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「ポリコレ」考――「ポリコレ」と「表現の自由」との共存は可能か

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【「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」のもつ本来の意義とは何か。「表現の自由」との関係は?さらにその先にある新たな可能性を考察する】

志田 陽子(武蔵野美術大学教授)


はじめに

 近年、日本でも「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」という考え方が社会に広まりつつある。これによって表現者の間に萎縮ムードが広がっているとの指摘もある。とくに「ポリコレ」という略語を使う場合には、「表現の自由」にとって厄介なあら探し現象、というイメージで語られやすい。

 しかしこの「ポリコレ」をそのイメージでのみとらえるのは一面的にすぎる。そこで「ポリコレ」がもつ本来の意義と、これが行き過ぎた局面とに分けて考察してみたい。

ポリコレ、本来の社会的意義

 「ポリティカル・コレクトネス」は法律用語ではない。将来これが法規制や放送・出版業界やプラットフォーム事業者の自主規制ガイドラインの中に組み込まれてくることがあるとすれば、しっかりした定義を共有する必要があるが、今の段階では、厳密な定義をすることなく、社会現象として把握しておくにとどめる。

 これは、ある表現に対して、《法的に違法というわけではないが、平等社会や暴力・虐待のない社会を目指すという根本的な政治課題に反するため、不適切だ》といったことを指摘する言葉だ、と言っていい。

 とくに識者・公人レベルの人物が公的な場や教育現場で発言するときには、そうした政治課題を理解していることが求められるところ、これに反する表現が出てきたときに、そのことを指摘・警告するために使われてきた言葉である。発言者やそれを漠然と受け入れてきた一般社会に気付きを促す対抗言論、と位置付けることができるだろう。

 アメリカでは1960年代に公民権運動が活発化し、差別を受けてきた黒人や女性が、これ以上の差別を甘受しない、と声を上げる運動も活発化した。ポリコレという言葉は1980年代ごろにアメリカ社会の前景に出てくるようになったが、その考え方自体は、こうした公民権運動にルーツがあると考えられる。

 これはとくにアメリカが「表現の自由」を重要視し、表現への法規制に慎重な国であること(そうした裁判理論が確立していること)とも結びついている。ある差別発言について、「それは法的にはアウトではないが、アメリカの政治課題・政治道徳に照らして社会的にアウトだ」と警告を突きつける表現というものは、マイノリティがマジョリティと対等な立場で相手に気付きを与えるために、重要な役割を担ってきた。

 日本でも、たとえば2020年、元首相で当時オリンピック実行委員会という公的な立場にあった森喜朗氏が、「会議に女性がたくさんいると会議が長引く」という趣旨を否定的に語り、そういうタイプではない女性のことを「わきまえ」た人々であると褒めることによって、女性蔑視発言として物議を醸すこととなった。

 またもっと昔には、アジア系の外国ルーツの日本在住者を「三国人」と表現したり、LGBTQについて(文脈から頭が、ないし思慮が)「足りない」と発言した故・石原都知事の発言も、多くの批判を受けた。

 さらにここ数年の杉田水脈議員のLGBTQに対する「生産性がない」発言、朝鮮やアイヌの文化を伝承する人々の服装・外観への揶揄発言なども問題視されている。これらは、アメリカだったら、「ポリティカル・コレクトネス」に反する発言の典型例として扱われるだろう。

 こうしたことは、傷ついた、看過できない、と感じた人が声をあげないと、発言者自身がその問題性に気づかないことが多い。

 なぜなら、その発言の対象ないし標的となった人々と日ごろ心を通わせるような接触がなく、その人々を共感不能な「他者」として敵視したり揶揄したりすることを会話のネタとして気楽に楽しんでいる《身内》同士の話しぶりに慣れてしまうと、その発言の社会的な問題性に気づくことが難しくなっていくからである。その気づきを促すのが「ポリティカル・コレクトネス」の役割である。

 だから私たちは、このことを揶揄的に「ポリコレ」と呼ぶ前に、まず、「ポリティカル・コレクトネス」のこの社会的意義を理解しておく必要がある。以下、筆者は、揶揄的なトーンではなく、文字数節約のために、「ポリコレ」と略記する。

