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放送界の先人たち~岡田太郎氏

【放送界に携わった先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から、昼のメロドラマの生みの親であり、独特のクロ-ズアップ手法で知られたプロデューサー、演出家である岡田太郎氏のインタビューをお届けする】


放送人の会とは

 一般社団法人「放送人の会」は、放送局、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わる人、携わった人、放送メディア、放送文化に関心をもつ人が、個人として参加している団体です。

 同会では「放送人の証言」として先達のインタビュー映像を収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めています。既に30人の証言をYouTubeにパイロット版としてアップしています。

 「調査情報デジタル」でも証言を紹介すべく、抄録を公開しています。これまでに演出家・鴨下信一氏、キャスター・磯村尚徳氏、ジャーナリスト・兼高かおる氏、 アナウンサー・鈴木健二氏、沖縄を代表する放送人・川平朝清氏、プロデューサー・横澤彪氏のインタビューを紹介しました。今後も随時文字ベースで公開したいと思っています。

<本インタビューは2002年7月9日収録。聞き手はTBSOBで放送人の会の大山勝美氏、注釈は同じく放送人の会会員で放送評論家の松尾羊一氏(本名 吉村育夫、文化放送OB、ともに故人)。再校正はTBSOBで放送人の会の木原毅氏が行った。

岡田太郎(おかだ・たろう)氏とは
フジテレビ創成期を代表するテレビディレクター、プロデューサー。

1930年7月20日東京生まれ、総理府国立世論調査所を経て1954年、文化放送入社。

1958年フジテレビに転籍、平日午後の時間帯にメロドラマを制作・放送したことで知られる。演出の際に登場人物の顔だけではなく、手や足をクローズアップする手法で「アップの太郎」と呼ばれる。

1985年共同テレビに移り取締役、1995年社長、99年会長、2001年相談役(2003年退任)。2024年9月3日没(94歳)

1973年に吉永小百合さんと結婚、岡田・吉永夫妻は同年芸能雑誌記者が選ぶゴールデンアロー賞の話題賞を受賞。

岡田太郎氏の証言(抄)

放送とのかかわりは突然に

岡田 僕は本当は公務員だったのです。「だった」というか、総理府の国立世論調査所という所にいました。それが当時、吉田内閣か何かで、内閣がだんだん悪口を言われるようになった。その流れで、政府が国立でそんな世論調査をやっているのはくだらん、新聞社にまかせておけばいいということで、おとりつぶしになったのです。

 その組織は厚生省や外務省から来ている人が寄り集まって作った一種の研究所みたいなものですから、僕は帰る所がないわけです。それで「お前、どうする?どこかへ紹介しようか」ということになりました。

 その頃僕は、色々な調査で全国を歩いていましたけど、ラジオが全盛期で、大変面白いというので、ラジオの仕事をどこか紹介してもらえないかと頼みました。それこそNHKをはじめ、みんなに聞いてもらったら、ラジオに行く人は当時は大エリートで、途中からなんて行かれないよというので諦めたのです。そうしたら、たまたま文化放送※で動きがあって…

※文化放送 首都圏2番目の民放ラジオとして1952(昭27)年3月末に開局

大山 何年ですか。

岡田 昭和29年(1954年)です。当時のラジオは夜11時で放送を終えていたのを、その年の7月から初めて夜中の2時まで深夜放送をやってみようということで、公にやりますと宣言してしまったのです。

 ところが組合が反対して、やる人がいなくなってしまった。そこで急ごしらえで、今で言えばディスクジョッキーですね。要するにレコードを回して自分でしゃべる。自分で原稿を書いてしゃべって、ニュースなども読む。そういう人を5人採ったのです。契約で採った。その中に僕が入って、深夜放送の発声の第一号を僕がやったのです。

 ところが、さすがに下手なものだから、3カ月でクビになってしまった。そうしたら有坂愛彦さん※という音楽評論家が当時の文化放送で音楽部長をやっていて、その人に「かわいそうだから、残りたい人はちゃんと雇う、やる仕事がないでもない、畑が全然違うけれどいいか」と言われて、いいですと。何でもいいから、1回もぐり込んだらやってしまえと。

