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ドラマと視聴率~「海に眠るダイヤモンド」「不適切にもほどがある!」の場合は
【ドラマの内容と視聴率にはどのような関係があるのだろうか。芸術性、娯楽性とのかかわりは?長年にわたってテレビドラマをウォッチしてきた放送コラムニストが考察する】
高堀 冬彦(放送コラムニスト)
視聴率とドラマの質
視聴率とドラマの質が無関係なのは誰もが知ること。2020年3月まで主流だった世帯視聴率はその番組を観ていた世帯の割合が分かるだけ。それ以降の中心である個人視聴率も番組を観ていた人の数が把握できるに過ぎない。
昭和中期から平成中期のドラマ界を代表する脚本家だった山田太一さんは生前、「僕は視聴率が取れる作家ではありませんから」と笑っていた。もちろん自分の作品に自信がなかったわけではない。山田さんも視聴率とドラマの質が無縁であることを十分知っていたのである。
山田太一の「早春スケッチブック」
山田さんの代表作の1つにフジテレビ『早春スケッチブック』(1983年)がある。旧作も含めたドラマの人気投票が行われると、ほぼ間違いなくランクインする。このドラマを見て人生が変わったという人もいる。
しかしながら、このドラマの世帯視聴率の平均値は7.9%(※ビデオリサーチ機械式視聴率調査・関東地区、以下同じ)。録画機器が広く普及する前で、ドラマが高視聴率を取りやすい時代だったから、かなり低い数字である。
一方、『山田太一作品集 15 (早春スケッチブック)』(大和書房)のあとがきに山田さんが書いたところによると、このドラマを観た人の中で、支持するとした視聴者の割合(Qレイティング)は72.3%。かなり高い支持を得た。F1層とM1層(男女20~34歳)に限ると、84.6%に達していた。観た人は熱くなるドラマだったのだ。
物語は自分の子供の出産を控えていた恋人の望月都(岩下志麻)を捨てて消えた元カメラマンの沢田竜彦(山﨑努)が、18年ぶりに戻ってくるところから始まる。沢田は無頼な男だった。
都は沢田が消えたあと、平凡な信用金庫行員・省一(河原崎長一郎)と結婚した。ささやかな幸せを手に入れていたので、沢田の出現に戸惑う。
沢田の息子・和彦(鶴見辰吾)は実父の出現に驚き、当初は拒絶するが、やがて絆を結ぶ。一方、和彦を我が子のように育てていた省一はうろたえた。今の生活を奪われることを恐れた。
沢田は自分が迷惑な存在であることは分かっていた。それなのに帰ってきたのはなぜか。和彦は実父の沢田と育ててくれた省一のどちらを選ぶのか。観る側を考えさせずにはいられないドラマだった。
沢田は和彦に多くのメッセージも与えた。
「お前らは、骨の髄まで、ありきたりだ」「なんてぇ暮しをしてるんだ」「人間は、給料の高さを気にしたり、電車が空いていて喜んだりするだけの存在じゃあねえ」「人間ってものはな、もっと素晴しいもんだ」
沢田は死期が迫っていた。和彦に自分の考え方を知ってもらうために帰ってきたのだ。沢田の言葉は山田さんから視聴者に向けて発せられたものでもあった。
山田さんは『早春スケッチブック』のシナリオ本のあとがきにこうも書いている。
「『なんてぇ暮しをしてるんだ』と罵声を浴びせる人間が登場するドラマは皆無といっていいでしょう。見る人の神経を逆撫でするような、そんな人物をひっぱり出してもいいことはなにひとつありません。こうやって書いている私だって、そんな人物は不愉快です」
山田さんはこのドラマに抵抗を感じる人が多いことが分かっていた。いつものことながら、視聴率最優先の作品ではなかったのである。山田さんはあとがきでこうも言っている。
「私を含めたいまの日本の生活者の多くは、そういう罵声を、あまりに自分に向けなさすぎるのではないでしょうか?『いつかは』とニーチェがいっています。『自分自身をもはや軽蔑することの出来ないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう』と。実を言うと、そのニーチェがこのドラマの糸口でした」
山田さんは見る人に人生を見つめ直させるドラマを書いたのだ。見る人が熱くなったのはテーマが大きかったせいでもあるだろう。
芸術性と娯楽性
小説には芸術性を重視した純文学と娯楽性を主眼にした大衆文学がある。制作者の中にはドラマも純文学系と大衆文学系に別れると考えている人がいる。『早春スケッチブック』などの山田作品の大半は純文学系だろう。
