Chat GPTと教育
野中 潤(都留文科大学教授)
テクスト論と対話型生成AI
天才的な作家が独創的な作品をゼロから生み出すというのは幻想に過ぎないということを、1970年代から80年代にかけて日本文学研究の世界に広がった「テクスト論」は明らかにしました。
たとえば、芥川龍之介の「羅生門」は、周囲から隔絶された個人が誰の助けも借りずに「独創」したものではなく、過去に体験した多様な言語体験の「引用の織物」として形成された多元的な存在です。
「或日の暮方の事である。」という書き出しも、「下人の行方は、誰も知らない。」という結びも、読み書きの能力を持った同時代の日本人であれば、誰もが知っている単語のつらなりであり、なじみのある構文です。芥川龍之介は、自らの膨大な言語体験の海の中から、何らかの志向に基づいて言葉を選択し、選択された言葉の影響のもとに次の単語や文節を選択し、文や場面を生成し続けて「小説」を「創作」したわけです。
これは、Chat GPTに代表される大言語システムとしての対話型生成AIが文章を生み出すプロセスと、きわめてよく似ています。
文学研究に関わりながら国語教師としてのキャリアを重ねてきた私が、対話型生成AIの出現を前に想起したのは、先行するさまざまな言語的な生産物の「引用の織物」として文学をとらえ、独創的な作品を生み出す創造主としての作家に対して「作者の死」(ロラン・バルト)を宣告したテクスト論のことでした。
人間が行う創作活動や言語使用は、独特の個性をはらんだ独自性のあるものとして理解され、そこに人間性の証とも言えるものがあると考えられてきました。しかし、対話型生成AIの登場により、「天与の才能」や「神秘的なもの」としてのみ語られてきた人間の言語的な創造性が、一定のパターンやルールに基づいたものであること、またそれらのパターンやルールを基に新しい内容を機械的に生成できる可能性があることが示され、ふたたび「作者の死」が宣告されたわけです。
ハルシネーションとプロンプト
対話型生成AIが持つ大きな可能性を肯定的に語ると、ChatGPTが出力したハルシネーション(もっともらしい大嘘)を提示して、人間の創作活動や言語使用の水準にはとうてい達していないという反論をする人がいます。しかしそれは浅慮と言うべきです。
私自身、2022年12月に初めてChatGPTを使った際、太宰治「走れメロス」の感想文を書かせて、そのあまりのデタラメぶりを笑っていました。リリースされたばかりで、まだ十分に対応できないタイプの問いに対してハルシネーションを出力した対話型生成AIをあざ笑い、「使えない」と切って捨てるのは簡単です。
しかし、私はそんな過去の自分を強く恥じています。間違いを犯した者を誰かとともにあざ笑うというふるまいは、いじめの構造とそっくりだからです。勉強がすごくできるのに運動センスがまったくない同級生にダンスを踊れと強要し、その無様な姿をあざ笑うといういじめの場面。勉強ができるという同級生に対する羨望や畏怖の感情が、弱点をあげつらって攻撃するという衝動に結びついているわけです。
そういう空間に身を置き、誰かをあざ笑うという空気に自分が加担するのは、愉快なことではありません。そもそもプロンプト(質問)に対して間違った答えが返ってきたら、教育者としてまず最初にすべきは自らのプロンプトに対する自省でなければなりません。
自分のプロンプトが間違いを誘発しているのではないかと、自ら発問を反芻し、間違った答えと引き比べて検証すべきです。そういうメンタリティを持つことができず、間違えた生徒を「バカ!」と罵倒したり嘲笑したりするようでは教師失格なのです。
さらに言えば、できないことに焦点を当てるのではなく、できること、可能性を持っていることに焦点をあてるのが、教育者としての基本的なメンタリティであるはずです。魚に木登りをさせた上にマラソンまでさせて「こんなこともできないのか」とあざ笑うのではなく、水の中を生き生きと泳がせてその能力を最大限に引き出すのが、教育者として対話型生成AIに向き合う際に取らなければならない態度です。
より良い対話が生成されるようにプロンプトを繰り出すことを心がけさえすれば、独自の対話術を用いて豊かな知恵を紡ぎ出していた古の哲学者ソクラテスでさえ思いもよらないようなレベルの知的生産すら可能にしてくれるのが、対話型生成AIなのです。
