〈ラジオ 長寿番組の研究⑥〉RBCiラジオ『民謡で今日拝なびら』~本土復帰前から続く人気番組
沖縄で本土復帰前から続くラジオ番組がある。「民謡で今日拝なびら」という番組である(読み:民謡でちゅううがなびら、以下『今日拝なびら』と略す)。
放送開始は1963年、72年の本土復帰より9年も前の事である。1950年に米軍施政下の放送として沖縄で始まったラジオ放送は、3年後の53年に米軍から琉球大学の奨学金事業などを行う琉球大学財団に譲渡され、翌54年9月に財団の設備を借りる形での民間放送となった。これが今の琉球放送の始まりである。
その琉球放送が設立から9年後にアメリカ軍施政下でウチナーグチ(沖縄方言)を使い、沖縄民謡を放送する番組を始めたのだった。
以来『今日拝なびら』は民謡のリクエスト番組として、三線の響きと「民謡・島唄」が心地良い番組として愛されてきた(当初の番組名は『お国言葉で今日拝なびら』だった)。
沖縄の著名な版画家、名嘉睦稔(なかぼくねん)さんがこの番組のことを語っている。
トランジスターラジオが普及したころ、農作業のために山に出かける人たちはラジオを持っていった。「今日拝なびら」が始まる午後3時になると、それぞれのラジオから島唄が鳴り出し山全体にこだまするのを聞いたのだという。
この番組がどのように受け入れられてきたかを物語る美しい光景だ。57年間出演を続けてきた役者の八木政男(はちきまさお)さんは「ウチナーグチで進行する番組はなかったので、そのインパクトはとても大きかった」としみじみと語っている。
戦中には日本軍によってウチナーグチが禁止され、沖縄の人々のプライドをズタズタにした経緯もある。沖縄の人々にとって、ウチナーグチと島唄は文化そのものであり、自らのアイデンティティーと深く関わってきたはずだ。今回はこの類いまれな番組の魅力を探っていくことにする。
圧巻の60周年コンサート
まず『今日拝なびら』がどういう番組かを知るためにコンサートから始めさせていただきたい。今年4月29日に放送60年を記念して開かれた「おかげさまコンサート」はこの番組と琉球民謡の深い結びつきを直感することができる。
その模様が5月22日にRBCiラジオで放送された。琉球民謡の錚々たる顔ぶれが勢ぞろいし、参加した唄者(うたしゃ)全員が「今日拝なびら」と縁の深い人たちばかりだ。もちろん、現在番組でパーソナリティを務めるレギュラー5人も出演し、会場を盛り上げた。
国立劇場おきなわの大劇場のチケットは早々と完売。客席に来られなったリスナーやファンはネット配信サービスで視聴したという人気ぶりだ。
「60年の歴史を持つ番組ですから、番組にかかわったもっと多くの唄者をお招きしたかったのですが、時間の事を考えますとそれもできなかった事が心苦しかったです。例えば沖縄本島以外の唄者では、与那国島の宮良康正(みやらこうせい)さんしかお呼びできませんでしたが、本当に素晴らしい歌でした(宮良さんはNHKのど自慢全国大会「民謡の部」で優勝した唄者で、当日は与那国の風土を歌った、「どぅなんぱるま」を伴奏なしの素唄で歌い上げ、大拍手に包まれた)」と番組統括ディレクターの森根尚美さんは語る。この番組がいかに琉球民謡の唄者と深く関わってきたかが話しぶりから容易にわかるのである。
オープニングはレギュラーパーソナリティの前川守賢さん、よなは徹さん、仲宗根創さんが奏でる三線のメロディーに乗せて、同じくレギュラーの琉球舞踊家、座喜味米子さんの創作舞踊で始まった。司会進行もレギュラーの島袋千恵美さんとRBCアナウンサーの狩俣倫太郎さんが行い、レギュラー陣のパフォーマンスで心をつかみ、島唄へと進行した。
実に素晴らしい島唄の数々だった。指折りの民謡歌手が歌った後にそれぞれの番組の思い出を語る。
最初に歌った田場さんが与那国まで行って放送したことを思い出すといえば、饒辺愛子さんはこの番組をリスナーとして聴き、歌詞をよくメモしていたと昔を振り返る。『今日拝なびら』が琉球民謡の中心的位置を占めてきたことが実によくわかるコンサートだった。
バトンを渡された「顔ぶれ」
現在の『今日拝なびら』は月曜日から金曜日の平日午後4時から1時間の放送だ。番組ではパーソナリティ同士の掛け合いもウチナーグチが使われる。ウチナーグチを知らないと歯が立たない会話も時にはあるが、織り交ぜられる標準語で意味はおおよそ理解できるように思う。
