすれば、日々知恵が付いてくるんですよ。どっちに振ったらいいかっていうね。だから、どういう計算をしたかっていうと「どっちんこ(強いものとの直接対決)、やめようぜ、どっちんこは」ね。

 タケちゃんマンは人気があったんで、ドリフの長いコントが終わって、ステージが反転して、歌のゲストが出てくる頃に「ひょうきん族」では、タケちゃんマンが始まると。これがもう理想的だってんで、みんな計算してね。大体の分数計算。向こうは生で、こっちは録画ですから、大体サバで計算してやるんですよ。これが一番成功した理由じゃないでしょうか。

 あの強いのにぶつけて、なんて思ってたら、とてもじゃないけど勝てない。で、その理由は何だといったら「俺も見たいじゃない、あっち」みたいな感じで。だからきっと、子どもたちは、ドリフのコントを、20分、25分かな、それを見て、終わった頃に「ひょうきん族」に回したら、タケちゃんマンが見られるっていうのが一番美しくないか、ということで、やったんですね。

さんまの反射神経、タモリの日々の学習能力

各務 しかし、ツイている場合もおありだったわけですね。たけしが、フライデー問題で一時休業してる間に、さんまが出てくるとか。

横澤 そうですね、はい。

各務 そういう、たけしにしろ、さんまにしろ、タモリにしろ、これは将来伸びるぞと、そういう嗅覚みたいなものは、お持ちだったわけですか。

横澤 ううんと、それはね。それぞれみんな、キャラも違うし、持ち味が違うんだけども、なんていうんだろう、反射神経でしょうね。非常にやっぱり早いっていうか、鋭い人たちだと思いました。そういう意味で、話していると、薄っぺらくない感じはすごくありましたね。

各務 三人とも勉強家だとか。

横澤 すごい勉強家ですよ。それぞれ違う勉強のしかただけどね。テレビっていうメディアが何なのかってのを、すごくよく知ってますよね。

 テレビっていうのは、やりながら学習するメディアなんだよね。最初から何か学習したものがあって、それを小出しにしようとすると、飽きられちゃう。伸びないんです。そうじゃなくて、今週はこういうやり方、来週はこういうやり方ってんで、日々学習して、一番妥当な方法を開発した人が勝つみたいなとこじゃないでしょうか。

 だから、今で言えば「笑っていいとも!」のタモリを見てると、日によってボケの日とツッコミの日があるの、微妙にね。それ両方をやってるわけじゃないですか。でも、誰も何とも思わない。しかし本人はかなり意識してると思います。毎日一所懸命見ている人しかそれは分からないかも知れませんけど、変えている。

 それから例えば、さんまなんか一番分かりやすいんですけれど、彼は感覚的には漫才をやっているわけです、どんな番組でも。その、漫才をやるっていう意味は、自分がツッコミで、あとはみんなボケだという考えで、出演者を選ぶわけ。

 自分でツッコミがいがある人、うまくボケてくれそうな人を、共演者として、チョイスしてくる。だからどの番組を見ても大体そうですね。「踊る!さんま御殿‼」※ にしても、「恋のから騒ぎ」※ にしても。

※「踊る!さんま御殿!!」1997年~(火)20~21時。日本テレビ
※「恋のから騒ぎ」1994年~2011年(土)23時~23時30分、のち(金)23時30分~24時。日本テレビ

 だからそれは、変形の漫才だと思うんですよ。彼の場合徹底していますね、ちょっとずつ違いますけれども、そういう番組の作りをしている。彼の場合はパワーがどこまで持続するかにすごく神経を使ってると思います。やっぱり、反射神経じゃないでしょうかね。

「笑っていいとも!」情報は見世物として扱う

各務 そのあと、「笑っていいとも!」ですね。あの中でいろんな発明というか、テレホンショッキングや、ポスター貼りだとか。

横澤 はい。はい。

各務 あれはその都度、思いつかれていくわけですか。

横澤 はい、映画の宣伝ポスターとかね。そういうのですね。

各務 宣伝のポスターとかは、こりゃ、モノになるというんで、そういう形で続けていらっしゃるわけですか。

横澤 いやいや、細かくいうとなんなんですけど、結局少なくともバラエティー番組って一体どんなもんなんだって思うとね、やっぱり情報というものを、どれだけ見世物のようにするかっていう作業だと思うんですよ。

