メディア・リテラシーは処方箋になり得ない
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メディア・リテラシーは処方箋になり得ない

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【氾濫するフェイクニュースに対し、「メディア・リテラシー」の重要性が叫ばれるが、それは正しい対策なのか。新たな「知識のよりどころ」を構築するにはどうすべきか。そしてそのとき、マスメディアに求められるものとは】

小寺 敦之(東洋英和女学院大学教授)

 「新聞やテレビに比べて、ネットメディアの信頼度は低い」というように、人々のメディア利用が「マスメディア-ネットメディア」という構図で語られることは珍しくない。しかし、マスメディアのコンテンツがインターネットという回路で多様に展開されていることは、この境界線がもはや無いに等しいことを示している。

 「ネットがあれば新聞やテレビは要らない」との声が聞かれるのも、マスメディアのコンテンツがネット上で意識されていないことの現れである。NHK放送文化研究所が2018年に行った調査では、ネットニュースの配信元については「意識しない・わからない」が圧倒的に多いことが示された(『放送研究と調査』2018年12月号)。個人発信の記事やキュレーションサイト、そして新聞社が時間をかけて取材したニュースが同等に扱われるような情報環境で私たちは生活しているのである。

 さらに、上述したNHKの調査からは、ネットメディアで事足りる状況では、とりわけ若者はそれ以上の情報を求めないことを示唆するデータも示されている。マスメディアに触れない人々の増加は、多様なメディアが比較されて選ばれるという状況もなくしているのである。

メディア・リテラシーへの期待と幻想

 メディア・リテラシーの重要性・必要性が叫ばれるようになったのは、こうした情報環境と無関係ではない。

 圧倒的な情報量を持つマスメディアが独占的であった時代には、マスメディアが「知識のよりどころ」の役目を担っていた。しかし、知識の流通が多様になったことで、マスメディアの相対的地位の低下が生み出された。

 一部のネットメディアによるマスメディア批判や、フェイクニュースと呼ばれるデマ(造言)の拡散も、本来であれば人々の社会生活を利するはずの情報環境そのものを「信用ならぬもの」とした。豊富な情報が広がっている世界であるにもかかわらず、私たちがネット社会で直面しているのは「知識のよりどころ」の喪失なのである。

 こうした状況下で白羽の矢が立てられたのが、メディア・リテラシーである。「情報を鵜呑みにしてはいけない」「情報の取捨選択能力を身につけなければならない」「誤った情報を見抜けるようにする」といった定型文は、高校生や大学生だけでなく、ネットメディアを語る識者からも繰り返し語られている。メディア・リテラシーは、「知識のよりどころ」を失った社会で生きるための処方箋としての期待を浴びているように見える。

 だが、メディア・リテラシーを身につけようというスローガンは、「知識のよりどころ」の喪失感をごまかす以上の役目を果たしていない。この文脈で語られる「メディア・リテラシー」は何を指すのか、「情報を鵜呑みにしない」のであれば何を信じればよいのか、「情報の取捨選択能力」や「誤った情報を見抜ける能力」はどのようにして身につけるのかについて、誰もその答えを提供できていないのである。

 そもそも、本来のメディア・リテラシーは、マスメディアが伝える情報の背後にある主観性や政治性、そして伝え方の多様性を理解することで、クリティカルにメディア情報に接する態度・スキルを体得することを目指すものである。大雑把に言えば「一方向的でない見方」ができるようになるスキルであって「情報の取捨選択能力」に類する能力を指すものではない。

 さらに、メディア・リテラシーは、フェイクニュース(=嘘のニュース)の反対にリアルニュース(=正しいニュース)が存在するという考え方自体を否定する。メディア・リテラシーはネット社会の処方箋にはなり得ないのである。

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それは受け手の責任か?

 もちろん、ここで議論すべきは、メディア・リテラシーという言葉を用いることの妥当性ではない。あるいは、人々が期待している「情報の取捨選択能力」や「誤った情報を見抜ける能力」は「情報リテラシー」という概念に含まれるとか、これらを束ねた包括的な概念としての「メディア・リテラシー」を考えるべきであるといった問題でもない。こうした高度な能力の習得に期待することが解決の適切な道筋なのかという問題である。

 もちろん、受け手教育の重要性・必要性は否定されるものではない。複数の情報を比較する、あるいは情報源や引用元を確認するといったスキルの習得は、情報社会に生きる人間にとって必要不可欠なものであろう。しかし、日々大量の情報を浴び、複数の情報を比較するようなメディア利用を行っていない人々にこれを求めることは現実的なのであろうか。

 さらに言えば、受け手に自己防衛を求める風潮は、危険な側面を伴っている。自ら情報を探そうとすれば、それまで以上に「情報の取捨選択能力」「誤った情報を見抜ける能力」が求められる情報に触れることになる。藤代裕之編『フェイクニュースの生態系』(2021)でも指摘されているように、フィルターバブルやエコーチェンバーが生じる環境下でのメディア・リテラシーは逆作用を起こす危険性が大きい。「知識のよりどころ」の喪失は、自分なりの「知識のよりどころ」を見つける流れを生み出すのである。

