放送界の先人たち
放送人の会
放送人の会とは
一般社団法人「放送人の会」という団体があります。
NHK、民放、プロダクションなどの枠を超えて、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に強い関心をもつ人々が、個人として参加している団体です。1997年に設立され、2013年には一般社団法人となりました。放送に関する様々な問題について情報交換し、発信することを目的としております。現会員は200名前後です。
さて、来る2025年は、日本でラジオ放送が開始されてから100年にあたる年。1926年に始まる昭和に換算してもおよそ100年となり、放送はまさに昭和とともに始まり、発展してきたとも言えます。
「放送人の会」では、「放送人の証言」として現在までに 215人におよぶ大先輩たちのロングインタビューを映像として収録しております。「証言」は、ラジオ、テレビの創成期・成長期・成熟期の放送人の証言の記録映像、オーラルヒストリーです。
「放送人の会」では、この記録を文化財として社会に還元することを目的として、iU(情報経営イノベーション専門職大学)とともにデジタルアーカイブプロジェクトとして企画を進めております。既に昨年春からYouTubeに30人の証言をパイロット版としてアップし、一般公開をしております。
今回「調査情報デジタル」でも先達の「証言」を紹介したいと考え、テキスト版の抄録を初公開することになりました。
今後も随時文字ベースで公開したいと思っています。今回はその第一弾です。
鴨下信一氏とは
日本を代表するテレビ演出家の一人。「岸辺のアルバム」「想い出づくり」「ふぞろいの林檎たち」「女たちの忠臣蔵」などTBSで数々の名作ドラマを演出した。
1958年ラジオ東京(現TBSテレビ)入社後、テレビ初期の音楽・バラエティ番組を幅広く担当、その経験をふまえドラマ演出に多彩な表現や独自の新手法を盛り込み、その後「岸辺のアルバム」以降ドキュメンタリー映像表現を演出に取り入れるなど人気ドラマ演出家として定評を得た。
ドラマ制作の現場では、脚本家のみならず美術デザイナー・衣装・技術スタッフらの専門知識を上回る情報を常に携え、自らを「知の巨人、巨匠」と名乗りつつも多くの出演者や制作スタッフからは「鴨ちゃん」と慕われる側面もあった。
1993年取締役制作局長、1995年常務取締役、2003年TBS役員退任後も舞台演出家、エッセイストとして活躍、「忘れられた名文たち」「昭和芸能史 傑物列伝」など著作も多数。
1935年生まれ、2021年没。享年85。
本証言について
2007年1月12日収録。A4版91ページにわたるテキストから抄録。
聞き手は元TBSで放送人の会会員伊藤雅浩氏と、RKB毎日放送出身のドラマ演出家、久野浩平氏(いずれも故人)。校正・注釈は元TBSで放送人の会会員の前川英樹氏と松田幸雄氏。
鴨下信一氏の証言(抄)
和洋の芸能に触れた幼少期の家庭環境
久野 子どもの頃から歌舞伎をよくご存じだったと。
鴨下 それはね、家中がそうだったんですね。下町の商人の家ってね、そういうもんなんですよ。芸事とか歌舞伎が好きでね、一家中が好きなんだよね。あれは何なんでしょうね、お付き合いはあるんだろうと思うんですけど、みんな邦楽をやるんですよ。親父も、おふくろも、ばあさんもみんなやるんですね。
歌舞伎はね、好きだったこともあるんですけど、お祖母さんが好きだったこともあるんです。お祖母ちゃんも自分だけ行くのは、ちょっとほら、家族の手前、具合が悪いもんだから孫を連れて行くって。
