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テレビディレクターがみた復活の長岡大花火

【長岡空襲からの復興祈念として始まった戦後の長岡の花火。中越地震や集中豪雨も乗り越えてきたが、コロナ禍で2年の中止となり、今年ようやく復活した。花火と花火に対する県民の思いを伝え続けてきた地元放送局のリポート】

内藤 亜沙美(BSN新潟放送 情報センターテレビ制作部)

2年の休止を経ての開催

 ことし8月2日と3日、新潟県長岡市の空におよそ2万発の大輪の花が咲いた。日本三大花火の一つとも称される「長岡まつり大花火大会」である。

 新型ウイルスによる2年の休止を経て復活したこの花火大会。休止以前は2日間で100万人を集めていたが、今年は無料席をなくすなど感染対策を講じて開催され、2日間で28万人の集客となった。

 我々BSNでは、水曜夜7時に放送している自社番組「水曜見ナイト」のスペシャルとして3日に行われた花火大会の模様を3時間生中継で放送した。

 この一大イベントの復活を県民はいかに期待していたのか、それを推し量るのが翌朝に発表された視聴率だった。個人視聴率19.3%、世帯視聴率29.5%…社内の誰もが目を疑うような高視聴率。

 それぞれの持ち場でがんばった40人を超えるスタッフは皆、県民の期待に応えられたという安堵の気持ちとともに、大きなご褒美をもらった気分だった。この番組でチーフディレクターを務めた私は長岡市出身。この結果は花火を愛した仏壇の父にも報告した。
 

花火に込められた「思い」

 長岡まつり大花火大会は、打ち上げ幅2キロ以上にもわたる「復興祈願花火フェニックス」や、上空約600メートルもの花が開く「正三尺玉(しょうさんじゃくだま)」、信濃川にかかる650メートルの大瀑布「ナイアガラ」など、多くの名物花火が人々を魅了する。

 「水曜見ナイト」では、番組が始まった2011年からこの花火大会の模様を放送していて、運営のトップである長岡花火財団から一貫して言われていることがある。

 それは、「花火の技術だけに注目するのではなく、花火に込められた思いをしっかりと伝えてほしい」ということだ。長岡まつり大花火大会に込められた「思い」、それは第二次世界大戦下に起こった長岡空襲と大きく関係している。

 1945年8月1日午後10時30分、長岡市はアメリカの爆撃機B29による焼夷弾爆撃を受け、16万発以上もの爆弾が豪雨のように降り注いだ。市街地の8割が焼け野原となり、1488名もの尊い命が失われた。

 翌年、復活を誓う市民により、現在の長岡まつりの前身となる「長岡復興祭」が開催された。そしてその翌年には、復興を目指す市民を勇気づけたいと、戦時中途絶えていた花火大会を10年ぶりに復活させた。空襲からわずか2年後の開催、花火の火や音が爆撃を想起させると、反対の声も多かったという。

 その後「長岡復興祭」は「長岡まつり」と改名され、大花火大会は毎年8月2日と3日に「慰霊」「復興」「平和への祈り」を込めて打ち上げられる一大行事となった。

白菊

 花火大会の前日8月1日には、空襲の始まった時刻である午後10時30分に白一色の花火「白菊」が打ち上げられる。

 この花火は、長岡大花火を代表する花火師・嘉瀬誠次さん(現在100歳)が生み出したものだ。戦火を潜り抜け、終戦後3年間シベリアに抑留された嘉瀬さんは、生きて日本に帰れなかった戦友を悼むため、1990年、ロシアのアムール川で白一色の花火を手向けた。

 嘉瀬さんの物語は、2015年にドキュメンタリー番組『長岡花火のキセキ~白菊とフェニックス~』として放送された。

 その番組の中で嘉瀬さんはこう語った。「同じ火薬でもね、きれいな花火で人々を楽しませるのと、爆弾や砲弾で人を殺すのとでは、雲泥の差ですね。」この言葉は、今も自分が長岡大花火を放送する上での道標となっている。 

嘉瀬誠次さん

苦渋の選択だった戦後初の中止~今年の復活

 「ふるさとの歴史を語り継ぐ」という使命があるからこそ、これまで長岡大花火はその歩みを止めることがなかった。

 2004年に発生した新潟県中越地震で長岡市も甚大な被害を受けたが、翌年「復興祈願花火フェニックス」を誕生させ、その後の経済復興に大きく貢献した。さらに2011年には、直前の集中豪雨により客席や打ち上げ場所が水没するという困難に見舞われたが、執念の復旧作業を経て開催に漕ぎつけた。

 そんな長岡市であったが、2020年、新型ウイルスの感染拡大防止のため花火大会の中止を発表した。戦後初の中止は苦渋の選択であったに違いない。この発表の後、県内で予定されていた多くの花火大会や大型イベントも相次ぎ中止された。

 翌年も感染者数は収まることなく2年連続の中止となったが、我々の番組「水曜見ナイト」は、長岡大花火のメッセージを途絶えさせてはならないと、過去の映像を使うなどして2年間放送を続けた。1年以上休業を余儀なくされていた花火師の窮状も伝えた。

 2022年4月、長岡市は今年の花火大会を通常開催すると発表した。ウイルス禍からの復興の道を歩むための一歩として、そしてロシアによるウクライナへの軍事侵攻という現実を前に、世界へ平和への思いを伝えてきた「長岡花火」を今こそ打ち上げねば、と決意表明したのである。

ウクライナ国旗カラーのフェニックス

 その後、感染拡大の第7波により一時は開催が危ぶまれたが、「お酒を控えめにする」「大声を出さない」「マスク着用」などのルールのもと、観客一人一人のモラルを信じる形での開催となった。もちろん反対する声も上がったが、市の決定は揺るがなかった。

 そして当日。幸運にも今年は3日が水曜日にあたったことで、我々は復活の長岡大花火を生中継できた。心配された天気も何とかもってくれ、花火大会のプログラムは滞りなく進んだ。BSN技術チームが長年の経験を生かし、美しい映像と迫力あふれる音を生中継で伝えることができた。

 また、花火を愛する人々の声を伝えることにもこだわり、事前に当社のラジオ番組に寄せられた多くのメッセージも紹介した。県民にとってこの花火大会はただの行事ではなく、人生に寄り添っているものなのだと感じさせられた。私自身、たくさんのスタッフや出演者とともに空を眺められる幸せをかみしめた。

 今回の放送とその反響を受け止めて、地域の行事を放送し歴史を語り継ぐことはローカル番組の大切な役割なのだと改めて感じた。そして、未だウイルス禍の収束はみえないが、皆が花火を眺められる世の中に一刻も早く戻ることを切に願っている。

<執筆者略歴>
内藤 亜沙美 (ないとう・あさみ)
1981年生まれ、長岡市出身。2004年新潟放送に入社しテレビ制作部配属。
情報番組やバラエティ番組、ドキュメンタリー番組などを担当。
現在は水曜よる7時から放送中の「新潟全県民バラエティ水曜見ナイト」のプロデューサー兼ディレクターを務める。

【担当した主なドキュメンタリー番組】
「原始の森から未来へ ~写真家・天野尚の眼から」(2009年)
「長岡花火のキセキ ~白菊とフェニックス~」(2015年)
「ガラスの中の夢たち 自然クリエイター天野尚が遺したもの」(2015年)
「俺は工場の鉄学者」(2016年)
「まちごと美術館 イロトリドリがつながる街へ」(2021年)

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chousa@tbs-mri.co.jp

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