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「ジェンダード・イノベーション」とは何か~その事例と今後の課題~

【最近耳にするようになった「ジェンダード・イノベーション」。女性にも男性にもやさしいイノベーションを目指すものだが、その基本的な問題意識や具体的な事例、今後の課題と展望を紹介、考察する】

石井クンツ昌子(お茶の水女子大学理事・副学長 ジェンダード・イノベーション研究所長)


はじめに

 電車の吊り革に手が届かないのは筆者だけではなく一般的に女性に多いが、それは何故なのかについて考えたことはあるだろうか。反対に、ベビーカーなどの育児グッズは何故低めにできていて、更に子連れ外出時に持つオムツなどを入れるのは「マザーズ」バッグと呼ばれていて、女性が使いやすいようにできているのは何故か。そして、新型コロナワクチンの予防接種量は子どもの場合は少ないが、大人の場合でも体格の違いは考慮しなくてもいいのだろうか。

 我々の日常生活の中には、このような疑問が多く存在している。そして、このような「問題」が散見される理由は、様々なモノ(製品)やコト(サービス)などに性差の視点が取り入れられてこなかったからではないだろうか。

 ジェンダード・イノベーション(Gendered Innovations、以下、GI)とは積極的に性差解析を行い、その結果を開発のデザインに組み入れることで女性にも男性にもやさしいイノベーションを創出することである。GIは日本でも過去数年間でよく目にするようになった言葉である。

 お茶の水女子大学では、令和4年4月に日本初のジェンダード・イノベーション研究所¹を開設して、これまで広く社会へ向けて取組の紹介やシンポジウムを開催してきた。しかし、GIの認知度はまだ低く、学術界をはじめ政府、企業、一般の人たちの多くが理解しているとは思えない。また、GI研究所設立後の昨年からは新聞や雑誌記事で紹介され、最近のテレビ番組の特集で取り上げられたとはいえ、メディア関係者にも完全に浸透しているわけではないだろう。

 本稿では、まずGIが提唱された社会的背景と発展の経緯について述べる。次に様々な分野における性差が見過ごされてきた事例を紹介する。そして最後にGIの今後の課題や展望などについて考察する。

1.社会的背景

① 科学分野におけるジェンダー平等

 GIは、スタンフォード大学の科学史専門家であるロンダ・シービンガー氏が創った言葉である。シービンガー氏は著書The Mind Has No Sex?:Women in the Origins of Modern Science (Harvard University Press1989; 邦訳『科学史から消された女性たち』)²で科学史においてジェンダーが考慮されてこなかったことを見事に暴き出している。

 また、スタンフォード大学のGIのホームページ³によれば、米国では、科学界におけるジェンダー平等へ向けての段階的な施策に取り組んできており、1980年代の第一段階では女性研究者の増加、2000年代の第二段階では研究環境の改善を含む研究機関の制度改革や組織改革が行われてきた。そして、第三段階の「知識の再検討」として提案されたのがGIであった。

 米国より遅かったとはいえ、日本でも女性研究者の確保や制度及び研究環境の整備は進んできているが、知識の再検討についてはあまり進展が見られなかった。このような背景を基に、筆者が所属するお茶の水女子大学において日本初のジェンダード・イノベーション研究所が開設されたわけである。

② 無知学と見過ごされてきた性差

 GIは、これまでの研究や開発は主に男性が担ってきたために、無意識のうちに男性を基準として進められ、性差が見過ごされてきたことを問題視している。つまり、これまでの科学分野においては、男性の研究者が男性あるいはオスのマウスなどからデータを収集し、その分析結果を基に製品やサービスを開発してきたことが問題というわけである。

 この視点の背景となっているのは1992年にロバート・プロクター氏が創案した無知学(アグノトロジー)である。この無知学はある事柄についての知識が増え、その結果、真相がわかりにくくなり、もともとの知識に対して誤解を招くような偽の情報が拡散されることを問題視している。

 石油会社が科学者に助成して作ってしまう「気候変動否定論」、喫煙の発がん性物質研究結果を覆すようなかつてのたばこ業界の広告キャンペーンなどが典型的な例である。ジェンダーに関しては、性差の可能性があるにもかかわらず男性のデータ分析結果のみで作られてきたシートベルトを「安全」と勘違いしてしまうことがあげられる。

 この一般人の「無知」を促してきた例は多々あるが、プロクター氏らはメディア、企業・団体、政府機関による情報の隠蔽や抑圧、記録に残すものの恣意的な選択、関連文書の破棄、議論の回避などが原因としている。

 ところで性差が見過ごされてきた理由としては、医学に関していえば「男女の病気に差がないという間違った前提」、「妊娠・出産・生理などがない男性の方が臨床実験に向いているというバイアス」などがあげられる。1977年には米国政府が臨床実験への女性の参加を禁止して、制度的にも男性だけを対象とする研究が行われてきたという歴史もある。そしてその結果、一般の人たちは女性のニーズについては「無知」となり、薬の開発、治療、診断は男性基準になっていったという背景がある。

