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放送界の先人たち~兼高かおる氏

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【放送界に携わった偉大な先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から「兼高かおる世界の旅」で知られるジャーナリスト、旅行ライターの兼高かおる氏のインタビューをお届けする】

放送人の会


放送人の会とは

 一般社団法人「放送人の会」は、NHK、民放、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に関心をもつ人々が、個人として参加している団体です。

 「放送人の会」では、「放送人の証言」として先達のインタビューを映像として収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めています。既にYouTubeに30人の証言をパイロット版としてアップしております。

 今回「調査情報デジタル」でも先達の証言を紹介したいと考え、テキスト版の抄録を公開いたします。前々回は「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」で知られる演出家の鴨下信一氏、前回は「ニュースセンター9時」の初代キャスター、磯村尚徳氏のインタビューをご紹介しました。

 今後も随時文字ベースで公開したいと思っています。

兼高かおる氏のプロフィール

 テレビ番組「兼高かおる世界の旅」(TBS)で知られるジャーナリスト、旅行ライター。

 1959年にスタートした番組は、当時まだ日本人になじみのない世界各地の国々を旅し、その風俗や文化歴史をわかりやすく紹介していく日本初の本格的海外取材番組であった。

 リポーターの兼高の体当たり精神、細かい心遣いや教養に裏打ちされた取材姿勢が、珍しい映像と相まって多くの共感を呼び、1990年の終了まで実に30年以上も続く歴史的長寿番組となった。

 駆け巡った国々は150か国以上、ケネディ大統領など著名人との面談、極地で暮らす人々との語り合い、ジャングル踏破、気球でのアルプス越え、などなど、兼高の挑戦的な取り組みが番組を支え続けた。

 1971年女性として初めて南極点に到達。1991年文化庁芸術選奨文部大臣賞受賞。紫綬褒章受章。2019年没、享年90。

本証言について

 2011年4月27日、兼高かおる氏オフィスにて収録。

 聞き手は、今野勉氏(演出家・脚本家、元TBSプロデューサー。テレビマンユニオン創設者の一人。現・放送人の会会長)。校正・注釈は、TBS出身の岡田裕克氏。

兼高かおる氏の証言(抄)

きっかけは世界一周

今野 僕はTBSに1959年に入ったんですけど、そのちょっと前に、兼高さんが飛行機で世界一周をやったというニュースが大きく報じられてですね、そのことがきっかけになって、放送の番組に携わるようになったって聞いてますけど。

兼高 はい。1958年に世界一周をいたしました。それは世界一周を70時間以内でできるかっていうのが目的で。

 (ある時)雑談をしてまして。航空会社の人とか、ジャーナリストとか、今まで言わなかったことも雑談の最中に出てきますね。それで世界一周70時間切れるって言った。それは面白い、と。その中の一人が、雑誌の「週刊新潮」。新潮社がすぐ乗ってくれて。スカンジナビア航空、航空会社のほうも協力的で。

 一応は東京出て、以前はソ連の上空は飛べませんから、南周りを飛んで、そしてコペンハーゲンで乗り換えて、アラスカ経由で日本。それももうぎりぎり、乗り換えを、向こうも私が乗り遅れないように待っててくれたりして。それで、あの、無事に。73時間ぐらいで結局、世界一周ができるということを証明したわけですね。

今野 その時、兼高さん、お仕事は何をなさってたんですか。

兼高 書いてる方ですね。私、アメリカの留学から帰って来て、日本では英語を使うチャンスないですし、使わないとどんどん忘れますし、外国人が日本にいらして観光とかそういう方などをインタビューしたり、そういう記事を書いてました。

番組が出来るいきさつ

兼高 何か大事(おおごと)になってしまったと思ってたら、TBSからラジオの番組やらないかっていう話がありまして。この番組が割合好評だったもので、テレビをやらないかっていうことになって。

