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東京オリンピックとはなんだったのだろうか ──不都合な事実とパラレルワールド──

 【未曽有のコロナ禍の中、「強行」された東京オリンピックを振り返り、総括する】

阿部 潔(関西学院大学社会学部教授)

 どこかあっけなく、なにか物足りなく、それでもそこそこ楽しまれ、けれどまったくスッキリすることなく終わった、この夏の世紀のメガイベント。今、わたしが抱く東京2020オリンピックの印象は、そうしたものだ。はたして、東京大会はコロナ禍で敢行されたスポーツと平和の祭典として成功したのか。危機のただなかでオリンピックを迎え入れた東京/日本で暮らす人びとは、世界中から若人が集った祝祭にどれほど盛り上がったのか。そうした問いへの単純明確な答えを容易に受け入れない複雑さと曖昧さが、今回のオリンピック開催には見て取れた。

開催までの道のり

 コロナ禍により一年延期された東京五輪は、それ以前からさまざまな混乱に見舞われていた【注1】。延期決定以降も、迷走は続いた。今年2月、大会組織委員会の会長を長く務めた森喜朗氏が女性蔑視発言の責任を問われ、橋本聖子氏に交代。開幕直前には、開会式の企画・運営において中枢を担ってきた複数のスタッフが過去の不適切な言動を理由に辞任・解任に追い込まれた【注2】。こうして開催年の2021年を迎えたもののコロナ禍の収束がまったく見通せず、期待されたワクチン接種も計画通りにはスムースに進まない社会情勢のもとで、多くの都民・国民はなにかしらモヤモヤ感を抱きながら世紀のイベントを迎えることを強いられたのである。各種世論調査が示していたように【注3】、開催を間近に控え東京大会に対して「反対」や「再延期」、さらに「無観客」での実施を求める意見が増加していったことも、そんなモヤモヤ感を後押ししたことだろう。テレビニュースなどで「街の声」として紹介された「こんな状況では、せっかくのオリンピックを素直に喜べないし、楽しめない」といった嘆きともぼやきともつかない言葉は、2021年7月23日の開会式直前まで広まっていた社会の空気を的確に示していた。
 ここで注目すべきは、そうした市井の人びとの喜べない/楽しめないとの心情吐露に二重性が見て取れる点である。一方で、これまでに起きた東京大会をめぐる数々の不祥事を前にして「わたし自身」が祝祭を手放しでは受け入れられない。それと同時に、東京を中心に日本各地でコロナ感染がいまだ深刻な状況であり続け「わたしたちみんな」が日々困難のもとで暮らしている最中に、たとえ「わたし」はオリンピックをどこか心待ちにし楽しみたいと思っていても、その気持ちをおおっぴらに表明することはどこかしら憚られる。巷に広まっていた「素直に喜べない」との声は、オリンピックを迎え入れる人びとが胸中にかかえた複雑な思いを巧みに捉えていた。

【注1】詳しくは、阿部潔,『東京オリンピックの社会学──危機と祝祭の2020JAPAN』,コモンズ,2020年を参照。
【注2】 開閉会式の音楽制作チーム・メンバーだった小山田圭吾氏が7月19日に辞任し、その直後調整役を担っていた小林賢太郎氏が23日に解任された。なおそれ以前にも、それまで開閉会式の演出総合統括を務めていた佐々木宏氏が女性蔑視演出の責任をとって今年3月に辞任している。
【注3】NHKの世論調査によれば、2021年5月は「反対」が49%、「無観客」が23%、6月は「反対」が31%、「無観客」29%であった。
【引き続き「開幕後の情勢」に続く】