正義の名の下に暴走しやすいポリコレ~だからこそ本来の意義を確認しよう

 近年、ポリコレは、SNSを中心に「炎上」という形で社会の前景に出てきている。不快な作品の上映を妨害したり、表現者個人を激しく攻撃したりして、言論空間から、あるいは社会から排除しようとする動きも見られるようになった。この動きと、先に見た「ポリコレ」本来の意義とは、分けて考える必要がある。

 「ポリコレ」は、たしかに上記のような行き過ぎを起こしやすい。しかしその前提には、マジョリティ社会の「聞く耳」のなさ、揶揄で受け流す不誠実さ、という問題も絡んでいることに注意したい。

 不利な立場にある者が平等な権利や扱いを得るためには、周囲の先入観(「わきまえ」として期待されている沈黙や作り笑いなどの役割演技)を跳ね返すために、相当のエネルギーが必要となる。このエネルギーを発揮しようとするとき、今までの我慢や溜めてきた怒りのエネルギーが暴発し、「表現」の一アクターとしての適切な限界点で止まれなくなるということは十分に理解できる。

 このような抑圧が先にあったことを、社会は前提として理解する必要がある。とくに人として正当で真剣な承認のニーズを揶揄や侮蔑をもって封じられた経験のある人の、《どうせ和解不能なのだから相手を言論空間から追放する以外にないのだ》といった不信感を伴う「ポリコレ」指摘発言は、その不信感を与えてきた経緯を社会が理解しないと、対話不能のまま言葉の暴力の応酬ループに陥る可能性が高い。

 一方で「正義」が暴走を生むケースも見られる。「正義」も「承認欲求」も、それ自体は決して悪いものではなく、個人と社会を前進させるために必要なものではある。しかし、なぜか「正義」の名目を手にすると、人は他者を揶揄したり侮蔑したり、過度の敵視・攻撃をしたりすることを自己に許しがちになる。それが承認欲求と結びついて、お祭り感覚で公開処刑のような不適切バッシングに参加する人々を呼び込み、行き過ぎた誹謗中傷を大量発生させやすい。

 その結果、SNSでは、不適切な発言を指摘して正すのでは足りず、「それを言った者」「そういう人を出した集団」を徹底的に糾弾して言論空間から排除する、あるいは言論の足場となる職業的立場を奪おうとする、といったことにエネルギーが集中しやすくなっている。こうした動きを「キャンセル・カルチャー」とも呼ぶ。

 「ポリコレ」を理由とした「キャンセル」も、「気づきを促す対抗言論」と言えるところまでは「表現の自由」によって保護される批判表現なのだが、議論抜きに相手の発言資格や職業資格を奪ったり、表現活動(美術作品の展示など)を物理的に中止させようとしたりする沈黙強制・不可視化強制は、法の限界を超え、業務妨害や脅迫・強要などの不法行為に問われることになる。

双方に必要な、覚悟とリテラシー

 こうしたポリコレ批判やキャンセル・カルチャーに嫌気がさして、社会的発言を控えてしまうことを「萎縮」という。自分の発言を、人を傷つける不用意な表現がないか注意し、本来の発言目的に合うように整えていく作業は、必要な校閲であり「萎縮」と呼ぶ必要はないが、発言したい本来の内容を「ポリコレ非難を受けるかも」と恐れて出せない気分になることは、「自己検閲」とも「萎縮」ともいえる。

 こうした悩みに直面したとき、表現者それぞれが法律リテラシーを身につけておくことは重要である。ポリコレ自体は「法的に違法」ではない不適切性までを含む広い概念ではあるが、ある発言が炎上した際、その表現に法的な意味で問題がある場合もある。プライバシー侵害や名誉毀損や肖像権侵害、侮辱に当たる表現があったときなどである。こうした場合には、削除する、謝罪する、裁判の判決に服するなど、真摯に対応するしかない。

