男女比のゆがみは結論をゆがめる
瀬地山 角(東京大学大学院 総合文化研究科教授)
0. はじめに
筆者は2020年に『炎上CMでよみとくジェンダー論』(光文社新書)という本を書き、ジェンダーにまつわるCMの炎上がなぜ起きるのかを分析した。本稿ではそれをスタート地点に置きながら、CMを含む放送メディアにおいて、制作現場におけるジェンダーに対する無理解や男女比のゆがみが、結果として生み出される作品や報道に影響を与えていることについて論じる。
したがってまず1節で元となったCMの炎上について簡単に整理し、2節以降で今回の本題でもあるCM以外の問題に論及する。そして3節以降で組織の男女比のゆがみが、報道内容にも影響を及ぼしているのではないか、という点について問題提起をしたい。
1. CMの炎上パターンとは
企業のテレビCMやPRの動画が”炎上”する事例が増えている。SNSの普及もあって、視聴者の不快感に賛同・共感する、規模もスピードも増幅する。ターゲット層を明確にしぼって、訴求することを目指したCMは、制作者の意図を浮き彫りにしているのだが、そこで男らしさや女らしさ、古くさい家庭像を前提にしてしまった結果、失敗した例は少なくない。
またかと思いながら見ていると、ジェンダーの観点から、いくつかのパターンがあることに気付いたので、それをまとめて冒頭にあげた入門向けの本を作った。
上の図は過去の炎上CMを4類型に図式化したものだ。縦軸に“商品の訴求対象”を取り、上に「女性」、下には「男性」を置いた。一方の横軸に“炎上ポイント”を取り、右に「性役割」、左には「外見・容姿」を置いている。ジェンダーに関連して問題となったCMはほぼこのいずれかに当てはまる。
第Ⅰ象限は、訴求対象が「女性」で、炎上ポイントが「性役割」。例えば食品メーカーで、女性を応援したつもりだったのに、実は性役割分業の押しつけと批判されたものである。男性の不在を前提として、家事育児に追われる女性を描いて炎上してしまうパターン。
第Ⅱ象限は、訴求対象が「女性」で、炎上ポイントが「外形・容姿」。一方の価値を下げて、それを引き上げましょうと発信している。化粧品メーカーやファッション関連企業は、若さや美しさをよしとした物語を描かざるをえない。それを強調しすぎて、女性から批判を受け、炎上するパターン。
第Ⅲ象限は、訴求対象が「男性」で、炎上ポイントが「外見・容姿」。男性の願望を前面に出したような、性的メッセージの強いものが問題となった。公共性の高い団体がゾーニングを間違えて、広い層を意識せず発信し、炎上するパターンといえる。
そして第Ⅳ象限は、訴求対象が「男性」で、炎上ポイントが「性役割」。男性が家事育児をしない立場に居座っている内容のもので男性が自分の身勝手さに気付かず、炎上してしまうパターン。
批判されると制作側は「差別の意図はない」と釈明するが、意図があったらヘイトスピーチだ。今の日本では、未婚の女性(18~34歳)が結婚相手の条件として求めるものは、1位の「人柄」を別とすれば、2位は「家事・育児の努力」で3位が「仕事への理解」だ (社会生活基本調査2021年)。これらを全くわかっていないから女性の怒りを買う。
2. 番組は無関係なのか?
