メディアとナッジ
竹林 正樹(青森大学客員教授)
ナッジ(nudge)は、元々は「そっと後押しする」「ひじで軽くつつく」を意味する英語です。ここでは「選択の自由を確保しながら、金銭的インセンティブを使わずに行動を促す手法¹」という意味で使います。
2017年にナッジ提唱者のR.セイラー教授(米国)がノーベル経済学賞を受賞したこともあり、世界中でナッジが注目されるようになりました。なぜナッジで人を動かすことができるのでしょうか?そしてメディアはナッジとどう向き合っていくとよいのでしょうか?エビデンスを紹介しながら、一緒に考えていきます。
多くの人は「わかっていても行動できない」
私たちは「相手が望ましい行動をしないのは、知識不足だから」ととらえることが多いです。でも、本当に知識不足だけの問題なのでしょうか?「がん検診」をテーマに考えます。
2004年(平成16年)、2005年(平成17年)の段階では乳がん検診受診率もマンモグラフィの有用性の認知度もそんなに高くありませんでした。そこでピンクリボンキャンペーンを中心とした意識啓発を行ったところ、2007年(平成19年)には認知度が70%まで高まりました。啓発としては大成功でした。
しかし、受診率はほとんど変わりませんでした²(図1)。では「乳がん検診を受けると命が助かると知ったにもかかわらず受診しなかった人」は何をしていたのでしょうか?
同年、内閣府が未受診理由を調査した結果、1位は「たまたま受けていない」でした(図2)。どうやら、人は正しい知識を得たとしても、必ずしも行動につながるわけではないようです。
直感と認知バイアス、そしてナッジ
頭でわかっていても望ましい行動ができない背景を「直感と理性」という脳のシステムから見ていきます。
直感は「象」に例えられる³ように働き者で、スピーディーな判断ができます。一方で、本能的な側面が強く、「認知バイアス」と呼ばれる歪んだ解釈を行うことがよくあります。
それに対して、理性は「賢い調教師」のイメージで、自制を司ります。もしも理性が適切に機能すれば、正しい知識を得たら、即行動に移るでしょう。しかし、理性の発動には多大なエネルギーを要するため、多くの場面では直感が対応します。そして直感は「目先の快楽を重視する(現在バイアス)」「自分は例外と思い込む(楽観性バイアス)」といった特性があるため、知識を得ても望ましい行動をするとは限りません。
3つの実験を通じ、認知バイアスによる判断の違いを見ていきます。
同じ内容だったにもかかわらず、頷いたジェスチャーのAグループが、拒絶したジェスチャーのBグループよりも肯定的に評価しました。これはジェスチャーという先行刺激に影響された現象で、プライミング(先行刺激)バイアスと呼ばれています。
検査中の不満は患者Aの方が少なかったはずですが、事後の不満は逆転しました。その理由として、図3-2の○印の通り、終わる直前の痛みが患者Aの方が鋭く、その時の印象が記憶に残ったからと考えられます。
このように、途中のことは忘れてしまい、ピーク時と終了時のことばかりを思い出す認知バイアスを「ピークエンドの法則」と呼びます。
昼食前は空腹のために理性が枯渇して現状維持バイアスの影響が強く見られ、昼食後には理性が復活して柔軟な判断ができるようになりました。裁判官のように理性的な判断を求められる人でも、認知バイアスに強く影響されたことが示唆されます。
以上のように、直感はタイミングや順番、雰囲気によって判断が変わります。ここで重要なのは「認知バイアスはバラバラに発生するのではなく、系統的なパターンがある」ということです。
このため、「このタイミングでこの刺激が加わるとこう行動する」というパターンがある程度予測できます。これを活用し、「行動の阻害要因となる認知バイアスを抑制し、促進要因となる認知バイアスを味方につけ、行動へと踏み出しやすくする設計」が可能になりました。これがナッジの仕組みです(図4)。
不要不急の外出を呼びかける記者会見をテーマに考えます。
例1は、認知バイアスの特性に反しています。既に夜に出歩いている人にとって、自分の行動を正当化するために「政府が間違っている」と解釈したくなり、改善の余地があります。
例2は、理性が機能しやすく、認知バイアスの特性にも合っているので素直に受け入れられやすいです。