 メディア・リテラシーへの過度な期待は、受け手に不相応な責任を負わせるという側面がある。果たして、自己防衛しか解決法はないのであろうか。「知識のよりどころ」になり得ると人々が認めるものを構築することはできないのであろうか。

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マスメディアの復権こそ鍵

 「知識のよりどころ」とは、必ずしも「正しい」情報を伝えるものを意味しない。「まず新聞を見てみよう」「あの番組でニュースを知る」というように、人々の情報理解や情報行動の基盤あるいは起点となるものと定義できる。

 そして、それは人々の信頼を基盤に成り立っている。信頼するからこそ、人々はその情報を基盤とするわけである。従来のメディア・リテラシーが掲げる批判的思考も、この基盤があってこそ成立する。

 理想論との批判を受ける覚悟で記すと、「知識のよりどころ」として機能する可能性を最も有しているのは、これまで「知識のよりどころ」として機能してきたマスメディアをおいて他にない。

 例えば、総務省の『情報通信白書』によれば、「信頼できるメディア」における新聞の位置は今もトップクラスである。若者層では、新聞閲読率よりも信頼度が高い、つまり新聞を読んでいないにもかかわらず新聞を信頼しているという奇妙な現象も起きている。これは積み重ねられてきたジャーナリズムの作法が、人々の経験としてではなく、一種のレガシーとして人々の信頼を得ていることの証左であろう。

 ネットメディアが中核となっていくだろう社会において、信頼というレガシーをどのように活かしていくのか、「知識のよりどころ」としての矜持をどのように現実的な取り組みに落とし込んでいくのかという課題は、とりわけ数十年後には壊滅的な状況に陥ると予想される新聞産業を含むマスメディアの未来を左右する問題につながっていくはずである。

 だが、すべてがそうであるとは言わないものの、現在のマスメディアは、ネットメディアの流儀に飲み込まれつつあるようにも見える。ネットメディアの流儀とは、ページビューを評価軸とする通信業界主導のビジネスモデルでもあり、それに伴って生じるクリックされやすいことを是とするニュース制作への転換である。

 時間をかけて丁寧に制作されたマスメディアのコンテンツは、ネットメディアにネタを提供する盛り上げ役に成り下がるという悪循環をも生み出している。このままでは、新聞社はポータルサイトに記事を提供するだけの存在になる可能性も否定できまい。

 配信元が意識されることもなく、いわゆる「こたつ記事」に並んでマスメディアのニュースが消費される環境は「ネットがあれば新聞は要らない」という意識を育み、ニュースは無料であるという感覚を強固にしていく。

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 「こたつ記事」の問題点は、記者が取材をしないというだけでなく、情報源も不明のコメントを引用することでそこに情報操作やステルスマーケティングのスキを作ることにあるが、現時点ではそのフィルターは存在しないに等しい。

 誰の発言かも分からないネットのコメントを安易に引用する風潮はワイドショーでも目立つようになってきたが、ここではジャーナリズムの原則である情報源の確認が明らかに放棄されている。

 さらに、藤代裕之編『フェイクニュースの生態系』(2021)や山口真一『炎上とクチコミの経済学』(2018)でも指摘されているように、フェイクニュースやネット炎上には「ネットでは」と伝えるマスメディアが加担している側面が大きい。「ネットでは」という安易な使用は、アナウンス効果(それが世の中の大多数の声であるという認識を与える効果)を生む危険性もあり、またそれを起点とした世論誘導も可能となる。つまり、マスメディアが現在のネットメディアの流儀に合わせていくことは、自らの存在価値をも危うくする行為とも言えるのである。

 解決策のひとつは、ポータルサイトを中心としたネットメディアにジャーナリスティックな視点を期待することであるが、ネットメディアのビジネスモデルやインターネットという言論空間の性質を考えるとこれを根絶することはかなり難しい。そうであれば、残された選択肢は、マスメディアがネットメディアの流儀から距離を置くということになろう。

 これは、必ずしもマスメディアがインターネットそのものから距離を置くことを意味しない。ネットメディアの流儀に合わせるのではなく、マスメディアの流儀でインターネットという回路に向き合っていくということである。

 ニュースのプロフェッショナルとして、なぜ自分たちの情報が信頼に足るのかを体現することはもちろん、各分野の専門的な知識が求められることも多くなるだろう。ジャーナリスティックな側面だけではなく、新聞やテレビにしか実現できないコンテンツを展開していくことも必要かもしれない。こうした価値の高い情報をマスメディアの流儀で作り出し、それを自ら管理することができたときには「ネットがあれば新聞やテレビは要らない」という声は生まれないだろう。

 いまマスメディアに求められているのは、メディア・リテラシーを身につけることを人々に促すことではない。ネット社会における「知識のよりどころ」の復権に向けた現実的・主体的な取り組みなのである。

<執筆者略歴>
小寺 敦之(こてら・あつし)
1977年生まれ。上智大学大学院 文学研究科 博士後期課程修了(博士:新聞学)。2011年より東洋英和女学院大学。専門は、情報行動論、メディア・コミュニケーション。近著は「メディアの効用認識とモラールの関連性―メディアは『幸福な老い』に寄与するか」社会情報学7-3、「『インターネット依存』研究の展開とその問題点」東洋英和女学院大学人文・社会科学論集31 など。

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