文章の深みや重みについて
対話型生成AIは人間のような「経験」や「感情」を持たないため、生成される文章には深さや重みが欠けると考える人がいます。この際に見落とされがちなのは、対話型生成AIによる文章生成は、大言語システムを成立させるデータセットと人間の側が提供するプロンプトに基づくものであるという事実です。
対話型生成AIは、過去の文献やデータから言語のパターンを学習して文章を生成します。その過程でデータセットの質が結果に影響を与えます。また、人間の側がどのようなプロンプトを提示して文章を生成させるのかということも、生成する文章に大きな影響を与えることができます。
データセットやプロンプト次第で、「経験」や「感情」、「深さ」や「重み」を持った文章を生成することは、十分に可能であるということになるわけです。
人間の直接体験や間接体験は、その人が生きた時間や空間、接触した情報や文化などの狭い範囲に制限されます。たとえば、ある人が日本で生まれ育ち、日本の文化や言語の中でのみ生活していれば、その人の直接体験や間接体験は、主に日本の文化や言語に基づいて形成されます。そのため、その人の創造性や知識は、その環境の中で得られた情報や体験に制限されることとなります。
一方、対話型生成AIがもつ膨大なデータセットは、世界中の多様な文化、言語、歴史、科学などの情報を網羅しています。これは、AIが一国や一文化の制約を受けず、多様な視点と広範な言語体験に基づいてアイデアを生成することを意味します。例えば、AIは日本の伝統的な考え方だけでなく、アフリカの伝説、ヨーロッパの歴史、南米の風俗など、全ての情報を基に文章やアイデアを生成することができます。
このため、AIのデータセットは、個々の人間の体験や知識をはるかに超える広さと深さを持っており、それを活用することで、人間が持つ制限を超えた新しい視点やアイデアを生成する可能性を秘めていると言えるでしょう。
もちろん、このような広範なデータセットを持つことが自動的に「深さ」や「重み」をもたらすわけではありません。なぜなら、AIはその広範なデータセットを「経験」しているわけではないからです。それはおそらく単に、統計的なパターンとして処理されているだけです。
もしかすると、人間がもつ「深さ」や「重み」は、その有限性から来るものなのかもしれません。一つ一つの体験が、その人自身にとってどれだけ価値があるか、どのようにその後の生涯に影響を与えるかなどは、その体験が有限であるからこそ意味を持つわけです。
だからこそ、広範なデータセットを持つ対話型生成AIと、限定的な時間と空間の中に存在する有限の存在である人間が、相違点を理解し、互いの強みを活かしながら共創することが、新しい形の「深さ」や「重み」が生成する契機となり得るのです。そして、その鍵を握るのは、プロンプトを入力する人間に他ならないのです。
講義レポートという制度の終焉
対話型生成AIが進化するにつれて、その生成能力と人間の創造性の間の境界はますます曖昧になっていくでしょう。
大学の講義の初回、たいていの教員は、担当講義科目のテーマに関する基本概念を整理し、レクチャーします。たとえば、比較文化論や地域文化論といった講義科目において「文化と文明の違い」についてレクチャーする場合などが典型的です。国語教育学の授業で「文学教育と言語教育」というテーマを取り上げたり、法学の授業において「法と法律」というテーマを取り上げたりする場合なども同様です。
こうしたテーマに関しては、「文化と文明の相違点と共通点を表にまとめて整理してください。」といったプロンプトを入力すると、対話型生成AIがたちどころにレクチャーされるはずの内容を要約し、整理してくれます。
大学の教員が90分かけて「講義」する内容が、ほんの十数秒で手に入ってしまうのです。逆に言うと、対話型生成AIがほんの十数秒で出力できる内容を、90分間という時間をかけ、わざわざ大学生を教室に集めてレクチャーし、その内容をノートにまとめることを強要してきたのが、近代的な大学教育の一般的なあり方だったわけです。
本に書かれている内容を紹介しながら感想をつづる読書感想文や、大学の講義で教授がレクチャーした内容に基づいて既存の知識をまとめるレポートなど、2000字程度で学習体験を表現させる文章作成タイプの課題があります。これらの課題の中にも、対話型生成AIならたちどころに書き上げてしまうタイプのものがたくさんあります。