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開幕後の情勢

 モヤモヤ感が解消されることなく、東京都に発令された四度目の緊急事態宣言下で開催を迎えた酷暑のもとでのオリンピック。だが、ひとたび世紀の祭典が始まれば、当然のごとく人びとの受けとめ方や楽しみ方も微妙に変化していった。その背景として、なによりも日本選手・チームによる活躍と躍進が指摘できる。始まる前から容易に予想されたことであるが、開催国としてのさまざもまな利点、今回復活採用された競技種目(野球・ソフトボール)での以前からの優勢も追い風となり、開会式翌日の柔道男子・高藤直寿選手の金メダル獲得を皮切りに、連日のメダル・ラッシュに日本は湧いた。競泳女子・大橋悠依選手の二つの金メダル獲得をはじめとして、有望視されていたアスリートたちの期待通りの、あるいは予想を上回る活躍を各種メディアは毎日こぞって報じた。他方、競泳の瀬戸大也選手やバドミントンの桃田賢斗選手のようにメダル獲得が期待されていた選手が思わぬ不振にあえぐ事態も起きた。だが、そうした厳しい現実よりも嬉しい結果をクローズアップして日本の活躍をもっぱら伝えるという、いつも通りの「ご都合ナショナリズム」とでも呼ぶべきオリンピック報道が連日なされたのである。こうしてお決まりの定型化されたメディアの語りに囲まれながら、視聴者/国民の多くは、これまでとさして変わることなくオリンピックを体感していたことだろう。それに触れることで、今までにないような「ニッポンの活躍!」が実感できたのであれば、なおさらである。

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 もちろん、そのように楽しまれたことで、これまで漠然と抱かれてきた東京大会開催への疑問、不安、ためらいが一気に解消されたわけではない。実際、大会期間中も反対デモは国立競技場周辺で続けられていた。また、SNSでは開催是非をめぐる議論が終わることなく交わされていただろう。だが、日本人選手の目覚ましい活躍を目の当たりにして、さらにメダルを獲得したアスリートたちがインタビューに応えるなかで今のような困難な状況のもとで大会が開催されたことへの感謝の気持ちを口々に発したことで【注4】、これまで少なからぬ人びとが感じていた「なんとなく」の疑念や反対の気分【注5】は、いわば宙づりにされたように見受けられる。つまり、すっきりと解消されることがなくとも、とりあえずはそれを表立って口にしづらい状況が生み出されたのである。それは実のところ、向かう方向は真逆であるとしても開幕前に感じられた「素直に喜べない」との言葉に込められた心情と、そのメカニズムにおいて相同だと判断される。つまり、競技結果においてこれほどの活躍が実際になされ、ほかならぬ功績者たちが大会開催に疑念や反対を表明してきた世間に向けて感謝やお礼の言葉を繰り返し口にする事態を前にして、善良なる国民の多くは「反対できない」と感じたに違いない。

【注4】レスリング男子で銀メダルを獲得した文田健一郎選手は、インタビューの冒頭で「まずは大会の開催と運営に協力してくれた人。テレビの前で応援してくれた人、全員に感謝したい。本当にありがとうございます。」と涙ながらに感謝の言葉を口にした。
【注5】コロナ禍を契機として東京大会への「なんとなく賛成」が「なんとなく反対」に反転した後、開催時期が迫るにつれて「なんとなく開催」へと向かった世論動向については、以下での筆者のコメントを参照。『朝日新聞DIGITAL』(2021年6月29日)「東京五輪を「なんとなく」支持 あの空気の正体とは」、『AERA』(2021年8月9日)「モヤモヤしながら応援」。

 こうして東京大会は、一見したところいつものオリンピックとさして変わることなく人びとに受け入れられた。だが、その実態は国を挙げての熱狂や手放しのニッポン礼賛とは、やはりどこか異なるものだったのではないだろうか。早々に金メダル獲得総数が史上最多を記録したが、その快挙を報じるメディアと世論の受けとめ方は、どこか淡々としたものであった。そこには、日本選手・チームの競技結果や成績に一喜一憂するだけでなく、コロナ危機のもとで開催された大会それ自体の成り行きを粛々と見届けようとするかのような姿勢が見て取れた。