※有坂愛彦(ありさか・よしひこ<1905~86>)音楽評論家

 言われた仕事は放送指揮といって、指揮者の「指揮」です。放送指揮室というものがあって、要するに生放送があったり、レコードがあったり、テープがあったりというのを、時間通りにきちんと出す係なんです。言ってみれば送り出しです。そこでどうだと言うから、何でもいいから、とにかくお願いしますと。そこにずっといたのです。

 送り出しの専門家で、僕も当時としては若くて多少優秀だったのかなと思うんだけれども、すぐに評価されて、3年もやればかなりベテランになって、そこのチーフか何かをやっていました。

フジテレビ開局

岡田 それで、昭和32、33年(1957、58年)、文化放送とニッポン放送が一緒にテレビを始めるので、行きたい人は手を挙げろというお誘いがあって、当時は若かったから、新しいものの方が面白そうだというので、手を挙げたら、それじゃあということで。

 それでテレビに行くことになって、まずは実習先としてTBSや日本テレビの運行室みたいな所へ行ったのです。

 ところが、当時はほとんど生でしょう。だから、運行と言ったって時間が来ればパッと切り替えるだけで、4スタから今度は3スタという案配で、オンとなればボタンを押すだけ。レコードを回すわけでもないし、テープをかけるくらいです。

 だから実習に行って、つまらないと思ったわけです。何回も同じ所で見学しても、まったく毎日変わらないから、ちょっと遊びのつもりで他の所を見に行ったんです。そうしたらドラマが面白くてね。とにかくね、生でドラマをやっていたから。照明の上の…

大山 キャットウォーク※。

※ テレビスタジオの照明の上に縦横に走っているスタッフ用通路。スタジオを見おろせる。

岡田 キャットウォークの上から見た日には、まあ、この面白さといったらない。当時は30分番組が多くて、てんやわんやの大騒ぎをやっていて。それを見たら、テレビに来たんだったらこれをやらなきゃ損だという気になって、その時からフジに、ドラマをやりたいとアピールし出したんです。

 ところが、お前さんは送り出しの人として来てもらったのだから、それは困ると言われて拒否されたんです。いや、そこを何とかと言って、それこそ村上七郎さん※とか、あのへんの人にしつこく、しつこくお願いしたんです。

※村上七郎(むらかみ・しちろう<1919~2007>)ニッポン放送を経てフジテレビへ移り初代編成部長。テレビ新広島に出向後、1980年にフジ復帰。制作を分離していた鹿内体制を廃止し、制作現場を中心に「オレたちひょうきん族」「北の国から」などヒット作を生みだして視聴率三冠王に導いた。のち関西テレビ社長。

 それでもなかなか「うん」と言わないので、これはだめかなと思っていたんだけれど、ちょうど僕が……。くだらない話でいいですか。

大山 どうぞ、どうぞ。

岡田 各局へみんなが実習へ行って、一応区切りがあって、そこでレポートを書けと。感想文みたいなものですよね。自分の習ったことをレポートにして出せと。原稿用紙10枚以上とか何とか言うのです。

 ここで一つ、いかにおれがドラマをやりたいかをアピールしなければ損だと思って、一週間の期限があったけれど、ほとんど寝ないで書いて、厚いレポートを出したんです。本当に自分でもよくあんなにエネルギーがあったなと思うんですけど。

 そのレポートが、みんな集まってきて積まれていると目立つわけです。何だこれはと。その当時、かの有名な鹿内さん※が来て、何だこれはと目を付けたらしいのです。

※鹿内信隆(しなかい・のぶたか<1911~90>)財界の日経連専務理事からニッポン放送社長。文化放送の社長水野成夫とともにフジテレビを設立。労働組合を認めないなど特異な体制で臨んだ経営者。のちにフジサンケイグループ議長。

 あまり厚いのでびっくりしてパラパラと見たら、非常に克明に色々書いてある。これは何者だと。それで、呼べということになったわけです。こんなに力を入れて勉強しているやつがいるとは思わなかったみたいなことらしいんだけれども。