 その頃のTBSの社長は足立正さん(1883 ~1973 ) (※)で、商工会議所の会頭でもいらっしゃいまして、日本の将来は経済と外交、外国との貿易が大事だと、外国を知ることが、日本を知らしめることもなる、というようなことで、早かったですね、決断。(※ TBS 初代社長)

 そして、それをバックアップしてくだすったのが、あの、パンアメリカン・エアウェイズ(※)なんですが。(※ パンアメリカン航空。1927年創業のアメリカを代表する航空会社だったが、1991年に破産)

 日本にいらした、極東広報支配人。日本だけじゃなくてアジアですね。その方がミスター・ジョーンズ(1915~2005)(※)とおっしゃって、皆様よくご存じの、あの、お相撲の時の千秋楽に「ヒョーショージョー」って言った方。(※デヴィッド・ジョーンズ。当時のパンアメリカン航空極東地区広報担当支配人)

 スタッフは私とカメラマンとTBSから、名前はディレクターで来るんですけどね。パンナムでとりあえず行ける所、15カ国、一番初めに行った所、110日ぐらいですね。その3人で仕事始めまして。その頃はモノクロです。

今野 そうでしたね。

いよいよ取材が始まる

兼高 日本で初めての海外取材ということで、それで経験者がいないのですから、どなたにも聞くわけにもいかない。

 私が出来ますことは向こうの方と話をして。私はたくさん本を読んでましたね、外国に関する。ですからその知識を混ぜながら、外地でもって、こういうものがありますかって聞く。

 日本に入ってる知識は非常に古い。活字で知った知識でなくて、見た目でこれを日本に知らせようというようなことで。当時のカメラマンは、フィルムですから100フィートのフィルム缶、これを1日撮り回るのに2,000フィート持って。それを肩に、バッグに入れて。カメラはベル&ハウエル(※)。(※アメリカの映画用35mmフィルムカメラ等の機材製造販売会社)

今野 はいはい。

兼高 一番いいですね。それから(照明の)バッテリー、重いんですよ。これを持って取材に回る。

今野 最初に訪れた国はどこだったのですか?

兼高 イタリーです。私はずっと着物を着て、ローマで飛行機から降りる時、まさにオペラ「お蝶夫人」の格好でございましたね。着物、そして日傘か何か持って。それをあまりのカメラマンがたくさん下で、降りてくるのを待って、写す。びっくりしましてね。私、写真撮られるの大嫌いなんですよ。それでも嫌っていうわけにもいかないし、立ちすくみましたけど。

今野 で、15カ国分を放送して、それで、追加っていうふうになったわけですね。

番組スタイルがどう作られたか?

今野 最初の頃、音声は帰って編集してからナレーション入れなきゃいけないわけですね、音楽かけたりとか。それはどういうふうになさってたんですか。

兼高 初めの頃は私はあまりタッチしてません。私は素人ですし、テレビ会社はそれぐらい全部すると思っていましたからタッチしてなかったですね。編集して30分の番組を作って、その編集したのを私が見て、それから、放送作家の方に(ナレーションを)書かせるわけです。放送作家に書かせて、それをアナウンサーに読ませて、それから私にちょこんと質問する程度。

 ただ放送作家の書いたものというのは、古い。それから現実、行ってない。行ってない人がフィルム、現実の絵を見せているんですから、合わない。合わないんですね。で、私は初め黙ってたんですけど、やっぱり、あんまり私、おとなしくないもんですから。

今野 うん、うん。

兼高 これが違うのどうのとあまり言うもんで。「兼高さんが行ったんだから兼高さんがやるのが一番いい、正しいじゃないですか」って。そうするとTBSも、ちょっとどうしようかなと思ったらしいですけど、、、私と芥川さん(隆行・1919~1990)(※)の対話になったのです。(※1951年、TBSアナウンサー1期生として入社。1959年に退社して、フリーアナとして活躍した)

今野 同時録音がない時代に、撮ってきた映像を見て、その映像見ながらおしゃべりするっていいますかね、掛け合いをやる。あれが新しいスタイルで、非常に受けたと思うんですけども。

