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社会的孤立の背景とメディア

【社会的な「孤立」は現代日本の抱える大きな問題である。しかしその対策は困難だ。この状況でメディアが注意すべき点と果たすべき役割は】

石田 光規(早稲田大学教授)

広がる社会的孤立

 近年、人とのつながりが絶たれた状況である社会的孤立(以下、「孤立」と記す)に注目が集まっている。2021年2月には、内閣官房に孤独・孤立対策担当室が設置され、2023年6月7日の第211回通常国会においては、「孤独・孤立対策推進法」が成立した。国の一連の動きから、日本社会における孤立の広がりを想像することができる。孤立は日本社会が抱える問題のひとつと言ってよい。

 社会に孤立が広がり、問題化された背景には、私たちの生活習慣の変化がある。集団的な生活および体質を、閉鎖的・拘束的なものと見なす私たちは、集団に拘束されず一人になれる社会を目指してきた。物的に豊かになり、思想的にも個々人の自由や多様性を尊重する機運が生まれ、私たちは格段に「一人」になりやすくなった。

 しかし、「一人」へのなりやすさは、閉鎖的な集団から離脱できる気楽さのみを運んできたわけではない。鬼子としての孤独・孤立問題を生み出したのである。

つながりにまつわる二つの不安

 一人になりやすい社会は、自らが積極的に動かなければ、つながりのなかに入りにくくなる社会でもある。しかし、誰もが首尾良く人とつながれるわけではない。どちらかというと日本人は、人に積極的に働きかけるのが苦手だと言われてもいる。

 このような社会で生きる人びとは人間関係にまつわる二つの不安を抱くようになる。第一は、つながりができないかもしれない不安である。先に述べたように、「つながりに入るも入らないも自由なので、つながりはつくりたい人がつくればよい」と言われても、それがうまくできない人もいる。そうなると、人びとの胸の中には、「私にはつながりができないかもしれない」という不安が宿るようになる。

 このような不安と軌を一にするかのように、日本社会では「一人」を示す指標が目立ち始めた。1990年代に5%を超えた50歳時未婚率(生涯未婚率)は、その後、男女ともに右肩上がりで伸び続け、2020年には男性28.3%、女性17.8%にまで上昇した。未婚率の上昇とともに単身世帯も増え続け、2020年の国勢調査で世帯ベースの単身世帯率は、38.1%におよんでいる。今や、日本の世帯の「標準」は、父・母・子からなる核家族ではなく、単身世帯である。こうしたなか「私は生涯一人なのでは」という不安が拡大した。

 第二の不安は、つながりができた後に訪れる。すなわち、「せっかくできたつながりを維持できるのか」という不安である。かりに首尾良くつながりができたとしても、それを保てるとはかぎらない。さきほどの結婚の例で言えば、かりに、結婚相手が見つかったとしても、その関係を存続できるとはかぎらないのである。したがって、一人になりやすい社会は、相手から見放される不安を抱えた社会とも言い換えられる。

福祉問題、排除問題としての孤立へ

 実際につながりができない人、すなわち、孤立している人の問題はさらに深刻である。十分な資源があり、一人になりたい人が、その生活を実現するのであれば、それほど問題はない。実際、1980年代までの日本社会は、強すぎる集団の拘束を問題視し、一人になりやすい社会を求めてきた。

 他方、一人で生活していけるほどの資源をもたない人、あるいは、一人になりたくはない人が一人の生活を強いられるならば、それは問題だ。2000年代以降の日本社会で顕在化してきたのは、後者の孤立問題である。

 つながりには息苦しい面があったものの、互助的な色合いもかなり強かった。ゆえに、つながりを失った人びとは、つながりから得られたはずの多くのものを失う。社会的孤立の研究では、孤立が心身に悪しき影響をおよぼすこと、固有の属性(男性、非正規、無職、経済状況の悪さ、低学歴、未婚)の人に孤立の傾向が見られることを明らかにしている。前者は孤立が福祉の問題として立ち現れていること、後者は孤立が排除の問題として立ち現れていることを示している。したがって、孤立は個々人の選択の問題と放置してよいものではない。

対策の難しさと回復

 では、孤立をどう防いだらよいのか。政府は孤立により生じる悪しき事象(精神疾患や自殺など)を防ぐ「『予防』の観点」の重要性を指摘している。たしかに、悪しき結果が起きる前に何らかの対応を施すことができれば、それに越したことはない。しかし、孤立については予防的観点からの対応がことのほか難しい。

 そもそも、個々人の自由を尊重する社会では、集団から離れて一人になることも自由だ。では、そうした社会でライフスタイルとして「一人」を選択している人と、社会から孤立している人を分けられるだろうか。この疑問は突き詰めて考えるとなかなか難しい。

 孤独・孤立を「問題」として捉えた場合に、最も扱いがたいのが援助を拒否するケースである。「私は支援などいらない」「つながりに入りたくない」というケースが最も対応に困るのだ。

 個々人の意思・決定を重んじる社会では、「支援をいらない」と言っている人のところにまで押し入って支援を提供するのは難しい。他方で、自殺や孤立死につながる可能性のある「危険な孤立者」は、えてして支援につながろうとしない。