 それで呼ばれて、その時にどうなんだと言うから、実はこれこれしかじかでドラマをどうしてもやりたいと。そうすると、ドラマの演出なんて、2、3年やったって出来るものじゃない、これは大変な専門分野なんだと。だからやりたいという情熱は分かるけれど、そう若くもないし、当時30歳になるちょっと前でしたけれども、今からというのは無理じゃないかみたいなことを言われたのです。

 いや、私は5年かかろうと、6年かかろうと、アシスタントで結構です、とにかく一生懸命勉強しますから、とにかく潜り込ませてくれと一生懸命アピールしたのです。それでみんなが、しょうがないなということになったらしく、何とか、芸能部と当時は言いましたが、そこに配属が正式に決まりました。

大山 それは何年くらいですか。

岡田 昭和33年(1958年)です。レポート出して、バタバタと配属が決まって、そして芸能部のメンバーが決まって、みんなほとんどベテランというか、ラジオドラマをやったり、ラジオで音楽番組やクイズ番組をやっていた、そういう制作の経験者が来て、僕1人だけ異色で、芸能部に入った。

 ところがスタジオの工事が非常に遅れていて、確か34年1月だったですが、ようやく完成して普通に使えるようになった。それで事前に試験放送をやらなければいけないのだけれど、その段階では、みんなまだ何もやったことがない。

 そこで、いろいろと実験じゃないけれど、5つの班に分けられて、音楽の人は音楽、ドラマの人はドラマのテストをやったのです。要するに電波を出さないで、スタジオの中だけでやってみる。1カメだ、2カメだということもやったことがないわけだから、それをみんなで総見するという演習実験があったわけです。

 その時にたまたまの割り当てで、最初にうちの班でドラマをやることになって、誰かやんない?となったわけです。ベテランがおおぜいいるのだけれど、やはり何となく最初にやるのが、ほら。「はいはい、私」とは言わないじゃないですか。

 その時は円座になっていて、僕が班長の正面に座っていたら、「君、やれよ」と。「僕はとんでもないです」と言って断ったけれど「それはみんな同じだよ。誰もやったことないのだから。君、やってみろよ」と。そうしたら、みんなが「やれ、やれ」みたいになって。それで何となく。「ええっ?そうですか」みたいな。

いきなりドラマディレクターとしてデビュー

岡田 準備期間といっても大したことはないけれど、こちらは全くの素人だから、はっきり言って脚本家も知らないし、俳優も有名な人は映画を見て知っているけれども、そうでない人はあまり、芝居関係は知らないし。そんなことでどうしていいのか分からなかった。まあ、それは周りの人が「おれが口を利いてやるよ」と言ってくれた。

 それで結局しようがないから、どうせこれは実験台としてやって、それで最後になってしまうかも知れないけれど、まあいいやと。友達の弟が劇団をやっていたので、電話して「何か脚本を書いてくれるか?」と聞いたら「やりますよ」と。「僕はわりと推理ものが好きだから、推理っぽいものを書いてくれ」と。それで「午後7時0分」という、いまだにそのタイトルは覚えているけれど、そういう30分の推理劇を作ってもらったのです。この1作が僕のその後の、オーバーに言えば、人生のポイントでした。

 それまでいろいろな班がいろいろなドラマをやっていて、われわれの班としては初めてだけれど、それまでの実験ドラマは「母と子のフジテレビ」ということで、ホームドラマっぽいものが多かったわけです。しかし、僕は推理劇で、しかもその頃から好きだった、アップで時計がカチカチカチというところを撮ったりして、結構、込み入った話でやった。

大山 わりとミス無くいったのですか。カメラは3台ですか。

岡田 3台です。ミス無くね。AD(アシスタントディレクター)も一生懸命、それこそパッと時計を変えて、こっちへ持ってくるとか。当時の生ドラマ独特のあれがあって、非常にうまくやってくれた。それから、台詞がそんなに多くないわけです。僕が「はい、3カメ」とか「2カメ」とか、僕は初めての経験なのだけれども、やっている声だけが響いて。