 見世物っていうのは、かなり怪しげな雰囲気もあります、危なそうでもあったり。でもバラエティに関して言えば、基本形はそんなに背筋を伸ばしてやるメディアでもないと思うんですよ。そういう意味でいえば、見世物になるもの、要素、というのはすごく、カリカリしながら大事にしました。結局、映画の宣伝てのは、チンドン屋じゃないですか。

各務 うん。

横澤 いってみれば、来る人がスターであるだけで、基本的にはチンドン屋、ご陽気にやった方がいい、というのが私の持論なんですよ。だから情報を見世物としてとらまえるか、ニュースだと思ってやるか、その違いだと思います。もちろん、ニュースと考えてやる番組の方が多いわけだから、情報を見世物にした瞬間に、スローになるんですよ。テレビがね。

 こう、たたみかけて、いっぱいやろうとするじゃないですか、情報として。ランキングなんかが一番いい例ですけど、ヒューッてやって、さあどうだみたいな。今週のベストテンでございますって、ガァーっと詰め込んで。それがテレビだって考えている人が多いんだけども、僕はけしからんと思っているわけ。

 テレビってそうじゃなくて、もっとゆっくり伝える部分も(あってよくて)、昼間ですしね、そんなに詰め込み詰め込みで、いっぱいの情報をキュッとやるんじゃなくて、ちょっとスローな形で見せる。ショーアップという言い方をすれば格好いいですけども、いわば見世物と考えるっていう、そこじゃないかと思うんです。だから、タモリは非常に品の悪い呼び込みですわ、呼び込み。そういうふうに考えましたよ。あの番組始める時はね。

90年代フジ快進撃のきっかけは「カノッサの屈辱」

各務 フジテレビ(在籍時代)の晩年といっちゃあれですけど「カノッサの屈辱」※という番組を作られましたね、深夜の。

※ (1990年~1991年)日本の消費文化史に起こった出来事を、歴史上の事件になぞらえて仲谷昇教授がレクチャーする、深夜の疑似教育番組。ユニークな発想とスタイルで、当時若者をはじめ評判になった。構成は小山薫堂ら。

横澤 はい、はい。

各務 われわれとしては、よくフジテレビはこういう、題名を見ても何のことだか分からないような番組が出来たなあと感心したんですけど。

横澤 それはね、当時、編成部長っていうのが二人いて。深夜の編成部長っていうのを作ったんですよ、インフォーマルに。まあ、希望者っていうか、一応選んでね。それで、そいつが全権限を持って、余計な人は口出ししないというルールを作ったわけ。

 それで、その深夜の編成部長をみんなで取り囲んで、認めさせたのが「カノッサの屈辱」というタイトルですね。これはおっしゃったように、世界史の教科書をみんなで見て、聞いたことはあるけど、中身が分かんないものはないかって探したんだ。その一番が、「カノッサの屈辱」だったんです。

 で、ホイチョイ※ さんの、馬場さんですからね、元々言いだしっぺは。だから彼のいろんなデータを、くくり方を変えることによって、歴史というか、こんな数年の間のことを大げさに歴史として見る、その見方がとても面白いっていうことですよね。そういう見方の面白さと、一所懸命みんなで言葉を探している番組。だから、言葉遊びみたいな番組でしたね。

※ ホイチョイ・プロダクション 1960年代に成蹊学園に入学した人達のグループで、バブル期に話題となった。グループのうち名前がわかっている一人が馬場康夫(元日立製作所、映画監督、漫画原作者)。元総理の安倍晋三とは同級生。