拙著が出版されてから、さまざまなところの研修に呼んでいただいた。大手広告代理店から在京キー局のほとんどで現場のみなさんと議論する機会に恵まれた。そのプロセスで私が新たに実感することとなったのは、「これはCMに限った問題ではない」という点だった。
たとえばさきほどの4象限図式だが、これを報道をはじめとして、バラエティーを含むいわば「ノンフィクション」にあたる番組作りの領野に拡大してもすぐに図式を作ることができる。
縦軸に訴求対象の性別、横軸に性役割が描かれるか、美的・性的要素が描かれるかをとると、同じように問題となりうるような事例を挙げることはできてしまう。
Ⅰは街頭で女性にだけ特定の料理の手順を聞いて、珍回答を笑いものにするような事例。Ⅱは女性にまつわるルッキズムを強化するように働くもの。Ⅲは深夜番組の性的内容。Ⅳは男性が当然やるべき最低限の育児に対して「イクメン」などと、さも特別なことであるかの如く称揚すること。
勘違いしてほしくないが、筆者はこれらがすべていけないと言いたいのではない。たとえばⅡなら、(男女を問わず)テレビに出るキャスターやタレントに、平均以上の容姿が求められることがすべて悪いことだとは思わない。逆にいえば「容姿のみが過剰に求められる」ことによって、「女子アナ」がタレント化し、日本にアンカーウーマンのような存在が育っていないことを問題視しているだけである。
またⅢの深夜番組の性的内容も、ある程度のレベルまでは「見たい人の自由」が尊重されるべきで、法的な規制には特に慎重にならなければならない。こうしたことをきっかけとして「表現の自由」そのものに、法的な制約が入ることはあってはならないと考える。
ただ「表現の自由」を守るためには、「見たい人の自由」と「見たくない人の自由」を両立させる工夫が必要となる。「棲み分け(ゾーニング)」である。CM炎上の分析を通じて明らかになってしまったことの一つは、ネット空間では当初想定されているターゲット層とは違うところにまでメッセージが届いてしまい、この棲み分けが機能しにくくなるという点だった。
かつては時間的に隔離された大人の空間だった深夜番組も、ネットを通じて想定していない層にまで拡散される可能性があり、そのこととの兼ね合いで発信内容について、従来以上の配慮が求められることになる。
3. 制作現場の男女比の問題
一方でCMの炎上の事例を通じて、制作現場の男女比の偏りが問題の一因となっていることも見えてきた。そもそも女性をターゲットとしているCMで公開と同時に強い批判にさらされてすぐに撤回するとなると、これは会社の意思決定システムに問題があると考えざるを得ない。そしてこれは決してCMに限った問題ではなく、報道を含むマスコミ全体に影響する問題ではないかと考えられる。
まず考えられるのがその場にいる女性の比率である。「女性にも確認した」というのが、ジェンダーに関連してCMが批判されたときの常套句なのだが、たとえば女性が一人や二人しかいない状態で、上司の男性に率直な意見が言えるとは思えない。これを戦隊ものでお飾りのように女性が一人だけ入る「モモレンジャー状態」と呼んでいるのだが、これは意思決定の結果そのものをゆがめてしまう。
メディアの話の前に、私の勤務先の恥をさらしておこう。学部/研究科の防災会議に出たところ、備蓄に水・食料・トイレがあるのに、生理用品が入っていなかった。これは東日本大震災の際に大きな問題となった点なのだが、その数年後でこのありさまだ。
女性が意思決定の場にいないのでこんなことが起きる。女子学生比率が2割で、かつ安田講堂のある本郷ではなく、学生教職員あわせて1万人弱の小さな駒場キャンパスだが、それでも女性は千数百人いる。意思決定の場の男女比がゆがむと結論がゆがむことを、身にしみて実感した。
話を「モモレンジャー」に戻すと、会議でぽつんと一人女性がいて、その人が「女性としての意見を聞かせてほしい」と言われたら、これはそれ自体が差別だと考えてよい。もちろん差別だと感じない女性はいるだろうが、そうした人の存在は、この言動の差別性を看過してよい理由にはならない。
マジョリティである男性は「男性の意見」など求められることはなく、自分個人の意見を述べる。他方でマイノリティの女性は自分の意見ではなく、「女性を代表して」意見を述べなければいけなくなる。明らかに非対称な構造だ。男性がそうであるのと同じように、女性も一枚岩の集団ではない。
生理用品の例でわかるとおり「女性の声」は不可欠だ。しかし当然のことながら女性は(男性同様に)同じ意見を持つ集団ではない。だからこそクリティカル・マスとして最低でも3割の女性が意思決定に関わっている必要があるとされているのだ。
小泉内閣は2003年に指導的地位に就く女性の比率を2020年までに3割にするという政策目標(通称二〇三〇/にいまるさんまる)を掲げた。この3割はクリティカル・マスの数値を意識したもので、国会議員や管理職の女性などが例示された。しかし実際の数値は遠く及ばず、いまは言及されることもない。