コロナ禍や不況の影響で社会全体が疲弊している昨今、認知バイアスが強まっている可能性があります。だからこそ、認知バイアスの特性に沿ったナッジがますます求められているのではないでしょうか。
メディアのナッジと注意事項
望ましい行動を促すには、認知バイアスに合致したナッジを設計するのが理想です。しかし、相手の持つ認知バイアスの特定が難しいこともよくあります。その場合、「多くの人が持つ認知バイアスに対応した汎用性のあるナッジ」をお勧めします。
汎用性のあるナッジの枠組みに、EAST(Easy:簡単に、 Attractive:印象的に、 Social:社会的に、 Timely:タイムリーに⁶)があります。厚生労働省がEASTを紹介したウェブ⁷がわかりやすいので、ぜひご覧になってみてください。
メディアでは従来からEASTを活用してきました。先ほど私が見た番組でも、オープニングは目を引く演出をし【Attractive、Timely】、司会者はメッセージをコンパクトに伝え【Easy】、さらに「多くの方から〇〇の意見が寄せられました」と視聴者に語り掛けました【Social】。これらは、ナッジの観点から人を動かす力があると言えます。
ただし、ナッジは使い方次第で、望ましくない行動へ導く危うさがあります。特に注意すべき2つのナッジ要素を取り上げます。
1)同調バイアス
図5は、がん検診受診促進の広報です。しかし、検診を受けようかどうか迷っている人には「皆が受けていないのだから、自分も受けなくてもよい」と同調バイアスを刺激し、受診を先送りさせる可能性を高めます。この場合、右肩上がりのグラフ(図6)にした方が受診行動に繋がることでしょう。
同調バイアスが思わぬ方向に作用した例に、トイレットペーパー騒動があります。トイレットペーパーまとめ買いのために並ぶ人がごく一部でも、それが繰り返し報道されると、同調バイアスが刺激され、「皆が並んでいるから、自分も」という思考になりやすいです。
この同調バイアスを軽減するには、店頭にトイレットペーパーの在庫がたくさんある映像を流しながら、「私は買いません」という消費者の声をたくさん紹介するのがよさそうです。
2)コミットメントと一貫性
「投票するかも」と気軽に答えただけの人も、多くが投票しました。このように、口にした通りのことをしたくなる現象は「コミットメントと一貫性」と呼ばれます。これを踏まえ、新型コロナワクチンの接種開始前に配信された、次の記事について考えます。
ここで「受けない」と答えた女子高生は、実際にワクチン接種の案内が来た時に受けなくなる可能性が高まります。この記事は批判が出て間もなく削除されましたが、どのような聞き方で調査が行われたのかはついに公表されませんでした。もしも事前にワクチンのメリットを伝えないまま、「受けたくない」という答えを誘導したのであれば、倫理的に問題がある可能性が高いです。
メディアは適切なナッジによって望ましい行動を促すことができる一方、直感を刺激して不本意な行動を取らせてしまうリスクも内包しています。だからこそ、メディアに関わる全ての人に、正しい形でナッジを実践してほしいと切に願います。
コミュニケーションへの影響
私は研究を通じ、「誰しも認知バイアスの影響から逃れられない」という結論にたどり着きました。この考えを持てたお陰で、私には2つの好ましい変化がありました。
1つ目の変化は、他人に対してあまり腹が立たなくなりました。仮に失礼なことを言われても「相手は認知バイアスに振り回されているだけかも」と考えると、学術的な視点で相手の言動を観察できます。
2つ目は、自分が間違った時には素直に「ごめんなさい」が言えるようになったことです。自分のプライドが邪魔をするとなかなか反省できないものです。でも、「自分の認知バイアスの管理不行き届き」と考えることで、自然に頭を下げることができるようになりました。
私はナッジの研究を始めてから、コミュニケーションでのストレスが減りました。だから、自信をもってナッジの活用をお勧めします。ぜひ、一緒にナッジを学んでみませんか?
※こちらのウェブでナッジのお勧めコンテンツを紹介しています¹¹。
¹¹ https://nudge-takebayashi.jimdofree.com/%E3%81%8A%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%A1/
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