2.ジェンダード・イノベーションとは

① GIの台頭

 性差解析の重要性を訴えるGIが2000年代に台頭してきて、これまでの研究結果を基にしたイノベーションが女性のニーズと合致してこなかったことが明らかになってきた。同時にGIと関連するいくつかのコンセプトについて、明確にする必要も出てきたといえる。

 その一つが「ジェンダー」と「ジェンダード」の違いである。前者は「性のありよう」を、後者は「性差の解析」を意味するが、両方のアプローチの目的が違うように見えても、両者の目的は「ジェンダー平等」を達成するという意味では合致している。つまり、社会的なジェンダー平等を目指す「ジェンダー」と性差を前提としてデータ解析をする「ジェンダード」はもともとの視点が真逆のように見えていたとしても、ジェンダー平等や公平性の確立という目的を共有している。

 もう一点、GIとフェムテックを同じものと理解しがちだが、前者は広い領域においての性差の検討だが、後者は女性(Female)とテクノロジーをかけあわせた造語であり、女性が抱える健康課題をテクノロジーで解決可能な製品やサービスのことを指す。更に、最近ではGIに関連して分析対象がセックス(生物学的な性)とジェンダー(社会・文化的な性)に留まらず、年齢、学歴、性的指向などによる多様性にも注目してきている。つまり男女という性別だけではなく、他の要素との交差性(インターセクショナリティ)についても注目することの重要性が指摘されてきているのである。

② 性差が見過ごされてきた事例

 ここでは、性差が見過ごされてきた事例を概観するが、これらの事例から何故GI視点が重要なのかについても明らかにしていく。

【事例1: 男女で効き方が違う薬品】

 薬品の臨床試験においては女性被験者数が少なく、かつ動物実験ではオスのマウスを使うことが多いため、過去に10の薬が米国市場から「生命を脅かす健康被害」のために撤退させられたという。その内、8つに関しては男性よりも女性の方が健康上のリスクが高い。

 また、ゾルピデムという睡眠導入剤については、服用から8時間後の居眠り運転の経験について問うたところ、15%の女性、3%の男性がそのような経験をしたというデータが得られて、女性の方が排泄されにくいということがわかっている。よって、米国食品医療品局(FDA)では2013年より女性の薬の量を男性(10mg)の半量(5mg)に、更にボトルの色分けをして販売されている。

【事例2: 骨粗しょう症と乳がん】

 骨粗しょう症や乳がんは女性の病気と考えられがちである。これはジェンダーバイアスの典型的な例であり、男性でも発症することは既に知られている。女性と比較して、男性の方が骨粗しょう症を発症する年齢が10年程度遅いだけで、75歳以上においての骨粗しょう症による骨折(股関節骨折)の三分の一は男性であり、骨折後の死亡率は男性の方が高いという。

 同様に、乳がんも女性の病気と勘違いされやすいが、決してそうではない。確かに乳がんは一般的に女性に多い疾患であり、男性乳がんは全体の約1%を占めているだけだ。しかし、全生存率を見ると、男性は45.8%、女性は60.4% と男性患者の死亡率が高いという。この主な理由としては、男性の場合、疑いがあっても病院に行くのが遅くなり、その結果、高いステージの乳がんが発見される傾向にあることが考えられる。

【事例3:シートベルト】

 GI視点が特に重要だと指摘されてきたのが、シートベルトの衝突実験である。これまでこの実験には男性だけの人形が使われてきた。そして、この実験に基づいて製造されてきた(男性仕様の)シートベルトのせいで、事故が起きた際に女性の方が重傷を負う確率が47%も高いという結果が出ている。

 また妊婦が事故にあった場合、従来の三点式のシートベルトは胎児の死亡率を上昇させ、なんと米国の胎児の死亡原因の第一位となっているという。よって、女性や妊婦を考慮した衝突実験とシミュレーションによる安全性の確立が課題とされ、実際、最近では自動車メーカーにおいて様々なサイズの人形を使った衝突実験が行われるようになった。

【事例4:AIアシスタント】

 Appleの「Siri」やGoogleの「Google assistant」などのAIアシスタントで初期設定されている音声が女性であることに気が付く人はあまり多くないと思う。また、Amazonの「Alexa」、Microsoftの「Cortana」では、初期設定の変更ができないので、女性の声のまま使うことになる。

 このようにAIアシスタントの音声が女性であることが多いのはどのような理由からなのだろうか。この点について、GI視点の性差を考慮すると、「女性は従順で扱いやすく、人助けをしたがり、頼まれたらすぐに対応する(秘書的)というバイアスがある」ということになる。またこのように頻繁に使うAI技術にもジェンダーバイアスがかかっている例でもある。

【事例5:メディア関連】

 ここでは、メディアなどに関係するであろうGIの事例を列挙する。

・ジェンダーに配慮した機械翻訳:メディアだけではないが、我々は様々なアプリを使い翻訳をすることが多くあると思う。しかし、注意すべきは、現代の機械翻訳は「男性限定」あるいは「男性を意識した」表現などが散見されることである。これは既存のシステムが、テキストで言及されている個々の人物の性別を判別しないで翻訳しているからである。機械翻訳を使う際には、性別が考慮されているかの推敲が最低限必要であろう。