4. 男女比がゆがむと結論がゆがむ
そしてそれはまさにいま、日本の報道の現場で起きていることなのだと考える。そもそも本稿の執筆依頼を受けたのは、ジェンダーギャップ指数(2023年)の146カ国中125位という数値が公表されて、私がNHKの番組で解説をしたのがきっかけだった。
そのときに私は、「もし報道に携わる人の半数が女性だったら、このニュースはもっと大きな扱いになっているはずだ」と指摘した。日本が先進国に比べて圧倒的に厳しい性差別が残る社会だというニュースは、人口の半分にとって、特に男性に伍して働く女性たちにとって、相当大きな関心事であるはずだ。ところがそれが報道の現場の男女比が崩れていることで、「大したことのないニュース」のように扱われる。
繰り返す。意思決定の場の男女比がゆがむと結論がゆがむのだ。選択的夫婦別姓は1998年に法制審議会を通過しているので、法案としてはできあがっている。国会議員や最高裁判事の半数が女性ならとうの昔に実現しているだろう。そしてそれが未だに実現していないということ自体が、大きなニュースとされて然るべきだ。
大学の講義でこのテーマを取りあげたとき、京(みやこ)というファーストネームの学生さんから、「私は藤原さん、長岡さんまでは許容しますが、東さん、北さん、南さんとの結婚は、選択的夫婦別姓が認められないかぎり不可能です」という感想が来て大笑いになったことがある。残念ながらこれは笑い話ではなく、本人にとって切実な問題であることは間違いない。そして逆に東、北、南姓の男子学生から、「選択的夫婦別姓が自分のパートナー選択に影響することに初めて気がつき、人ごとではないと思った」という感想が来た。
そうした「切迫感」の温度・熱量の違いが、たとえば報道されるテーマの選択や扱いの大きさに影響する。マイノリティの女性が「まぁこんなものか」と遠慮し、「わきまえる(1)」ことで問題は意識されることすらなく再生産される。
例はいくらでもあげることができるだろう。生理の貧困は大昔から存在していたのに、ようやくスポットが当たるようになった。報道の現場に女性が増えたからだろう。ただこれはちょうど災害時の備蓄用品と同じ問題であり、もっと大きなニュースではないか。
さらに子育て政策。子育ては女性だけが関わる問題ではないが、出産をともなう女性にとってより切実な問題であることは間違いない。「イクメン」などといった言葉をマスコミが平気で使うことも私には異様に思える。これは、男性の育児責任を免責する言葉だ。
「イクメン」は定義すると、「自分の子どもの育児に積極的に関わる父親」となるだろうか。だが、これは英語に訳すとfatherにしかならない。あたりまえのことだからだ。自分の子どもの育児に積極的に関わるというあたりまえのことが、あたりまえに行われていないために、あたりまえのことに特別な用語が当てられる。「自分の子どもの育児にすらろくに関わらない父親」というのがのさばる社会でしか、この用語法は成立しない。
とはいえ今のように女性がマイノリティのメディアの中で、明日からすぐに的確な軌道修正を行うのは難しいのかもしれない。最低限心がけてほしい考え方がある。
ひとつは機械的な歯止めだ。たとえば朝日新聞が「ひと」欄で取りあげる対象の性比について、どちらも4割を下回らないようにする、と決めているのはその一例である。こうした機械的な歯止めを設けることは、「モモレンジャー状態」の防止や発信内容の偏りをなくす上で一定の効果があるだろう。
ふたつ目はある言動について「性別を逆にするとおかしくないか?」と立ち止まることだ。「146カ国中125位の男性差別」「男性の9割以上が結婚/離婚ごとに姓を変える」「男性用だけ長蛇の列ができるトイレ」「イクウィメン」……。こうしたことが起きないのはまさにメディアを含め意思決定の場が「男性によって健全に」チェック機能を果たしているからであろう。
そしてこれは決して男女だけの問題ではない。「日本人は」といった瞬間に、日本生まれ、日本育ちで、日本語が母語の在日コリアンを排除してしまうことに気がついている人はどれくらいいるだろうか(2)。
再度繰り返す。意思決定の場の男女比がゆがむと結論がゆがむ。これは日本社会のいたるところで起きている現象であり、残念ながら私の職場も、みなさんの職場も、そしてその職場から発信されてしまう情報も、そこから自由ではないはずだ。
「モモレンジャー状態」を避けるには5人なら2人、10人なら3人は女性が必要だ。3割を「クリティカル・マス」と呼ぶのはこれが健全な意思決定のために最低限達成するべき比率だからだ。みなさんの周りにも必ず、「わきまえて」だまっている女性たちがいる。そのことに気がついてほしい。そしてその気づきが意思決定の結論を変えることにつながることを理解してほしい。
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