大山 サブ(副調整室)にね。

岡田 ええ。だから後で想像すると、みんな、その雰囲気に飲まれていたのではないかと。スイッチャーがカチッカチッとやるでしょう。みんながシーンとしていて、僕の声だけがあって、それで台詞でこうやってやる。それで、とんでもないすごいものを見たという感じになっちゃったのではないかと、僕は思うんです。それできちんと時間も終わって、「ハァー……」とぐったりして。

 そうしたら、部長が呼んでいると言うのです。これは何か叱られるのかと恐る恐る行ったら、中々面白かったよと。「今度は人情ものみたいなものをやれ」と。「ええっ?」と言ったら、「とにかく、ああいうものは分かったから、もっと別な、違うものをやれ」と。「日にちは後でおれが突っ込むから、やってみろ」と。

大山 それは実験ですか。実際の放送でなく?

岡田 実験です。そして、それが終わったら、また、部長が呼んでいると。行ったら、「この番組をやってくれ」と言って、いきなり月曜日の「NEC劇場」 という30分番組の担当を命じられたんです。

大山 ああ、もう決まりでね。

岡田 ええ。「この番組は3月からの放送が決まっている、それをやってくれ」と。「えっ、そんなの…」なんて言ったんだけど、大丈夫だからやれと。「いや、僕はちょっと自信がありません」みたいなことをもぞもぞと言っても「それはみんな同じだから、とにかく大丈夫だよ。このあいだの2本を見たから、やってごらん」と。そう言われて「分かりました」と。結局、ドラマの枠に僕が最初に決まってしまったのです。

大山 あらぁ……。

岡田 だから、ラッキーと言えばラッキーなんだけれど、自分としては、あの何カ月かは非常に不思議、不思議の連続で始まってしまった。だから、他局へ見に行って勉強したくらいで自分でドラマを作ってしまうというのは。

大山 運命付けられたとしか言いようがないですね。

岡田 そうとしか思えない。

大山 映画青年ではあったわけですか。

岡田 ええ。観て楽しむだけでね。別に評論的なことは何もないし、ただ面白がって観ているだけだったです。それこそ役人の頃はお金がなかったので、何が楽しみというと映画を観ることだ、とは言っていたくらいな感じです。だから、オロオロしているうちに一人前になってしまった。

昼のメロドラマはこうして生まれた

大山 それで、昼メロの話。

岡田 昼メロ。本当に瓢箪から駒じゃないけれど、ひょんなことでした。僕が猛烈に忙しくドラマを作っている頃に、フジテレビに食堂があって、時間がない時期でしたから、食事といえば、そこでカレーライスか何かを食うくらいしかなかったんです。

 ある時、一緒にテーブルを囲んだ相手が編成の連中だったのです。「太郎ちゃん、面白い企画ないかね」と言われて、その時はこちらはまだ新米でしたから、編成のちょっとお偉いさんじゃないけれども、そのへんの人から言われると、何か答えなければいけない。そういうつもりで、何を答えようかと思って一生懸命焦って考えたのです。焦って考えて「昼間によろめきドラマをやったらどうでしょう」と言ったのです※。

※1957年に三島由紀夫が発表した小説「美徳のよろめき」が婚姻外の恋愛を描いて大ヒットした。以降、「よろめき」は不倫を表す流行語となっていた。

 なんでそういう発想になったかというと、僕が文化放送で送り出しをやっていた時に、朝の9時半だったか、9時15分だったか、ラジオで15分の帯ドラマがあったのです。それこそ丹羽文雄とか、伊藤整※の「氾濫」とか、ああいうものをやっていました。

※丹羽文雄(にわ・ふみお<1904~2005>)、 伊藤整(いとう・せい<1905~69>)ともに昭和を代表する作家

 そのドラマを毎日15分ずつ、延々やるわけです。その中では不倫を扱ったものが多かったから、僕らの言葉として「おい、よろめきのテープがまだ来てないよ」とか何とか言って、それを勝手に「よろめき」、「よろめきドラマ」と言って使っていたのです。