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 その意味を考えるうえで、大会期間中に起きたSNS上でのアスリートへの誹謗中傷という事件に目を向けてみよう。日本選手やチームのめざましい活躍が報じられる一方、好成績を残したアスリート本人に対してSNS上で称賛や励ましの声だけでなく心ない意見や誹謗中傷が繰り返し投稿されていることが、アスリート本人の告白によって話題となった【注6】。もちろん投稿内容の詳細が広く報じられることはなかったが、多くのSNSユーザーにとってどのような言葉が交わされていたのかは容易に想像がついただろう。だが興味深い点は、大会期間中に注目を集めた誹謗中傷問題は、少なくともテレビや新聞といったマスメディアでは特定の人物や国を「容疑者」として問い質すのではなく、一年の延期という困難な状況下でも懸命に一途に競技に専念してきたアスリートを非難したり、言葉で攻撃する振る舞い自体の不当性を強調する方向へと転じていったことである。つまり、オリンピックの主役であり、メダル獲得という栄誉を手にしてもおごることなく世間や関係者への感謝の言葉を謙虚に口にする健気なアスリートに対して、匿名の立場から一方的に心ない言葉を浴びせることがいかに卑劣であるかが問われたのである。こうした「アスリート・ファースト(競技者を第一に!)」ならぬ「アスリート・センター(競技者を中心に!)」とでも形容すべき報道傾向には、大会での個別の競技結果に一喜一憂する以上に、そもそも大会が「開催できている」ことの意義を読者や視聴者に伝え、より多くの人びととその価値を共有しようとする姿勢が見て取れる。大会を終えた今の時点から振り返るとき、きわめて真っ当で道徳的なこうした物言いは、コロナ禍という困難のもとで強行開催に打って出た東京オリンピックをその後どのように回顧し、そこにどのような意義を見出すのかという「レガシー創り」に向けた伏線であったかのように思われる。
 だが、ここで決して忘れてならない明白な事実がある。あらためて述べるまでもなく、まるでいつものオリンピックと変わらぬかのようにメディアが東京大会を報じ、自国開催のオリンピックで日本/JAPANが活躍する姿に国民・視聴者が声援を送り、日々伝えられるメダル獲得数にどこかしらナショナルな誇りを感じている間にも、東京/日本でのコロナ感染状況は日増しに深刻さを増していったのである。

【注6】卓球の男子団体銅メダル、混合ダブルス金メダルを獲得した水谷隼選手は、自らがSNS上で誹謗中傷被害を受けたこと公言した。

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閉幕後のメディア報道

 ある意味で「いつもと変わらぬオリンピック」のように伝えられ、日本選手とチームの大躍進に国民が歓呼したこの夏の東京大会。だが、閉幕直後の振り返られ方には、これまでとはどこか異なる傾向が見られたように思う。なぜなら、各種メディアがこぞってオリンピックの社会的意義を取り上げ、それを大いに称賛していたからである。
 ここでも主役=センターはオリンピアン=トップ・アスリートたちだった。大会期間中にメダリストたちが口にした感謝の言葉が繰り返し伝えられたのに続き、大会終了後は自らの心境を語る「アスリートの言葉」に注目が集まった【注7】。アスリートたちがなんのためにスポーツに打ち込み、勝利を目指して困難に立ち向かい、どのような覚悟でオリンピックという世界の舞台に挑んだのかが、そこに至るまでの挫折や苦労を踏まえアスリート自身の言葉を交えて感動的に語られる。またメディアは、「大会ビジョン」のひとつである「多様性と調和」を受けて、今回参加したオリンピアンの中に自らが性的マイノリティであることを公言した者が多数いたことを大会の成果として言祝いだ。さらに、わたしたちに感動をもたらしたアスリートたちはスポーツ競技に打ち込むだけの存在ではなく、オリンピックの場で社会や政治の問題について明確な意思表明をしたことが高く評価されもした。このように東京大会の成果を振り返る中で強調されたのは、オリンピックが単なるスポーツの祭典ではなく、社会・政治・文化に関して世界中の人びとにメッセージを送るという偉大な意義を持つという事実である。

【注7】例えば、NHK 「アスリート×ことば」(2021年8月23日閲覧)

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 大会期間中に生じたさまざまな出来事を紹介しつつ、ここで声高に唱えられたオリンピックの社会的な意義。それは、東京大会を通してわたしたちが目の当たりにした驚きと感動のシーンとして、心に強く訴えかける。だが、ここで忘れてならないもうひとつの事実がある。それは、閉幕後に称賛されたこれらの意義を、これまでオリンピックはむしろ否定し制限してきたという歴史である。現在でも「男性」と区別された「女性」として競技に臨むアスリートは、ときとして自らが「女性である」ことを科学的根拠(特定のホルモン分泌量の多寡)によって証明することを強いられる。その基準をクリアーできないアスリートは、特定の競技種目に「女性」として参加することを許されない【注8】。