小説の純文学と大衆文学について、どちらが上かを決めるのは愚かだ。ただし、売り上げは大衆文学のほうが勝るというのが一般的だろう。取っつきやすいことも理由ではないか。
ドラマも娯楽性の強い大衆文学の作品のほうが、視聴率が高くなる傾向がある。その世界に気軽に入りやすいことなどが理由ではないか。ただし、ドラマの場合も純文学的なものと大衆文学的なもののどちらが上かは決められない。
大衆文学系ドラマの近年の代表作はTBS『VIVANT』(2023年)に違いない。個人視聴率の平均値は9.1%で、世帯平均14.1%。突出した数字だった。
息詰まる展開の連続で片時も飽きさせなかった。考えさせるドラマだった『早春スケッチブック』とは対称的に楽しめた。大衆文学系ドラマの完成形と言ってよかった。
「海に眠るダイヤモンド」が考えさせたもの
近年の純文学系ドラマの完成形はTBS『海に眠るダイヤモンド』(2024年)だろう。高度成長下の長崎・端島(軍艦島)の人々を描いた。
主人公の1人・荒木鉄平(神木隆之介)と恋人の朝子(杉咲花)が、50年以上も離ればなれになりながら、思いを寄せ合い続けた姿に胸が熱くなった。
鉄平が亡くなる前、朝子が訪ねてきたときのために自宅の庭にコスモスの花を植えていたのには目頭が熱くなった。
80歳を過ぎた朝子(宮本信子)は鉄平や端島の仲間が全て死んでいることを知り、意気消沈する。だが、自分の胸の中で仲間は生きていると考え直し、再び前を向いて歩き始める。感動的だった。
だが、視聴率はそう高くはなく、個人の平均値は5.2%。世帯は同8.4%。朝日新聞はこう評した。
「やや苦戦と言える。放送期間中に衆院選(2024年10月27日)を挟んだ影響なども指摘される」(同12月15日付)
評判は滅法良いのに、視聴率が高まらないことを不思議に思ったネットメディアが、「なぜ視聴率が高まらないのか」との特集を組んだほど。
どうして高視聴率にならなかったのか。選挙があったこと、見逃し無料配信動画サービス「TVer(ティーバー)」の普及、録画視聴率の高まりもあるが、視聴率に恵まれにくい純文学系ドラマだったからではないか。
『海に眠るダイヤモンド』は観る側に生き方について考えさせた。『早春スケッチブック』と一緒である。人生を考えるドラマは熱が高まりやすいようだ。誰にでも関わるテーマだからだろう。一方で純文学性の色濃いドラマは重たく難解と思う人もいる。
「不適切にもほどがある!」と宮藤官九郎
TBS『不適切にもほどがある!」(2024年)も評価が極めて高かった。「ドラマ史に残る傑作」(同4月7日スポニチ電子版)とすら言われた。第40回ATP賞テレビグランプリや第50回放送文化基金賞のドラマ部門奨励賞などに輝き、誰もが認める同年のナンバーワンドラマだった。
半面、視聴率には恵まれなかった。個人視聴率の平均値は4.3%、世帯視聴率は7.4%。主な理由はやはり純文学性があったからだと見ている。笑いでコーティングされていたが、人生を考えさせる作品だった。
1986年を生きていた中学校の体育教師・小川市郞(阿部サダヲ)が、2024年にタイムリープしまう。そこで唯一の家族である高校生の娘、純子(河合優実)と自分が、1995年の阪神・淡路大震災で亡くなることを知る。
「オレはいいんだけど、純子がなぁ・・・」(市郞)
市郞の妻・ゆり(蛙亭・イワクラ)は既に病死していた。市郞はがさつな男だったが、家族愛が極めて強く、ゆりの仏壇に手を合わせることを1日たりとも忘れなかった。純子のこともずっと気にしていた。市郞の人生は家族のためにあった。
脚本を書いた宮藤官九郎氏は、昭和と令和の価値観のどちらが正しいのかも問い掛けてきた。むろん、どちらが正しいかなんて決められない。価値観は時代とともにある。これも純文学性だろう。見る側に考えることを求めた。
宮藤氏は笑いの部分ばかり注目されるが、TBS『俺の家の話』(2021年)でも生と死、家族をテーマにしている。2024年には山田さんがオリジナル脚本を書いた『終りに見た街』(テレビ朝日)をリメイクしている。宮藤氏は山田氏を尊敬しているという。
視聴者が宮藤作品に熱狂する理由の1つは純文学性にあると見ている。
<執筆者略歴>
高堀 冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。
1964年生。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。
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