 その点を考慮して、死につながるような「危険な孤立」と「ライフスタイルとしての孤立」を事前に峻別できるか考えると、それはほぼ不可能なことがわかる。というのも「危険な孤立」は、「危険な結果」が発生して初めて「危険な孤立」になる、というきわめて事後決定的な性質をもつからだ。孤立している人が死に至ることで初めて、その「孤立」は「危険な孤立」と判定されるのだ。ゆえに、「危険な孤立」と「ライフスタイルとしての孤立」を、事前に峻別することはできないのである。

 かくして、孤立に対する対応は、相談窓口を設ける、地域に居場所を設置するなどにとどまる。しかしながら、こうした場は、孤立している人が、その場に足を運ぶことではじめて機能するため、もともとつながりを避けがちな孤立者の、孤立の脱却にどこまで資するかは疑問だ。

人間関係に対する考察を

 かりに孤立を社会問題と認識するならば、人びとがどのようなつながり方を「よし」とすべきか、そろそろ真剣に考える時期が来ている。自由はほしいけど、放っておかれるのは寂しい。これは、各種の意識調査を分析した結果出てきた、日本人のつながりに対する考え方だ。しかし、いつもは自由にさせてくれて、困ったときのみ助けてくれるような都合のいい関係は存在しない。つながりには煩わしさがつきものなのである。

 ここで興味深い調査結果を紹介したい。生協総合研究所では、2023年3月に25歳から54歳の男女を対象としてつながりにかんする調査を実施した。この調査では、対照的な二つの意見を出して、回答者の考えがどちらに近いか尋ねる方式で、個々人の人間関係の志向を特定している。

 この調査で「A わずらわしくても、人との付き合いが密接な社会がよい」「B さびしくても、個人の自由を尊重してくれる社会がよい」という文章に対して「Aに近い」「どちらかといえばA」と答えた人は34%、「B に近い」「どちらかといえばB」と答えた人は66%であった。同様の質問で、「A 目的や利点がなければ、わざわざ人とつきあう必要はない」「B 目的や利点がなくても、人とのつきあいは不可欠だ」という文章には、A寄りが51.2%、B寄りが48.8%であった。さらに、「A 多くの人は自分のことばかり考えて行動している」「B 多くの人は周りの幸せを考えて行動している」という文章には、A寄りが78.4%、B寄りが21.6%である。

 ここから、今の現役世代の多くは、人は自分のことばかり考えて行動し、人づきあいよりも個人の自由を尊重したいと考え、半数以上が目的や利点がなければ人とつき合う必要はないと考えていると言えよう。このような状況で孤立を予防しうる人づきあいを望むのは難しかろう。

 放っておいても今後の社会はますます便利になり、今以上に一人になりやすい社会になってゆくはずだ。個々人の自由を尊重する流れも、しばらくは変わらないだろう。だからこそ、私たちは、人とのつき合いを個々人の自由・選択の領域においたままにしてよいのか、今一度、真剣に考えたほうがよい。つながりや強制のわずらわしさ、面倒くささを強調するばかりでなく、自由・放任のもつ冷たさも認識しつつ、つながりのあり方を考えるべきなのである。

メディアと孤立

 最後に、メディアと孤立の関わりについて簡単に触れておこう。まず、最も重要なのは、孤立が社会の問題であると認識することだ。孤立を問題として取り上げると、「一人でいて何が悪いのか」「無理矢理、介入しようとするのは人権侵害だ」という批判が生じる。しかし、先にも述べたように、孤立には排除、福祉の問題が潜んでいる。このような批判が生じるのは、「ライフスタイルとしての孤立」と「危険な孤立」を混同し、取り違えているからである。メディアにはこのような取り違えを避けることが求められよう。

 その上で、第二に重要な点として、センセーショナルな事件と孤立を安易に結びつけないことである。安倍元首相の襲撃、大阪府の放火、京都アニメーションの放火など、孤立と結びつけられる事件が目につくようになった。たしかに、被告人の背景を読み解くと、彼らが行為にいたった原因の一つとして孤立が推察される。

 そこで注意したいのは、センセーショナルな事件と孤立を結びつけ、孤立者を危険人物であるかのようなイメージを作り上げないことだ。データ分析から明らかになっているのは、孤立者の多くが、世の中にあまり声をあげることもなく、迷惑をかけないようにひっそりと暮らしているという事実だ。ゆえに、孤立している人を異端視するのではなく、彼らの境遇を理解しうる報道が求められよう。

 センセーショナルな事件の報道についてはもう一つ述べておきたい。こうした事件の報道では、遺族の感情や被告人の動機、悔悛の有無に焦点が当たりがちだ。裁判も、基本的には量刑を判定するものであるため、被告人の計画性や動機・意思が重視される。このような情報もたしかに重要ではあるが、事件が発生した社会的背景についての情報が少ないケースも散見される。

 被告人の謝罪や悔悛の意の有無は、たしかに重要だろう。しかし、孤立を原因とした犯罪を予防し、社会を変えてゆくには、被告を断罪するだけでなく、なぜ、被告がそのような状況にあるのか、そうなるにいたったかといった社会的背景に踏み込んだ情報が必要だ。そのような報道が孤立問題の理解・解消に寄与するのである。

<執筆者略歴>
石田 光規(いしだ・みつのり)
1973年生まれ。1997年立教大学社会学部卒業。2007年東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。2011年大妻女子大学人間関係学部准教授。2016年早稲田大学文学学術院教授。
著書に「『人それぞれ』がさみしい」(ちくまプリマ―新書)「『友だち』から自由になる」(光文社新書)、「孤立不安社会」(勁草書房)など。

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