レギュラーメンバーは現在5人。週3回出演するラジオパーソナリティの島袋千恵美さんは2014年から登場、役者で舞踊家の座喜味米子さんは2016年から、唄者の前川守賢さん、よなは徹さん、仲宗根創さんは2020年からと大きく入れ替わり、新しい世代に完全にバトンが渡されている。
メンバーの交代はこれまで番組の原動力となってきたベテランメンバーが体調を崩し降板したことが大きかった。
沖縄戦や戦後史を題材に一人芝居で活躍した役者の北島角子さんは放送開始以来出演を続けてきたのだが病気により2016年に降板。惜しまれながら翌年、85歳で亡くなっている。沖縄芝居の役者であり、ウチナーグチの伝承に努めてきた八木政男(はちきまさお)さんは2020年に90歳で勇退した。番組開始以来のディレクターであり出演者でもあった上原直彦さんも2020年から病気療養で休演している。
この3人は50年以上にわたり出演を続けてきた番組の顔だった。北島さん、八木さんが長年出演者として番組を支え、上原直彦さんはRBCの社員として、番組のマネージングをするだけでなく、出演者としても番組を支えてきた。
当人は、自らをアナデューサー(アナウンサー・プロデューサーの略)だったと著書で語っているが、もう少し、上原さんについて触れてみたい。
上原直彦さんという存在
上原直彦さんは昭和13年生まれの現在85歳。琉球新報社の社会部記者を経て、琉球放送に入社。今の番組の開始当初の番組名だった『お国言葉で今日拝なびら』の立ち上げ時からディレクターとして敏腕を振るっただけでなく、4年後には番組パーソナリティとしてもレギュラー出演、以来54年間この番組を支え続けてきた功労者だ。
それだけではない。上原さんは島唄の作詞家としての顔も持っている。300曲以上の作詞の中にはヒット曲も数多い。
番組のテーマ曲『遊びウシウシ節』も上原さんの作詞である。フォーシスターズの『丘の一本松』『ちんぬくじゅうしい』も上原さんの作詞だ。この3曲はコンサートでも歌われ、会場を沸かした。この番組から多くの歌者がビッグになり、新しい島唄が何百曲と生まれてきたことは上原さんの存在なしには語れないのである。
上原さんは沖縄の古典歌謡である琉歌へのこだわりも強かった。上原さんは著作が多く、琉歌についても多くを記している。番組では今も「琉歌百景」という常設のコーナーを設けて、琉歌の継承に力を入れている。琉歌とは、8音8音8音6音を基本形とする定型詩であり、詠むことも歌うこともできる古典歌謡である。
古典は味わい深いが難しいものでもある。番組では歌の意味を丁寧に解説し、その後に琉歌を流している。「難しいかもしれませんが、伝えていきたいし、続けていきたいコーナーです」(森根尚美さん)と、琉歌を大切にする姿勢は今も変わらない。
というわけで、上原さんの島唄やウチナーグチへのこだわり、沖縄文化への情熱がこの番組には色濃く反映しているように思えるし、そのことが番組の人気につながっていったと言っていいだろう。
番組のこだわりはほかにもある。放送開始以来、琉球民謡のリクエスト曲はハガキでのみ受けつけていることだ。SNSやFAXは受け付けていない。匿名やペンネームもNGだ。
受け付けたハガキは市区町村名と名前がフルネームで読み上げられ、歌をプレゼントしたい相手の名前を記入していれば読み上げてくれる。プレゼントされた人にとってはいい思い出となるだろう。
中には57年間ハガキを送り続け、リクエスト採用30曲という熱烈なリスナーもいる。コロナ禍では子供たちからおじいちゃんやおばあちゃんに島唄をプレゼントしたいというハガキが増えたという。
ハガキにこだわる一方で、ユーチューブ配信に積極的だ。20代、30代のリスナーは午後4時からの生放送を聴くのが難しく、タイムフリーのユーチューブ視聴が増えているという。またユーチューブなら世界のどこからでも視聴でき、琉球民謡を懐かしむ海外移住者から手紙やメッセージが届くという。
変えないところは変えず、変えるところは変える。番組にとって最も難しいさじ加減とされるが、『今日拝なびら』はこれまで見てきたように果敢に挑戦しているように見える。
八木政男さんはコンサートで「100年も120年も続けてほしい」と後輩たちにエールを送った。番組統括ディレクターの森根尚美さんも「この番組を次の世代につなげていきたい」という。三線の響きと「島唄」の心地良い番組が続くことを願う。(調査情報デジタル編集部)
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