兼高 今ちょうどCSで1960年頃のをやってるんですね。聞いてますと、芥川さん、まだおとなしいんですよ。もちろん私もおずおずしてやってますけども。(芥川さんは)上手に冗談を言って、大人の会話。こっちはもうリポートみたいなこと言ってるわけです。

 彼は大人の会話で出てくるから、非常にそれから面白くなって。二人で真面目なこと言ってリポートになってたらあんなに面白くなかったと思います。だからとってもいいパートナーを得ました、私は。

今野 長くやってると、いろんなエピソードがあると思うんですけど。

兼高 いや、そんなりっぱなエピソードないですけど。そうですね。芥川さんは私があんまり真面目にならないように、だと思うんですけど、私が一生懸命しゃべってると私のノートの所に「デブ」なんて書くんですね。からかうんです。口では全然違うこと言って。それで私を元気にさせるという。上手な方でしたね。それで彼が「デブ」って書いた時、こっちは真剣にやってるから蹴飛ばして。そうすると、何とかってまた書くんですね。ちゃんとナレーションはやりながら。

危険な目にも遭った

今野 取材でやっぱり、その頃相当苦労なさったと思うんですけども。

兼高 苦労っていうのは、私はないですね。

今野 そうですか。

兼高 ええ。あの、熱中してますからね、人が変わりますね。

今野 兼高さん自身が、危険に陥ったとか、そういう経験はありますか。

兼高 人から危険な目に遭ったことないですけども、ジャングルの中に入っていって毒草があるっていうこと知らなかったですね。動物が出てくれば危ないっていうのあるかもしれないけど、大体動物は人間の足音からいなくなります。ある意味でちょっと怖さ知らずという無知さ加減がプラスしましてね。

 ソロモンで、あの、裸足になる。ぬかるみもあるし、水がありますから。今でいうビーチサンダルとかいう。私どもの世代はゴム草履って言うんですけどね。あれで入っちゃうんですね、ジャングル。一応は棒みたいのは持ってるんです。それで草を、こう、どけながら歩いて。そしてホテルに帰って寝て、ホテルなんてものじゃないですけどね。そうしましたら夜明け前にすごく足が痛くなって、刺されたのかな、傷つけたのかなと思って見ても、赤くもないし、腫れてもいないんです。普通なんですね。

 ものすごく痛くて。それでお医者さんっていうのに行ったんですけど。小さい声で、わたしが、「これ痛い、痛い。」「ジャングル、何したか」って(聞かれて)「ジャングル行きました」。そしたら、「生きてるからまだいいじゃないですか」って言うんですよ。「は?」って言ったら、笑って、「現地人ですら死ぬことありますよ」。草、毒の草なんですね。そういう目に遭いました。

今野 長い間の取材で病気になったことは。

兼高 あの、長い間でお腹こわしたの、二度だけです。

 やっぱり、恵まれてましてね。あの、戦前育ちっていうのはあんまり悪いもの食べて育ってませんから、丈夫なんですよ。何しろ、画家であろうが、音楽家であろうが、政治家であろうが、健康が第一です。そうすれば無理が利きますね。

 ですから、スタッフでも初めの頃は病人出たことないですね。特にカメラマンは病気になったのいませんね。ええ。やっぱり芯がしっかりしてると。 

 だんだん若手が出てきて。風邪引いたとか、お腹どうのという。私、その場でそんなだらしがないとか怒ってもしょうがないから、もうそれは置いてね、カメラマンと2人で仕事に行きましたけど。

全部自分でやる!

今野 大体どんな日程でやってたんですか。

兼高 あの、平均すればの話です。短いこといえば、8日間ぐらいだけの取材の時もありますね。飛行機で行って撮ってくるぐらい。オンエアするものがなくなってはいけないから毎週です。ですから行ったり来たりになるんですけども、平均すれば40日出かけて、で、3週間は日本でっていうような感じですね。

今野 結構40日って長いですね。

兼高 あっという間ですねえ。

今野 あの、今だとプロデューサーとかアシスタントプロデューサーとかいてですね、海外の対外的な交渉とかやってくれるし、現地に行くとコーディネーターがいて。

兼高 ゼロです、そういうのは。

今野 海外とは電話で交渉するわけですね、その頃は。電話でもやらなかった?