それとうちの母親のほうは大森なんで、これは銀行屋の娘で、洋館でベッドでしか寝たことない女だから。このギャップ、すごいんですけど、そっちは新劇系なんだ。伯父さん二人とも朝日新聞に行って。一番上の伯父さんっていうのは、朝日の今でいう事業局ですかね。だから前進座を後援したり、新劇を後援したり、海外の音楽家や何かを呼んだりするセクションにわりといたのね。だもんですから、そういうこともあって一応自分の中で和洋混交なんですね。
まあね、当時戦後はいろいろなものが一遍に出て、和も洋も何もなかったですもんね。いっぱい色々なものがあったから。今みたいに僕はこれしかやんないとか、これが趣味だ、みたいなことはなかったですね。音楽の状況なんかでも、僕なんか邦楽も知ってるし、クラシックも知ってるし、ジャズも知ってるのは、あの時代のおかげですよね。何でもあったし、何でも聴いてないといけないみたいなところがありました。
TBS入社のこと
久野 そういうふうに育ったんだったら、やはりTBSというのは入るべくして入った感じですね。
鴨下 いやいや、よく覚えてますけどね、朝日の伯父貴の紹介でもちろん試験を受けたんですけど。その時に、あそこはラジオでは成功したけれども、テレビは初めだから、どうなるか分からない。もう過大に資本投下してスポンサーなんか付くか、付かないか分からないんだから、どうなるか分かんないけど受けてみるかって言われた。よく覚えてます。
久野 昭和33年で?
鴨下 33年で。
久野 33年というと、「私は貝になりたい」※とか、そういう年ですね。
鴨下 そうです、「私は貝になりたい」の年です。ということは、もうビデオテープそのものはあったんですよね。「私は貝になりたい」は一部ビデオだから
橋田壽賀子氏との出会いはAD時代
久野 最初は石川さん※ の班ですか。
鴨下 いや、いちばん最初は小松さん※※の班です。それから石川さんのところへ行って、松下電器の「黒い断層」、そのときはVTRの編集。その頃は、もう半分ディレクターで。よくありましたよね、ディレクターやりながら偉い人のAD(アシスタントディレクター)につくという。
僕、いいADだったからね、キャスティングはやるわ、台本の打ち合わせはやるわ、セットは作るわ。ディレクターになった時困らなかったのは、そういうおかげもあるということでしょうけどね。
みんな忙しいし。橋田さん(壽賀子1925~2021)と最初に会ったの、僕、AD時代なんですよ。「おかあさん」※ のADやっていたときに、橋田さんが岩崎文隆さん※※ のところに売り込みに来たの。あれ、たぶん光畑碩郎さん※※※ の紹介だろうと思う。文隆さん、会わないのよ。売り込みに来て、面倒くさいからさ。新人の女の子だよね、まだね、あん時。
で、どっか行っちゃったんだよね、あの人。しようがないからさ、お茶飲ませて。飲ませたのは、僕が奢ったのよ、ちゃんと3ロビ※ で。「橋田さん、テレビってのはね、こう書かれると困るんですよ。前のシーンにいた人物が次のシーンの頭にもいると、セットから移れないから。その時はよく花なんかでつないどくんだけど、そんなのはよくないと思いますから、何か別の手で一つつないで1シーン入れてっていうふうにしてもらえると、とてもいいんですけどねえ」みたいな、いい加減なことを言ってた。※※
あの人はそういう意味じゃ、可愛くてね。原稿をリボンで留めてんのよ、穴開けて。とっても印象的だったのね。そしたらね、ほとんど同時。不思議なもんだな、ああいうことって。ひと月も別の紙面にね、二人ともそのことを書いた(笑)。※ 僕は、橋田壽賀子さんというのも、とても若い時代にはああやってこんな売り込みに来て、こうだこうだと。
久野 松竹の脚本部にいらしたんでしょう?
