テレビドラマ今昔~1986と2024
市川 哲夫(元TBSプロデューサー)
なぜ「1986年」なのか
久しぶりにテレビドラマが巷の話題になっている。TBS金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』のことである。2016年の『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS)の際のブームを思わせる。「裏金問題」や「過激ショー懇親会問題」で紛糾する国会審議でも、しばしば「不適切」が枕詞に使われたほどだ。
このドラマは、「タイムスリップ」ものだが1986年から2024年への移行というのに興味をそそられた。
なぜ1986年を起点にしたのか。脚本の宮藤官九郎も主演の阿部サダヲも1970年生まれだから当時15~6歳、高校に入学する年だ。丁度その年の1月期、私は金曜21時枠の連続ドラマ『親にはナイショで・・・』(脚本・山元清多ほか)というドラマを演出していた。
一種の「アンファンテリブル」もので開成高校を受験する中学3年生(三上祐一)が、「合格したら初めてのオンナになって」と家庭教師の女子大生(安田成美)に迫るという「不適切」なドラマだった。今思えば、その少年は宮藤官九郎とも阿部サダヲとも全く同学年だったことになる。
私は、昨年9月『証言 TBSドラマ私史 1978~1993』(言視舎刊)なる書を上梓して私のドラマ人生の前半部を纏めたのだが、1986年はこの期間のちょうど中間年に当たる。
どんな一年だったろうか。前年9月のプラザ合意を受けて円高が急速に進み、株価・地価の急騰が起き「バブル」経済が進行する。4月には「男女雇用機会均等法」が施行、5月には東京サミットと英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃の来日で、「大国」気分が高まり、7月衆参ダブル選挙で自民党が圧勝する。
サブカルチャーでは、1月雑誌『東京人』が創刊し「江戸・東京」ブームが起き、『週刊少年ジャンプ』が400万部突破、7月TBS『男女7人夏物語』がスタートと続き、12月にはたけし軍団の『FRIDAY』編集部襲撃事件まで起きている。
ドラマにも登場した『トゥナイト2』(ANB)も『11PM』(NTV・YTV)に対抗する形でそれなりの人気を集めていた。 当時の日本人の「集合的無意識」を反映していたと思う。これから約5年、日本社会はいわば躁状気分のようになる。
1986年の『親にはナイショで・・・』は、秋葉原の家電量販店の店長を務める父(原田芳雄)と専業主婦の母(星由里子)と東大二年生の長男(尾美としのり)と中三の次男(三上祐一)の四人家族のホームドラマでもあるのだが、この時代の家族の在り様を反映している。
新しい「家族像」を描いていくホームドラマ
ホームドラマに変革をもたらしたのは、山田太一の二つのTBSドラマである。
『それぞれの秋』(1973年)と『岸辺のアルバム』(1977年)だが、いずれも外からは平穏に見える小市民の家庭でも、家族それぞれに言い合えない「秘密」を抱えている。家族の紐帯というものは、危うい均衡の上に成り立っているということを描いた。
「岸辺」以降のホームドラマは、この前提から出発し、『親にはナイショで・・・』も(ホームドラマとしては)例外ではない。
「親ナイ」は、典型的な核家族家庭。その家族の次男の家庭教師として現れたのが、長男のガールフレンドだった女子大生(安田成美)。長男の東大生は、冬のスキー場で学友たちと泥酔し、友人二人は命を落とす。その事故がきっかけで長男は精神に異変を生じ、大学を休学する。彼を心配した女子大生は、彼の弟の家庭教師としてこの家庭に通うことになる。
2年前に起きた東大生山中湖水難事故から着想を得ている。そして、女子大生の登場によってこの家庭の運命が翻弄されて行く様は、イタリア映画の『テオレマ』(1970年 P・Pパゾリーニ監督)を参考にした。外部からの「闖入者」によって、家庭がバラバラになって行くという仕掛け。そう言えば1983年の映画『家族ゲーム』(森田芳光監督)もそんな作品だった。巨視的に言えば、80年代前半辺りに、日本の家庭には大きな変化が起きていたということだろう。
「親ナイ」のプロデューサーだった近藤邦勝は、「アナログ」的なドラマではなく「デジタル」っぽいドラマにしたいと言っていた。換言すれば、「予定調和」的なドラマを壊したいということだったと思う。そして青春群像劇のラブ・ストーリーとしては、この時代「恋愛」の主導権をとり始めたのは「女性」だった。
テレビドラマに見る「時代の気分の変化」
テレビドラマは、「時代を映す鏡」であり、「時代を覗く窓」とよく言われるが、それを敷衍して、私は「ドラマはジャーナリズムだ」と言うことがある。
『不適切にもほどがある!』が今これ程、話題となっているのはそうした「時代批評」が込められているからだろう。すなわち、「昭和の常識」は「令和の非常識」という時代のズレを描く。私は38年前はまだ30代半ばであり、それなりに人生をエンジョイしており、こんな生活が続いて行けば良いなと思っていた。そして、こんにちのような未来は予想していなかった。だから、「不適切」の主人公・小川市郎(阿部サダヲ)の「現在」での当惑ぶりは、真によく分かる。