兼高 ぶっつけ本番。

今野 あ、いきなり行っちゃうんですか。

兼高 ええ。時代がどんどん変わりましてね。ぶっつけ本番で国へ入れない所がどんどん出てきました。機材持って入りますでしょ?それのリストを出さないと駄目だとかね。取材は駄目だとか。そういうの出てきました、後から。でも初めの頃はないですね。

 例えば、まあ、インドとか。インドネシアもそうだったんですけど、うるさい。機材の持ち込みにうるさい。賄賂です。一人一人にやって通関していく。そういうことも私、しましたし。あの、そうでもしないと時間がない。

 それと、現地で電話というより、人ですね。もしそこにパンナムがあればパンナムの人からいろんな情報を聞くし。うまい具合に良い人に会うんです、向こう。良い人に会って、そういう人の家に呼ばれたり、どんどん知り合いもできるし。情報は入ってくるし。

 一度TBSじゃない所の外国取材にね、連れて行かれたんです。それもディレクターとカメラマンと音声、それからまた向こうでもつくんですね。ほんとに全部やってくれるんですね、向こうにいる人が。何しに?ちょっとつまらない。発見がないですね。

 コーディネーターっていうんですか、その人がこれから何時に、これから今どこどこ通って何時に着くから、この用意はどうかって全部聞いてやる。だから楽っていうか、私はつまらないと思いました。

今野 いろんな国にいらっしゃるわけだから、女性であることで困ったことっていうのはありますか。

兼高 困らないですね。困らないどころか、例えばイスラムの地区では女を撮影させませんね。で、女も見せないし。そういうところに、私が入って、カメラマンします。そこには怒る男の人もあまり入って来ないから。女の私が、女の人たちを撮影出来ましたし。女だから困ったっていうことは、あんまりないですね。

今野 そうすると兼高さんがカメラ回したんですか。

兼高 ええ、アフリカで、ナイジェリアでね。イスラムの地区がありまして、そういうとこに王様がいるんですね。そこに行った時はナイジェリアの女性が、パンナムの女性なんですけど、この女性が付いていてくれて、その人はまたすごく堂々とした人で、その王宮にさっさと入ってって、すごく高い塀に二重に囲まれてる王宮なんですね。私、大体いざとなったら逃げるときの道っていうのは一応見ていくんですけど、これは逃げられないなというような頑丈な中、どんどん入って行きましてね。

 そしたら、王様がいらっしゃらない。王様はいらっしゃらなくて、夫人。夫人がいらっしゃる。じゃ、その夫人に会わせてくださいって言って入って、その撮影もしたんですね。そして出て来る時になったら、王様、ちょうど帰ってらした。危うしと思って。それでも何となく、あの、カメラを別に、こう見せないようにしててね、それで出てきましたけど。お土産までいただいて。人も良かったです、昔はね。

今野 ぶっつけ本番であることのほうが逆に、ややこしいことにならないという。

兼高 ぶっつけ本番のほうが生々しいです。コーディネーターをつけて行ったのは、もうちゃんと用意して待たれている。私のはもう人の事実、どういう生活をしてるかというような現実的なのを撮りに行ってるので、用意されたら困る。お客様迎えるとき、全部きれいになってるけど、いないとき、無茶苦茶になってたりする。そのいないときにバッと行ったところが現実的。

今野 今、もう、そういうやり方が、なかなか出来なくなって。

兼高 難しいでしょうねえ。

独特なナレーション

兼高 あの、私、しゃべるの遅いの。例えばこのグラスの中の水は単なる水でなくてどこどこの滝のを取ってきた特別の水だというの、説明する時に、それを言ってるとワンカットじゃもう長過ぎてみっともない。ダレちゃいますでしょ?バランスも崩れますでしょ?
 