鴨下 そうです。橋田さんが書いたのは、テレビってみんなに冷たくされたけど、若いADの子が……、「若いADの子」だったのよね(笑)。親切にしてくれて、とても印象に残ってるけど、それが今は一丁前になって制作局長か何かになってる、みたいな話を書いてね。だから橋田さんというのは、いちばん最初に知ったのは僕なのよね、不思議な話。そのあとですよ、東芝日曜劇場なんかをお書きになるようになったのは。だからこれも深い因縁で。
ドキュメンタリーを撮りたかった
鴨下 ほんとはドキュメンタリー、ドキュメントを撮りたかった。いちばんやりたかったのはエディターをやりたかった、編集マンにはなりたかった。それからドキュメンタリーみたいなものを撮りたかったんですよね。だから「岸辺のアルバム」※なんていうのは、ずっとあとになったけど、一種のドキュメンタリー的なタッチみたいなもの。
そのあと太一※ さんとやった三つの作品は、いずれも僕としてはドキュメントを作るつもりで。
特に「想い出づくり」※なんかは、あれは一種のルポタージュだよね。下重さん※※ が、原作だから、そういうつもりで撮ったことは間違いないですね。
伊藤 「想い出づくり」の第1回だったか、新宿駅かで森昌子がやって。
鴨下 そうです、新宿の前の広場でね。
伊藤 あれはいかにもロケというよりも、何か臨場感がありましたね。
鴨下 臨場感みたいな、ドキュメントみたいに撮って。つまりドラマ的に撮りたくなかったんですね。片一方で「岸辺のアルバム」のすぐあとに撮った「舞いの家」※っていう、佐久間良子さんのドラマは非常にスタイリッシュな、「ドラマ、ドラマでございますよ」っていうやつで。
だから歌舞伎の趣味みたいなのが、「女たちの忠臣蔵」※ とか何とか、そっちに生きてるのと。で、「イヌにも言わせてほしい」※※みたいな、ドキュメンタリー撮りたかったというのは「岸辺」や何かに生きてるっていうのと。
やっぱり飛び離れた二つがあって。真ん中へんに歌謡曲があるっていう(笑)。「水曜劇場」って、わりと歌謡曲中心で歌手中心だから、そういう構図なんだろうと思いますね。自分の今までやってきたことを考えると、ああ、そうか、左の手がドキュメントで、右手が歌舞伎でずっとやってきたんだな、と思いますね。
「岸辺のアルバム」山田太一氏との打ち合わせ
鴨下 でもね、やっぱり本(脚本)が良くてね、本がいいって言うけど、実はこれも、今だからみんな言っちゃうけど、僕東芝(日曜劇場)か何かやってたんだね。で、「岸辺」やることはD(ディレクター)をやって、堀川ちゃん※ がP(プロデューサー)やってくれることに決まってたんだけど。
急に大山さん※ が呼ぶのよ。「カモちゃん、空いてる?」って言うからさ、「いや、おれ、これから稽古だからさ、駄目よ」つったら、「山田さんが来るんだよね」っつうんだよね。
「来るんだよね」って、「うん」って。本、実はもらってたの。僕、読んでなかったんだね。山田さんは本、早いし。たぶん1週間か何か寝かしといたんじゃないかと思ってね。その間に揉めてた。何が揉めてたかいうとね、出だしが地味だと。どうもね、これも仄聞すると、僕はこれ現場知らないんだけど、木下さん※にも相談したらしいのよ。
そしたらあれは間違いだと、あんな地味に出るのはね。2回目のケツで、初めて竹脇(無我)さんが後ろ姿で出てくるんだけど、そこから始まるべきだ。ずっと日常生活が淡々と続くのはよくないって木下さん も言った、みたいな話で。変えてくれないかという相談を、どうもね、したらしいのよ。それで太一さんは、自分の思った通りにやってもらいたい。で、話し合いをしてたらしい。もちろん、ディレクターはどう考えてるかを聞きたかったんでしょう。