【注8】The Guardian, ‘Masilingi and Mboma racing against Olympic elite and complex cruelty’ (2021.8.2), 

 今回、サッカーの試合前にピッチ上で片ひざをつく(take a knee)示威行為ができたのは、BLM(Black Lives Matter)運動の世界的な広まりと、NFL(National Football League)をはじめとする各種競技団体でのアスリートたちの賛同表明の高まりに押されてIOCが当初の方針(バッハ会長は「スポーツの中立性」を重視するとして、オリンピックでの政治的・宗教的な主張やデモンストレーションを規制するオリンピック憲章50条2項の運用を東京大会でも従来どおり実施しようとしていた【注9】)を直前に変更せざるをえなかったからである。競技開始当初、両チームの選手たちがピッチ上で片ひざをつく姿は大会公式ソーシャルメディアに一枚も掲載されなかった。なぜならば、ソーシャルメディア・チームに向けて「そうしたシーンを掲載しないように」との通達が出されていたからだ。その驚愕の事実を英国紙『ガーディアン』が内部関係者からの情報としてスクープ報道したことを受けて、IOC・大会組織委員会は急遽方針を転換したのである【注10】。こうしたお粗末な対応からも、IOCと大会組織委員会がアスリートたちの「表現の自由」をどの程度真剣に考えているのかが、うかがい知れるだろう。
 さらに言えば、大会閉幕後のアスリートの言葉に耳を傾けるのであれば、開催前まで大会の是非をめぐり世論が分断されていた状況下で日本のアスリートたちが発した声や言葉、もしくは頑なに守られた沈黙の意味がもっと注目されても良いのではないだろうか。世間からの問いかけに対して「わたしにはどうすることもできません」と当惑気味に返す言葉しか聞こえてこなかったのであれば、それは多様であるはずの「アスリートの声」としてあまりに貧しいと言わざるを得ないだろう。
 こうした「不都合な事実」と切り離したかたちで、今回の大会で示されたオリンピックの社会的意義がことさらに唱えられた。そうしたメディアによる総括の仕方は、自らの内にさまざまな矛盾と危機を抱えるオリンピックというグロテスクな存在の延命を図ろうとする企てにほかならないのではないか。そうした疑念を抱かれても致し方ないだろう。
 だが、興味深いことにオリンピックが持つ社会的意義の礼賛と正当化は、実のところ長くは続かなかつた。閉幕直後こそそうした報道が繰り返されたが、すぐに終息していった。結果的に、メダル獲得数で日本が躍進したという偉業と、グローバルなコロナ禍という危機のもとで「スポーツの力で世界に発信」(菅義偉首相)することを目指した大会を無事に終えたという余韻に浸ることなく、メディア報道も世論の関心も瞬く間に別の事柄へと推移した。いうまでもなくそれは、大会期間中に深刻さの度合いを一層深めた国内におけるコロナ禍という現実である。

【注9】The Guardian, ‘IOC bans athletes from taking a knee and podium protests at Tokyo Olympics’ (2021.4.21),
【注10】The Guardian, ‘Tokyo 2020 social media teams banned from showing athletes taking the knee’ (2021.7.21),
The Guardian, ‘Tokyo 2020 U-turn allows social media teams to show athletes taking the knee’(2021.7.22),

図2

 こうした巷での話題と関心の素早い移行に際しても、オリンピックの価値は守られていた。なぜなら、大会関係者は一様に目の前に広がる感染拡大の惨状とオリンピック開催は「関係はない」と平然と強弁してはばからなかったからだ【注11】。開催前の段階ですでに医学の専門家たちが警鐘を鳴らしていた「大会開催による感染の拡大」が現実と化した事態を前にして、政治指導者たちは十分に説得的な根拠を示すことなく「関係はない」と断言した。それは今の指導者層に染み付いた反知性主義とでも呼ぶべき、科学という知の営みを蔑ろにしたきわめて政治的な言動にほかならない。
 こうしてコロナ禍以前からさまざまなスキャンダルや事件に見舞われ、コロナ禍以降はその混迷の度合いをさらに深め、開催二ヶ月前の段階で国民の半数近くが「反対」を唱えていた東京大会は、世論や専門家集団が発した警鐘をいわば無視するかたちで強硬に開催されることで、曲がりなりにも成し遂げられた。そして祝祭を終えた今では、兎にも角にも大会を開催したこと自体が既成の事実(オリンピック・レガシー!)となり、閉幕直後にはアスリートの素晴らしさと今回の大会で示された社会的意義が言祝がれた。そのことで、開催前に多くの人が抱いたモヤモヤ感が解消されることも、反対を唱える運動・世論が突きつけた課題が解決されることも、実際にはなかった。それにもかかわらず「やり遂げた」という既成事実の名のもとで、結果として東京2020オリンピックはこれまでに問われたさまざまな罪と過ちを自ら免罪し、その罪状もどこか忘却されつつあるかのように思われる。