 東京に帰って編集して短くして、その時間に入れる言葉でないと。現地でやったのは結局、私のしゃべるのが遅い。それをずっと映していたのでは30分の番組の何分の一かをそれに取られちゃうようなことがある。まあ、結局それで止めました。
 
 それとですね。向こうで聞いた情報は駄目。私が日本に帰って来てから、その情報は全部調べ直しますから。ほんとに何百万という人が見てる番組は、嘘つけないですから。嘘ってことないけど、間違いは言えません。特に学校の先生が子供に見るように言ってた番組ですと、そういう時に間違ったこと言えませんから。
 
今野 僕ら、兼高さんの番組を見てて兼高さんの日本語がとっても、こう、昔の日本語で美しくってね、あんまりせせこましくなくて、おっとりしてるってのかな。そこが面白かったという、それが今、記憶に。
 
兼高 そうなんですの。もうね、いくら早く、もう必死になって早く自分でしゃべっていても遅いんですね。ですからいつも画面から外れるんです。あれにはね、自分でも嫌でしたけどね。どうしても早くならなくて。

撮影はあくまでフィルムで

今野 (撮影は)一度もビデオは使わずにフィルムで通した、ということなんですけど、それは何かお考えがあって。
 
兼高 一度ビデオが出来ましたとかいって、使いますというので持って来たカメラマンがいましてね、それが取材中に壊れましたの。直せないですね。直せないのと、そこにカメラはないような島に行ってたもんですから。結局撮影出来ない。そういうこと一度あったら、もう結構です。あの、完璧にこれは大丈夫だっていうものしか使わない。
 
 古いって言われればそうかもしれないけど、古いものでも悪いものだったら使ってません。ですから、あの、ベル&ハウエルって一番いいですね。大体、電気なんか要らないし。小島君(※)、覚えてらっしゃいます? 小島さんもいいカメラマンでね。(※小島明・TBS映画社のカメラマン)
 
 あの、長旅の時、4台持ってきましたね、ベルを。そして、スプリングが壊れちゃうんですよ、いくら古いものが良いと言ってもね。(でも)それは直せるんですね。私はそういう技術何も分かりませんけど、カメラマンはどっかに自動車の修理工場ないですかって言って、自動車の修理工場行って、何とか言って直させましたね。
 
今野 温度とか湿度に弱かったですからね、ビデオのカメラはね。
 
兼高 ああ、そうですか。壊れたら直せないですね。二度とその場所に撮りに行かれないんですから。カメラが生命で行ってるのに、壊れたらだめじゃ困るんですね。 

150か国へ

今野 結局何十か国というか、国の数でいうとどのくらい。
 
兼高 取材したのは150ぐらい。
 
今野 150か国っていうと、もうほぼ全部に近いですね。今、少し国が増えてますけども。
 
兼高 当時っていうのはね、始めた時は90ぐらいですから。どんどん増えてる。どんどん割れてく。地球が大きくなったわけじゃない。
 
今野 入れなかった国ってありましたか?
 
兼高 やっぱりソ連圏です。
 
今野 ああ。あの、例えばベトナムとかそういうとこですか。
 
兼高 入れました。ベトナム、何べんも行ってます。 それこそピストル持たされて、寝るときは。
 
今野 どうしてですか?
 