各務 今から考えると、こういう多メディア、多チャンネル化して、ターゲットがだんだんパーソナルになる時代に対して、先駆的な番組だったんじゃないですか。

横澤 そうですね。深夜帯に番組を作ろうって言った初期の番組ですね。そういう意味では、パイオニア的な意味合いもあったと思います。「カノッサの屈辱」ってまあ、僕も最初でしたので、一応参加してますけど、そのスタッフが、きゅっとずれて「料理の鉄人」※にいって、それでひゅっとずれて、「発掘!あるある大事典」※かな。

※ (1993年~1999年) フジテレビ
※(1996年~2007年)フジテレビ

 で、またずれると思いますけど、何となく雰囲気を持った一つのチームが、時代とともに違う番組を開拓して、それぞれ成功させてるのが素晴らしいことじゃないですかね、フジテレビにとっては。そういう財産がありますよ「カノッサ」には。スタッフのディスカッションはすごかったですからね、ほんとに。それで、なおすごいのは深夜から一歩も出なかったという。最近はすぐ出てくるのが多いじゃないですか。

各務 はい、ええ。

横澤 「絶対駄目だよって、それは」と言ってね。

「ひょうきん族・懺悔の部屋」に毎週抗議の速達

各務 横澤さんの一番基礎にあるのは、大学の卒論が「DKグループの研究」※ だと。 

※ Don’t know group. 世論調査の質問などに「知らない」「わからない」などと答えるグループのこと。

横澤 ああ、すごいですね。各務さん、そうですよ。

各務 書いていらっしゃいますよね。当時確かに、賛成、反対、DKと分かれていたわけじゃないですか。I don’t know. そこに目を付けたのが今のテレビの時代の流れを読みとるのに非常に与してたんじゃないか。そういう感じを受けるんですけど。

横澤 当時は、例えば世論調査があって「分からない」って答えるやつは「政治的に無関心で、ばかものだ」って言われてたんですよ。

各務 ええ。

横澤 そういう論陣を一番張っていたのは、朝日新聞の笠信太郎(1900-1967・朝日新聞論説主幹)っていう人ですね。僕はそれに対して、ものすごく腹が立ちましたね。そうじゃなくて、それじゃ、分からないっていうのは何なのか、とりあえず政治的に無関心かも知れないけども、何かあるんじゃないかというのがそのテーマを選んだ一番大きな理由ですからね。

各務 そこに関心を持ったということが、「ひょうきん族」や「笑っていいとも!」につながっているところがある気がするんですけどね。

横澤 ううん。それはもう、とんでもないへそ曲りだってこともありますよね。

各務 でも、とんでもないへそ曲りであっても、のりを超えないへそまがりだから、通用するんじゃないですか。

横澤 塀の上を落っこちないように、チョコチョコ歩いている感じで、やっぱり中に落ちたらえらいことになる、そういうのはもちろんありますけども。

 今だから話せますけど「ひょうきん族」で「懺悔の部屋」ってやったでしょう(「ひょうきん懺悔室」)。そしたら、土曜日に放送して、月曜日の朝に速達が来てた、速達。キリスト教なんとかなんとかからね、厳重な抗議ですよ。

 神を冒涜し、どうのこうのっていっぱい書いてあった。で、私はそれをどうしたでしょうか、っていうの、いつも言う。引き出しの一番下に入れました、黙って。で、返事を書きました。ちゃんとワープロで打ってもらって。「決して冒涜するものではございません」って、私の名前で返事を書きました、一回。するとまた翌週来た、冒涜だと。もう返事、書かないよ、もう。20枚くらい溜まったね。

 これはね、正しい措置だったか分かりませんよ。考査部持ってったり、編成部持ってったら、多分大騒ぎだったと思います。そのかわり、2回目からキリスト教の十字架を全部取ったんです、セットから。1回目はあったんだけど、2回めからはもう十字架なし。それで続けたんだけど、もし真面目に上層部に上げたりしたら多分パンクしてたと思う。当時だから出来た。今だったら大変ですね、今だったら「とんでもない」と言われる。馬鹿者プロデューサーになりますよ。でも、そうでした、私は、はい。

各務 どうもありがとうございました。

(校訂・市川哲夫 補注 岡田裕克)

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