【注11】東京大会の閉幕を受けての記者会見の場で、丸川珠代五輪担当大臣は「オリンピックの開催は感染拡大の原因にはなっていないものと考えている」と発言した。

「パラレルワールド」としてのオリンピック/コロナ禍

 このように開幕前・開催中・閉幕後のメディアと世論の動向を概観してくると、冒頭で述べたあっけなさ、物足りなさ、楽しさ、スッキリしなさが混在する東京オリンピックへの印象の背景が、いくらか明らかになるかもしれない。だが、それと同時により根本的な疑問がわき起こる。そもそも、どうしてこんな不可思議な事態が社会に生じていたのだろうか。日々コロナ禍の危機が深まっていくただ中で、どうして世紀の祝祭が平然と開催されたのだろうか。皮肉にもこの謎を解く鍵を、東京オリンピックを推進した側の中枢にいた人物の言葉に見出すことできる。
 開幕からおよそ一週間後の7月29日、IOC広報部長マーク・アダムス氏はコロナの状況とオリンピックとの関連について、参加選手や関係者は厳しい規制のもとで生活・活動しており、それはまるで「パラレルワールド=並行世界」に生きているようなものなのだから、大会開催は東京での感染拡大になんら影響していないと断言した。この発言は、以前から問題視されていたIOC関係者の傲慢で高圧的と受けとめられかねない一連の発言【注12】と同様、ネットの世界でも大いに物議をかもした。だが、ここで注目したいのは発言の無神経さや身勝手さではなく、パラレルワールドという言葉に込められた意図と意味である。
 あらためて言うまでもなくアダムス氏にとって「パラレル」に存在する世界とは、徹底した感染対策として採用されたバブル方式のもとで、外界から隔絶され安全・安心なオリンピックが開催されている空間にほかならない。それに対して、アダムス氏の発言に対して違和感や怒りを表明した医師・看護師など医療現場に従事する人びとにとって、むしろパラレルと感じられるのは自分たちの目の前に広がる厳しい現実とあまりにかけ離れた世界的な祭典の開催であり、それは今後対応を迫られる危機をより深刻なものにする潜在的要因にほかならない。そして、コロナ禍の状況をメディア報道を通して日々見聞きしながらも、開幕後は疑問や不安をいわば宙吊りにすることでオリンピックを受けとめていた人びとにとって、もしかすると近い将来にわが事として突きつけられるかもしれない恐ろしい現実をしばし忘れさせてくれるメディアを介して体感される祝祭の姿こそが、パラレルワールドを意味していたであろう。このように考えると、実のところオリンピックとコロナ禍に関して発せられた「パラレルワールド」との言葉は、アダムス氏が保障する安全で安心な世界だけでなく、医療従事者が危惧する危険や災厄としての強行開催、さらに〈わたしたち〉の多くが淡い期待を寄せる気休めと慰みをもたらしてくれるイベントを、図らずも意味するものであることが明らかになる。そして当然のごとく、互いに異なるパラレルワールドは文字通り並行しながら、それぞれが同時に存在し進行していくかぎり、決して交わることがない。いま/ここという同じ時空にありながら、それぞれが生きる世界はどこまでもパラレルなままなのである。

【注12】日本でのコロナ禍の状況と東京オリンピック開催との関連について、ジョン・コーツ調整委員長は「東京に緊急事態宣言が発令されても開催は可能」と発言し、バッハ会長は「日本の方は五輪が始まれば歓迎してくれる」と期待を寄せた。それぞれの発言はネット上で議論を呼び起こした。