僕はね、稽古があったのよ。しようがないから、もう行きましたよ。行ったけど、15分くらいしかないんだから。太一さんが「ディレクターは、どうお考えですか」って言うのよ、優しい声で。「読んでない」って言えないじゃないですか、1週間、10日ぐらい前に本もらってるんだから(笑)。でも読まないで置いておくってこともあるよね、ありますよ。でもそう言えないから。
久野 読むっていうのはかなりエネルギー要りますからね、ディレクターにとってはね。
鴨下 そう、どうやろうかって考えちゃうからね。で、しょうがないからさ、「あ、まんまやった方がいいですよ、まんまやりましょう」って、いい加減なんだよねえ(笑)。
伊藤 で、信用したの?山田太一さんは。
鴨下 言ってないからね、この話(笑)。それは信用したかどうか分かんない。で、すごく嬉しそうな顔してね、太一さんが。そりゃそうですよね。「まんまやりましょう、まんま」っつったらさ。かみさんがよく笑うんだよね。「あなた、何よ。岸辺が名作とか何とか。うちへ帰ってきて、読んだ瞬間に『あ、いてえ』って言ったじゃない」(笑)。これは大変だ。
役者と揉めたことはない
鴨下 そうね、僕って役者さんの我儘って、絶対に許容すんのよね。我儘もうまく使うと、ほんとにいい芝居する。だから僕ね、ほんとに俳優と揉めたことって一遍もないのよ。難しいと言われた嵯峨美智子(1935~1992)で13本シリーズ作ったとか、単発でね。嵯峨美智子で13本なんて、暴挙なんだよね。あの当時の嵯峨さんだから(笑)。
伊藤 俳優さんによってはさ、リハーサルの時には全然本気出そうとしなくてね。本番になって、やたらに上手な芝居やるなんて人もいるでしょう。
鴨下 いるいる。あのね、乙羽さん(信子1924~1994)とあっちゃん(芦田伸介1917~1999)の時かな、東芝(日曜劇場)で。お互いにブラインドにしたんだよね、芝居を。ブラインドにするって、稽古をやらないで、個別の稽古をやるのね。乙羽さんと僕と、あっちゃんと僕だけみたいのね。本番だけやると。そんなことやんなくてもいいのに、何であんなこと考えるのかね、時々(笑)。
それで別れ話みたいな、腐れ縁の男女で別れるために。乙羽さんがいきなり自分のピン抜いて、パッと差し出したのね、手を。真っ青になっちゃってさ。急にいろんなことやってもいいよっていう話にして、いろんなそういう仕掛けだけは作ったけど、どうするんだろうなと、始末がつかない。乙羽さんの方じゃやめられない。
あっちゃんはどうやって止めるんだろうなと思ったら、うまいね、役者ってね。スッと手取ってさ、ピンをパッと灰皿の中へ捨てて芝居続ける。もうね、絶品の芝居ってそうなのね。本番じゃなきゃ、乙羽さんも考えつかなかったと思うね。気持ちが激してきたらどうしようか、表現が出来ないから。面白かったよ。
「高校教師」では生徒手帳まで作った
鴨下 「高校教師」の時、みんな生徒手帳って持っているんですよ、全員が。持たせろって言ったのね。一遍も映ってないんだけど、校則が全部書いてあんの。スカートは何センチでってとこから始まって、どういう時はどうしちゃいけないとか。そういう生徒手帳、全部作った。
で、何が良かったかっていうと、仕出し(エキストラ)がいつも100人ぐらい出るわけですよ、女の子たち。説明しなくていい。この生徒手帳を読めって、こう言えば(笑)。あいつら暇だから読むじゃん、ロケってやることねえから。そうすると学校の沿革から、どういう学校でどんなふうになってって、というのが全部わかる仕掛けになってるから。
伊藤 なるほど。
久世光彦氏とのこと
久野 久世(光彦)さん(1935~2006)とはずいぶん長かった、一緒にやってらっしゃいますね。