 一方で、違法ではないが「不快だ」「不適切だ」と指摘された場合は、表現者の側が、なぜその表現をしたのか説明できるようでありたい。指摘を受けても踏ん張るべきだという理由が表現者側にあるのであれば、反射的に削除・撤回する必要はない。歴史を扱う表現や性的表現には、常にそうした覚悟が必要だろう。

 逆に、覚悟なしに「笑いがとれそうだから」という安易な遊び感覚で、他者を侮蔑的に扱う表現や不必要に性的に描く表現を選んでしまっていた場合には、そこに踏ん張る理由や価値はなく、ポリコレ指摘を受け入れるしかないことになる。嫌がらせ目的などであれば、なおさらである。

 およそ表現というものは、誰かを傷つけたり不快にさせたりすることを避けられない。このとき、誰かを不快にさせているという事実と「表現の自由」の価値とを比較考量し、どうするべきかを主体的に考えるためにも、表現者には、「表現の自由」の意味と価値、そして自分がこの表現をしたいと思う理由を、日ごろ考える姿勢を身に着けていてほしい。

 そして、受け手がポリコレ批判をする際には、不快に思われる《部分》に反射的に反応せず、表現の全体や文脈を見る必要がある。たとえば今では高い評価を受けている「ヨイトマケの唄」も、一時は放送自粛の対象となっていた。「ヨイトマケ」という単語や、歌詞の中に登場する「貧しい土方」という言葉は、そこだけを見れば、不適切批判を受けやすく、コンテンツ・モデレーションの必要な言葉であるように見えるかもしれない。しかしこの歌の全体を通して聞いてみれば、それは誤りだと理解できる。

 そうした「切り取り」による炎上は、2019年の「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」について、極端な形で起きた。筆者も、「差別表現問題」について考察するという内容の授業の中で、遅刻して入ってきた学生から板書の単語について誤解され、「差別表現を教え込む不適切な授業に抗議し、この科目の教員の交代を希望する」旨の手紙を受け取った経験がある。

弁証法的共存は可能か

 最後に、「ポリコレ」の本来の意義に戻って、その可能性を考えたい。

 「思想の自由市場」論に基づいて考えれば、自由市場の「土俵」で、表現者と批判者が戦って勝負をつける、という考え方もある。しかし筆者は、論破した者が論破された者を土俵からはたき落すような勝敗の発想ではなく、「弁証法」の発想で自由市場論を理解したいと考えている。

 つまり、ある表現や考えに対立する考えがあるとき、そのせめぎ合いの中からより良い表現や考えが生み出されていくことを期待し、そのプロセスを支える土俵として言論空間というものを守る、という考え方である。

 この考えに基づけば、表現者の側は抗議を聞いて、先のような説明をすることができる。抗議する側が納得することもあれば、表現者の側が抗議を受け入れて自分の表現を修正したり、取り下げる場合もありうる。

 そうやってより良い道を探るプロセスとして、ポリコレ批判というものを位置づけることができるのではないか。そのためには、表現者の側も抗議者の側も、勝敗の発想にとらわれず自分の思うところを表明し続ける「表現の自由」が保障されていること、ある表現を言論空間から排除する方向よりも、より多くの意見や表現によって納得や発展を目指す「モア・スピーチ」の考えを優先すべきことになる。

 《言うは易く、行うは難し》で、このような言論空間を確保するためには、自由放任だけではすまず、多くの知恵やルール共有、プラットフォーム事業者のコンテンツ・モデレーションが必要になってくるだろう。本稿では、その《はじめの一歩》のところを整理してみた。

<執筆者略歴>
志田 陽子(しだ・ようこ)
武蔵野美術大造形学部教授、東京都立大学システムデザイン学部客員教授。 
1961年東京都生まれ。早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(法学)。日本女性法律家協会幹事、憲法理論研究会運営委員長、日本科学者会議共同代表、東京新聞「新聞報道のあり方委員会」委員、NHK放送文化研究所委員会委員。
主著に『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)、『表現者のための憲法入門』(第2版)(武蔵野美術大学出版局、2024年)

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