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 おそらくアダムス氏の発言は、互いにパラレルな状況のただ中に今の日本社会に暮らす人びとが置かれているという事実の核心に触れ、それを気づかせるような言葉だった。だからこそ、本人の発言意図とは別の次元でさまざまな議論を巻き起こしたのだろう。それと同時に、ここに浮かび上がる多元的なパラレルワールドは、コロナ危機が深刻化している様が誰の目にも明らかであるにもかかわらず、結果としてそれを止めることができず、さらなる危機として大会の強行開催を迎え入れてしまった原因を理解するための糸口を与えてくれる。本来、「パラレルな世界」が問われる前提として、いま/ここで生きられる世界がなにかしら確固たるものとして実感されているはずだ。そうでなければ、いま/ここと並行して存在する別の/どこかの世界を構想することの意味や面白みが失効してしまう。だが、パラレルが多元化することで、ある人にとってほかの人の日常こそがパラレルワールドとなり、別の人にとってさらにほかの人が暮らす世界がパラレルとして受けとめられる。そのようにさまざまな世界が互いにパラレルな関係のもとで、ときに楽しく、ときに恐ろしく、そしてどこかしら不可思議な存在として相互に受けとめられる背景に見え隠れするのは、なによりも確固たるものとしてあるはずの「わたし」が生きるいま/ここの世界が、実のところそれほど確かなものにも感じられないとの漠然と分かち持たれた不安な感覚ではないだろうか。パラレルがすでに多元的に生きられてしまっている今の社会では、たとえ誰もが関わらざるをえない厳しい現実だとしても、それが幅広い層の人びとのあいだで「リアルなもの」として分かち持たれにくいのかもしれない。なぜなら、それもまたひとつのパラレルワールドとして容易に「わたし」から隔絶化され、どこか他人事として受けとめられてしまうからだ。日常のただ中でパラレルな世界が多元化されていくことで、いま/ここにあったはずの現実味はどこまでも薄らいでいく……。
 このように少しばかり哲学的な思考をめぐらすと、危機の最中に祝祭が平然と開催されたことの理由と、祭典を終えて人びとの関心が日々厳しさを増す現実に向かいながらも、そこにどこか危機意識の希薄さが感じられる今の時代の不可思議さの背景を理解できるだろう。メディアを通してコロナ禍の惨状が連日のように伝えられ、医療現場の当事者たちから悲痛な声が聞こえてきても、〈わたしたち〉の多くはどこかそれをパラレルワールドとして受けとめてしまっている。だからこそ、世紀の祝祭を終えて以降も人びとは、親しい仲間との会食や大切な家族との旅行といったささやかで、身近な祝祭を求めてやまない。だが、ここにも不都合な事実が待ち受けている。たとえどれほどパラレルに見えるとしても、またそうあって欲しいと切に望むとしても、コロナ禍は誰もそこから逃れられない厳しい現実にほかならない。それが並行ではなく同行として、いつかどこかではなく今ここに立ち現れたとき、ようやく〈わたしたち〉は多元的なパラレルワールドを生きることのおぞましさに気づくのだろうか。だが、その時にはすべてが遅すぎるように思えて仕方がない。
 東京オリンピックをめぐる一連の出来事を通して大いに顰蹙を買ったIOC関係者のひとりであるディック・パウンド氏は、開催を危ぶむ日本の世論に対して「予見できないアルマゲドンでもないかぎり実施できる」とうそぶいた。その言葉を受けて言えば、近い将来容易に予見できてしまうアルマゲドンが訪れる前に、はたして〈わたしたち〉にはなにができるのか。それを考えるきっかけを与えられたことが、もしかすると東京2020オリンピックを開催したことの意図せざるレガシーなのかもしれない。

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<執筆者略歴>
阿部 潔(あべ・きよし)
関西学院大学社会学部教授。1992年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。専攻は社会学、メディア・コミュニケーション論。スポーツをはじめとする現代社会でのメディアと文化の密接な関係を研究対象として、そこでのポリティクスに着目した研究を重ねている。著書に『東京オリンピックの社会学』(コモンズ)、『スポーツの魅惑とメディアの誘惑』(世界思想社)、『監視デフォルト社会』(青弓社)など。

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