鴨下 久世とはやってるんですよ、一緒の仕事をね。「水曜劇場」※を代わり番こにやってたってこともあるんですね。久世ちゃんがやるときはたいてい僕ディレクター、2、3本はやるっていう習慣みたいなのがあって。「時間ですよ」だけやってないんですよ。「貫太郎」※※やなんかは、たいてい3、4本投げてるんですよね。だいたい僕が番組責任者で、久世がPとかということはとても多かったんですよね。
久野 同期ですか。
鴨下 いえ。
伊藤 久世さんの方が下で。
鴨下 二つ下、あの人は昭和35年入社ですから。
伊藤 年は食ってるんだけど。
鴨下 年は同じで、何日間か久世の方が(生まれが遅い)。あいつは2浪してるんじゃなかったかな。2浪して、1回どべってん※ のかな。早生まれなのに、僕より2年遅く入ってきたんですよ。でも久世と仲良かったっていうのはTBSの七不思議で、僕と久世なんて合いっこないんだけど。そういう意味じゃ、昔のディレクター仲間とかっていうのは、そんな仲悪くなかったような気がするんですね。
美術には強かった
久野 鴨下さん、美術に非常に強かったといいますか。
鴨下 美術、強かったです。強かったのはね、自分で青図(セットなどの図面)引いた。セット作るの大好きだったから。ものすごく好きだったの。一つはね、東芝(日曜劇場)の八木恵一※さん。ご高齢でものすごく歌舞伎、詳しくて。
いろいろな歌舞伎のことは教わってあれしたんだけど、新しいもの全く駄目なのね、当たり前だけど。その人を相手にやってたのが、とってもよかったよね。だからそのことがあるんですよ。
久野 作家は調べてるんでしょ?
鴨下 それはディレクターの方が、膨大な知識持ってないと駄目ですよ。そうしないと負けちゃうから。美術も膨大な知識持ってりゃ、説得できるんですよ。「椅子がひどいじゃないか、おまえ、別の何かない?こういうふうな椅子ない?」って言うと、東急の3階のあそこに行くとあるとか、明確に言ってやんないと駄目。
衣装はこういうブランドのあれで、ヴィトンだ、シャネルだみたいなこと言ったら、どうせ買えっこないんだし、タイアップだってなかなか取れない。日本のブランドを言ってやると、それは承伏しますよ。日本の大して高くない、例えばコム・デ・ギャルソンクラスのやつを言って。それも「どこのショップにはある」と言ってやるんだ。だから当時は、現役でやってる時は、とにかく暇さえあれば盛り場とデパート歩いてね。
伊藤 商品を覚えた。
鴨下 商品知識を仕入れること、商品知識ですよ。それから僕、これは名誉になるかどうか分かんないんだけど、一遍も時代考証つけたことないの。あれだけ時代劇やってて、時代考証、一度もない。理由はたった一つなんですよ。時代考証って変なもんで、物のある無しは分かるけど、その使用法って分かんない。研究しないのよ、日本って。
それから一番有名なのは、建売住宅の平面図をこんな集めてね。
あれ、すごく楽なのよね。こうやって見てて、「あ、これでいってよ」って(笑)。だから「岸辺のアルバム」や何かの建売住宅は、その中からこれでいってってさ、2階はこれ、1階はこれみたいなね。すごく合理的に造ってある。普通のセットの常識でいくと、そんなことあり得ないっていうふうなのが、安く上がるとか、地形がどうとかっていうことで、なってる例がたくさんあるじゃないですか。そういうのって実物の方がいい。
だから建売住宅、自分じゃ家建てたこと一遍もなくて、全部マンション借りてっていう、レンタルマンションが好きであれしたんだけど。ありとあらゆる家。それから武家屋敷とかそういうの。アンチョコを持ってないと、美術さんと話出来ないから。
少しは真面目な話も
鴨下 僕はこれだけは幸せだったと思うのは、少しまじめな話をしますとね、ちょうど私が美学※に入った頃合いから受容美学、つまり受け手、観客の立場に立った美学が少しずつ芽生えてきたんですね。