兼高 まだベトナム戦争やってる時。で、ほんとに点と線って、ああいうことでね。結局、アメリカのいる所に入りますでしょ?と、村と道はアメリカがちゃんと守ってるけど、畑はもう違いますからね、点と線で。もしも襲われた時のためにって言って、夜、ピストルを預けられて、身を守るか何かね。でもね、うっかり間違えて射っちゃったらいけないから、ちょっと離れた所に置いて。何にもなかったですけど。
 
今野 結構危険なとこ行ってますね。
 
兼高 うん。でも危険とは思わないわね。その時の処理の仕方をね。やっぱり、ほんとにぶつかったときにどういうふうに処理するか、そのときの頭ですね。教わった通りにいかないから。だから、機転の利かない人連れてるときのほうが危ないですね。ええ。大体カメラマンっていうのは、とっさに動ける人が多いですからね、全部とは言わないけど。
 
今野 今でいえば、例えばミャンマーとかね。
 
兼高 入りました。ミャンマーは、いい時代の時にね。私に飛行機まで出してくれました。取材に来てくださいっていうんで、見に来てくださいと言われて。
 
 あそこ、行った頃は滅茶苦茶でね、あの、トップの人がゴルフがお好きで、例えばゴルフの球は90円だけど、電球は100円とかね。自分の使うものはみんな安くして、庶民が使うものは値段が高い。ビルマはお米の国なのに、庶民にお米が無くなったっていうこともあってね。
 
 やっぱり政治、政治の重要性というのも、おかげさまであの旅で習いました。政治次第でその国の人が貧しくなる。貧しくなって、苦しくなる。お米がある国なのにね。ある国なのに、お米が高くなってしまう。それがトップの人の趣味でそうなっちゃ困るんですけど、そうなる。政治っていうのは大事、大事なものですね。
 
今野 北朝鮮はいかがですか。
 
兼高 入ってないです、北朝鮮。あそこね、板門店ってあります。板門店は1960年ぐらいに行って見てます。その時に面白かったのは板門店から北のほうを見ますでしょ? もう大体ソ連系統、共産系統って、必ず双眼鏡持ってるんですね。そして、しょっちゅう双眼鏡見てるんです。
 
 こっちも双眼鏡持って見てて、こうやって手振ったら、向こうも手振ってました。あれ?と思いましたけど。西独と東独の時もそうなんです。でも、初めて行った時はベルリンも(東西に)分けてなかったもんですから(※)。(※ベルリンの壁は1961年、東ドイツにより作られた。「兼高かおる世界の旅」が始まったのは1959年)
 
今野 あ、そうですか。壁が出来る前。
 
兼高 はい。ないです。ですから車で入りました。ほんとに、日本が戦争に負けて焼け野原になってますね、その姿でしたね。西ベルリンはもうどんどん発達して、今の日本みたい。ところが東のほうはショウウインドーが汚れてて、中は空っぽ。そして通りだけはビルがあるけど、その裏は野っ原、みんな壊れたまんま。
 
 だから時代の変化。私のメリットというか、私は年中、一年のうちの半分はああやって回って撮影で歩いてましたでしょ? 国と時代と生死とか、そういうものの変化が見られるんですね。いかに人間次第で、こう変わっていくかっていうね。

行ってみなければわからない

今野 映像で撮りに行くと、新聞とか雑誌で伝えられた、あるいは本とかでね、書いてあることが何でこんなに違うんだろうっていう、ちょっと不思議に思ったことがあるんですけど。
 
兼高 さっき申し上げたように、私も読んだり聞いたりしたことは、行ったら無かったりする。文字で書かれたことっていうのは書いた人の印象で書かれている。例えば私がよく色で言うんですけど。黄色、これを黄色と言われた時も、どんな黄色?自分が思う黄色ですよね。だから文字っていうのは、想像力は出してくれるけれども、実際のものじゃない。だから見なくちゃいけない。
 
 今の若い人たちが外国に行かなくなったというのは、これは島国日本としては大損失なんですね。やっぱり世界を見ないと。この国はどんどんアイソレート(※)されますよね。(※孤立させる)
 
今野 百聞は一見にしかずっていうけれど。
 
兼高 そうです。私は言ってるの、映像は、例えば「兼高かおる世界の旅」は兼高かおるの見た目。だけど、あなたは行って、あなたは自分の目で見なさい。自分の目で見ることです。(自分の)目で見れば、自分の考えも出てきますからね。(了)
 

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