しかし人生というのは不可逆的なものであり、歴史を遡ることは出来ない。明治維新では「不平士族」が生まれたし、日本の敗戦後には「斜陽華族」が憂き目を見た。
バブルに浮かれていた日本人が、日本の繁栄の「虚妄」に気付かされたのは戦後50年を迎えた1995年だった。1月に「阪神・淡路大震災」、3月に「地下鉄サリン事件」が起きた。秋には「Windows95」が発売、コンピューター社会が到来した。
「不適切」では、小川市郎の一人娘の純子(河合優実)が、大震災で亡くなったかのような伏線が張られている(本稿執筆時には、まだドラマの結末は見えていない)。
1995年にはトレンディードラマは姿を消し、一番話題となったのはTBS『愛していると言ってくれ』(脚本・北川悦吏子)だった。聴覚障がい者の画家と女優の卵のラブ・ストーリー。ドリカムの主題歌『LOVE LOVE LOVE』ともどもヒット作となった。時代の気分の変化が窺える。
流行の「島宇宙化」
「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という言葉があるが、ドラマも又しかりなのである。時流の変化というものは、「流行」ということでいつの時代にも起きるのだが、この頃、社会学者の宮台真司が若者の「島宇宙化」という概念を打ち出した。
80年代迄は、中高生のクラスでは、テレビや音楽でも概ねみんなが共通の話題とすることが出来たが、90年代以降は何人かずつの小集団に分かれ、それぞれのグループが「島宇宙」を形成しているという仮説だった。この宮台の社会分析には私も概ね同意したものだ。
それはミリオンセラーの音楽にも当てはまり、かつては100万枚超の流行歌であれば、世代を超えて国民の大半が知るものだった。しかし、90年代以降は、ミリオンセラーのヒット曲といえども全国民レベルが認知しているわけではない。いわば世代間でそれぞれの「島宇宙化」が起きている。
ふつうのテレビ番組の視聴率の低下はそれ故でもあるのだが、昨年放送されたWBCは、侍ジャパンの優勝、大谷やヌートバー人気で連日40%超の高視聴率を叩きだした。全世代の視聴者の一大関心事となったのだ。
テレビドラマに、それが可能か?近年、40%超の視聴率に達したドラマが二つある。記憶にも新しいが2011年放送のNTV『家政婦のミタ』(脚本・遊川和彦)と2013年放送のTBS『半沢直樹』(原作・池井戸潤)である。
なぜ、そんなドラマが出来たのか?後付けでの分析は、あれこれ行われたが、いくら分析したところで、高視聴率獲得の方法が見つかるわけでもない。「半沢」を企画・演出した福澤克雄自身が「まったく予想していなかった」数字なのだから。
ドラマ制作者たるもの、視聴率は取りたいものだが、その為にドラマを作るものでもないのだ。不特定多数の像は、なかなか捉えられない。それよりも、自分自身の切実な思いを、具体的な個人に向けてドラマを届けたいと思うものである。その結果として、多くの視聴者に見てもらえたら最高なのである。
私が1993年に制作した『課長サンの厄年』(主演・萩原健一)というドラマ。男の厄年42歳の課長が見舞われたさまざまなトラブルを乗り越えてゆくコメディータッチのドラマが、中年サラリーマンの共感を呼びヒットした。私の厄年明けに作ったドラマだった。
「家族」から「個人」「シングル」へ
1986年「親ナイ」の直後に、山田太一の金曜ドラマ『深夜にようこそ』を大山勝美に依頼されて共同プロデューサーをした。当時すっかり定着したコンビニエンスストアを舞台に、深夜に訪れる客たちの人間模様を描いたドラマだ。
山田太一のオリジナルドラマで、さすがと思わせられる着想の作品だった。視聴率は12~3%だったが、見た人の心に届くようなドラマだった。評論家の川本三郎が放送終了直後、毎日新聞にこんな批評を書いた。少し引用する。
「『家族』から『個人』『シングル』へと社会の単位が変わりつつあるいま、こういうドラマが見たかったのだ。・・・今回は、コンビニエンス・ストアという格好の『冷たい』都市空間を得て、とりわけ生き生きと書いている。これをきっかけにテレビにはホームドラマではなく、シングルドラマがふえるのではないかという予感もする」。(『毎日新聞』86,7・12夕刊)
今、放送中の『不適切にもほどがある!』も、世帯視聴率は8%程度でそれほど高くはないが、タイムシフトや配信での視聴が多いようだ。川本の称した「シングルドラマ」のカテゴリーかも知れない。
宮藤官九郎、磯山晶コンビは、『池袋ウエストゲートパーク』以来コアなドラマファンを持っているが、今回の「不適切」もその「企み」が面白い。いわゆるタイムスリップものだが、その起点が「1986年」だったということが私の視聴動機となったのだ。これまで書いてきたように、私のドラマ人生にとっても1986年は特別な一年だったからだ。
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