・顔認証:メディアも含む様々な企業では、セキュリティ強化の目的で、顔認証システムを導入している。しかし、女性のほうが男性と比較すると顔認証が難しいのはご存知だろうか。化粧した顔では、顔認証システムの精度が76%低下するという。トランスジェンダーの人々、特に性別移行期には、正しく認証されないこともある。また人種も影響しており、白人と黒人を比較すると、黒人の顔認証が難しいとのデータもある。

・気候変動:昨年夏の酷暑を経験して、気候変動についてメディアがレポートする頻度が高くなってきていると思う。しかし、日本はもとよりEUと米国では、気候変動とジェンダー平等の2つの重要な課題に対してまだほとんど検討されていない状況であることは知っておいて損はないだろう。この場合のジェンダー分析とは、気候変動に関連した女性と男性の行動や意識を比較することだが、研究者が女性であるか男性であるかも重要な点である。また、このような調査をメディアが実施するのであれば、当然、性差に注目した結果を発表することは最小限必要であろう。

・良質な都市空間:日常生活における都市空間のクオリティは、多くの人々、特に子ども、介護者、高齢者にとって重要であり、メディアも頻繁に取り上げるトピックであろう。これらの人々は労働年齢女性と男性に比べて、より多くの時間を公共の場で過ごし、特定のリスクに直面する可能性が高いからだ。よって、子どもや家族にやさしい街づくりと公共空間づくりが必要であり、メディアの貢献度が高い分野と言えるだろう。

③ 海外と日本の動向

 海外では研究助成金の申請にあたり、性差分析を必須とするファンディング機関が急速に増えてきている。例えば、欧州委員会では2013年から各申請者に全ての分野において研究デザインからデータ収集・分析まで、ジェンダー要因を分析することを義務化している。

 更に、The Lancet、Cell Press、Natureなど世界でもトップランクの査読付きジャーナルでは、性差への考慮を要求し、その条件を満たさない論文については査読まで進めないなど、徹底して性差分析の重要性を訴えている。お茶の水女子大学のGI研究所では国内の200強の学術誌について、同様の条件が課されているのかについて調べたが、一件もなかったことがわかっている。

 日本でもGIは着実に社会に浸透してきているが、一般の人たちというよりも、むしろ政府関連でGIが少しずつ取り入れられてきていることが多い。例えば令和2年12月25日に閣議決定した第5次男女共同参画基本計画では、「これまで男性の視点で行われてきた研究・開発プロセスを見直し、男女の心身の違いやニーズを踏まえ、性差を考慮した研究・技術開発を求める」が明記された。翌年の第6期科学技術・イノベーション基本計画でも「研究のダイバーシティの確保やジェンダード・イノベーション創出」の必要性が盛り込まれている。

3.今後の課題と展望

 GIの今後の課題としては、第一にセミナーやシンポジウムの開催を通して、GIを広く社会に広げていくこと、第二に理系、文系、更に文理融合系の研究シーズを発掘して、研究成果を出していくこと、第三に研究成果に基づき、モノやコトのイノベーションを創出すること、そして産官学連携を強化していくことがあげられる。これらの全ての「車輪」が同時に動き始めてこそ、GIの究極の目的であるジェンダー平等や全ての人々のウェルビーイングの向上が実現する。

 また、展望としては、ジェンダーに特化せずに、様々な属性(年齢、学歴、人種など)や地域性(国・文化、気候)などを考慮するインターセクショナリティ(交差性)を検討することで、より現実的な社会貢献が可能となると考えている。

¹お茶の水女子大学ジェンダード・イノベーション研究所
https://www.cf.ocha.ac.jp/igi/
²ロンダ・シービンガー著『科学史から消された女性たち』小川眞里子・藤岡伸子・家田貴子訳 工作舎 2022年(改訂新版)
³Gendered Innovations, http://genderedinnovations.stanford.edu/what-is-gendered-innovations.html

<執筆者略歴>
石井クンツ 昌子(いしいくんつ・まさこ)
お茶の水女子大学理事・副学長。ワシントン州立大学で博士号取得後、カリフォルニア大学リバーサイド校で20年間教鞭を執り、2006年にお茶の水女子大学に着任。2021年から現職。
2022年からはジェンダード・イノベーション研究所長を兼務。専門は家族社会学とジェンダー研究で、1980年代初頭から日本、米国、北欧諸国にて父親の家事・育児や家庭内性別役割分業について研究を重ね、2012年に全米家族関係学会の国際的な家族社会学研究者へ贈られる「Jan Trost賞」を受賞。
日本家族社会学会会長、日本社会学会理事、日本家政学会家族関係部会役員、日本学術会議連携会員、内閣府男女共同参画会議専門委員などを歴任。国際的活動としては、国連家族年の基調講演、国連専門家会議メンバー、全米社会学会や全米家族関係学会等の分科会委員長・委員などがある。
著書に『「育メン」現象の社会学:育児・子育て参加への希望を叶えるために』(ミネルヴァ書房)、Comparative Perspectives on Gender Equality in Japan and Norway: Same but Different? (Routledge)など多数。

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