鴨下 正確には1960年代ですけれど、大学にいた頃、ディルタイ※ とかそういうのが出てきたから、それを少しかじっていたのと、歌舞伎や何かを見る観客って、観客のほうが優位性があるというか、歌舞伎や何かというのは観客中心で物事が回る世界じゃないですか。
伊藤 観客が偉いもんね。
鴨下 観客はまた知識を持ってて、舞台でやってるものに自分の知識を足して見るっていう習慣がすごく強かったと思います。
僕はよくADに言うんだけれど、一つは満員電車で通勤しているお客なんだから、それに分かるように、それが1日の疲れが治るような番組を作れって、よく下のやつに対して。自分もそういうふうにやってきたつもりなのね。だから僕、全然芸術的なものを作ったこともないし、作家主義だったことも一度もなくて、まさに菊池寛(1888~1948)の言うとおりに、娯楽が6分、芸術が4分というのは、僕はその通りやってきたつもり。
ドラマ復権の道、これからのテレビ
鴨下 じゃ、ドラマみたいなのをどうやって復権させていくかということになると、なかなか難しいんだけれど。まず、現実ある状況がどんなものかというのは、誰も見てないですよね。さっき娯楽、エンターテインメントで、1日働いてくたびれた人が見るもんだと言いましたけれど、このコンセプトはもう変わりましたよね。1日働いて疲れて、何かテレビを見て肩をほぐそうみたいなことはないんだよね。テレビでは、もう疲れは癒えないんだよ(笑)。
久野 それでは、受容美学が全く変わってくるじゃないですか。
鴨下 受容美学が全く成立しなくなったのは、21世紀に入ってからはっきりしたことだと思います。だからテレビは何を目指したらいいかというと、やはり絶対的に教養なんだよね。ほんとに今の教養熱っていうのはね、つまり下の方の、やせるとか糖尿病が怖いとか、そっちのほうからピラミッドまで。ピラミッド(の番組)※が17(%)取るなんて、誰も思ってなかったでしょう、あんなもの。思ってなかったと思いますよ。
伊藤 あれ、面白かったですよ。
鴨下 面白かった。ただ見て面白かったけど、やっぱり、だって本見たってわかるじゃないですか。この小説の売れなさ加減と、新書の発狂したような……、自分で書いてて申し訳ないんだけど(笑)。
伊藤 何でもあれで新書になってる。
鴨下 「新書版テレビ」って僕言ってるんだけど、本当によく当たる。
で、テレビを見ることで疲れが癒された時代はもう過ぎた。それはテレビのほうが悪いんじゃなくて、ひょっとしたら見る方の労働の質が変わって、テレビで癒される労働の質では明らかになくなったんだと思うのね。
伊藤 世の中にテレビが後れたということかな。
鴨下 後れたっていうけど、テレビの機能そのものがマッチングしなくなった。
伊藤 変わらなきゃいけないわけだ。
鴨下 だって、ずっとコンピュータ見つめてるんですよ、今。どこの会社に行っても、ほんとそうなんだから(笑)。だって社内メールは来るわ、指示は全部メールで来るわでしょう。家に帰ってまで、同じブラウン管見ます?
テレビの機能の何が衰えたかというと、娯楽機能が衰えた。疲れを癒す娯楽機能が衰えたので、思想・信条とか、そっちよりももっと重要な娯楽というものが衰微したに違いない。僕は本当にそう思っているんですね。じゃ、その次来るのは何だろうと。こういう話をしてると、切りなく問題点はあるんだと。ありがとうございました。 (了)
収録後の聞き手の感想 伊藤雅浩
東芝日曜劇場を中心に、おそらく日本のテレビドラマ史上最多の作品数を持つ演出家の極めて具体的な経験談・テレビ演出論。
俳優の注文、美術セットの注文、小道具の置き方、映像のサイズ、フレーム、カメラの位置、音楽など、実に細かい。
俳優についてもスタッフについても実名での具体的なエピソードに満ちあふれている。
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