だとすれば、今まで出されてきた読書感想文や安易なレポート課題(教授の教えたことをなぞってまとめることにしかならないタスク)を維持するために、対話型生成AIを使っていないかどうかをチェックしようとしたり、端末を使わせず手書きのテスト形式で課題を課すことで対話型生成AIを使わなくさせたりするなどという「対策」を講じることは無意味です。
むしろ、対話型生成AIが容易に出力できるようなことを課題として出すこと自体の是非について、根本的に考え直すべきときなのです。対話型生成AIがある種の課題に対して高度な性能を発揮できるようになったことを、その課題が学生に何を学ばせ、何を評価してきたのかという問いに向き合うきっかけとしなければなりません。
一方で、AIが生成するテキストはあくまでプロンプト(指示文)に基づいているため、プロンプトを考え、指示を出す能力自体が人間の独自のスキルであるとも言えます。深く考える、批評する、新しい視点で物事を見るといった「クリティカルシンキング」と呼ばれるような能力を対話型生成AIが発揮するためには、人間の発するプロンプトが欠かせないのです。感想文やレポートの質も、プロンプト次第で変容します。
これからは、AIの発展がもたらす影響を前向きに捉え、教育や作業の内容を適切にアップデートすることで、人間がより高次の思考や創造性に集中できるような環境を整えることが重要となるでしょう。より高度なクリティカルシンキングを要求する課題、新規性のある創造的なアイデアを生成する課題、チームでの協働を通じた課題解決など、AIがまだ容易に達成できない領域に焦点を当てることが肝要です。
教育の再定義
対話型生成AIの出現とその技術の進化は、私たちの日常や業務の効率を飛躍的に向上させつつあります。特に、情報の収集や解析、さらには新しい知識の生成に関して、これまでの手法を遥かに超える速度と正確性を持っています。こうした新たな現実に対応することは、教育の「効率化」や「便利化」というレベルの話にとどまらず、教育そのものの再定義をともなうものとなるでしょう。
「例年通り」の方法を守ることによって安心・安全を得てきた教育現場にとって、そもそも何のために感想文を書かせてきたのかとか、何のために大量の知識を注入してきたのかという根本的な問題に向き合うことは、痛みをともなうことであり、できれば回避したいことであるに違いありません。
教員が講義した内容を手際よく整理し、記憶し、条件に合わせてアウトプットさせることで学生の単位を認定し、GPA(Grade Point Average)という成績評価で選別して「有名企業」に送り出すことが高等教育機関の使命であると考えている人はいないはずです。
にもかかわらず、事実上、そのようなシステムが強固に構築され、そのような教育機関に進学させるための「基礎学力」を高めようとすることばかりに最適化された中等教育機関が社会的に評価され続けています。
そもそも、教育の効果は、短期的な数値指標で測れるものではありません。「基礎学力とは何か」という根本的な問題が問われている時に、偏差値のような指標で測られてきた「基礎学力」の良し悪しで教育の効果を評価することほど非合理なことはありません。
初等教育機関が「読み書きそろばん」の時代の「基礎学力」習得への過度なこだわりから脱却することも、22世紀へとつながる時間を生きる子どもたちのために、きわめて重要な課題です。何度も音読を繰り返させたり、同じ漢字を機械的に反復練習させたり、筆算の問題を大量に解かせたりといった宿題を全員一律に課すことの意味が問い直されているのです。
対話型生成AIの出現により、知識のインプットだけでなく、クリティカルシンキングや創造性、情報の選別と評価といった新たなスキルが必要になっています。この現実を正視せず、従来の教育手法にこだわり続けるなら、子どもたちが新しい情報化社会の到来や将来の職業の変動に対応できなくなるリスクが高まります。
最終的に、いつの間にか周回遅れになっているこの国がふたたび「先進国」の一員に戻ることも見果てぬ夢になりかねないと覚悟すべきです。
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