 そんなのがどういうわけか頭をよぎって、それでカレーライスを食べている時に、さしたるあれがあるわけではないけれど言って、そうしたら聞いたほうがやたらまともに反応して「ああ、面白いんじゃないの?」ということになった。

 当時は各局とも昼間の時間、12時から1時までは演芸ものや歌とか、あとは普通の教養番組みたいなものを放送していたわけです。そこでこれをちょっと試しにやってみようということになって、あっという間に話が進んでしまって、結局最初の放送は昭和35年の確か7月だったと思います。

大山 原保美さんと。

岡田 池内(淳子)さんの「日日の背信」(にちにちのはいしん)※。

※ 1960年7月4日~9月26日 月曜13:00~13:30放送。原作:丹羽文雄、脚本:浅川清道、演出・プロデューサー:岡田太郎、出演:原保美(1915~97)、池内淳子(1933~2010)ほか。

大山 それは15分のベルトで。

岡田 いえ、30分です。週1本です。当時は何もないわけだから、一応日曜日に一家団欒したら、月曜日に旦那は外へ出て行くし、奥さんは1人でやれやれとなる。そこを狙うといいのではないかと勝手なことを言って、結局、月曜日にやったのです。月曜日の1時~1時半。当時は火、水、木、金、土には無かったのです。最初は月曜日だけ。これがばか当たりしたものだから、では火曜日にやってみようとか、水曜日にやってみようとか。結局、フジの場合は、ドラマで土曜まで全部埋まってしまったのです。かなり後になってから例の帯で、ベルトになって。

大山 今はもうほとんどそうですね。

岡田 そうですね。

大山 あの時は本当に、あの時間帯の番組と岡田さんの手法が話題になりましたね。そういう意味では、放送史に残る番組を作られたことになりますね。

岡田 ええ。

大山 それから、今伺っていると、発想がユニークですね。普通のドラマの専門家が考えるものとちょっと違って、たとえば最初にミステリーをやってみようとか。それから昼メロというのは、それはラジオの経験者ということもありましょうけれども、少し発想が斬新ですね。

岡田 違うかもしれないですね。

大山 それが優れた業績を残されたことにつながっている気もしますね。ドラマ好きな人は「ドラマ馬鹿」と言っては悪いのだけれど、ディテールに非常にこだわったり、昔の原作ものは、原作がお芝居、戯曲だったりして、なかなかそこから抜けきらない。

「クローズアップ」は「顔」だけではない

岡田 しかし一つ、全然くだらない話ですが、昔のことで記憶がはっきりしていないけれど、確かに影響を受けたと言えば、「悲恋」※という映画がありました。

※「悲恋」1943年のフランス映画(日本公開は1948年)、脚本:ジャン・コクトー、監督:ジャン・ドラノワ、出演:ジャン・マレー、マドレーヌ・ソローニュほか。トリスタンとイゾルデ伝説を現代化した物語。

 フランス映画で、ジャン・マレーが主演です。主人公が、自分の好きな女を誘い出して逃げるのです。高い山の上に山小屋があって、そこへ女性を連れて来て「自分が食料を買いに下の町まで行くから、必ずここにいるように」と言って、山を降りるわけです。ところがその間に、女性は連れ戻されてしまう。それを知らずに、彼が食料を持って山へ帰ってくる。

 当時の記憶では、山小屋の扉をバーンと開けて中に入って、女性の名前を呼ぶわけです。ところが、普通だとそこで探している所が映るわけじゃないですか。それが全然そうではなくて、周りの連山をバーッとカメラがパーンしていくわけです。そこへ、「ナタリー!」という声だけがかぶる。探している所は全然映らないのに、ダーッと山が映っているのが妙に印象的で非常に頭にあったのです。

 だからテレビで実際にやる時に、それが妙に頭にこびりついていて、ああ、これなんじゃないかと。当時は今のように編集が効かないし、山もないし、海もないし、あれなのだけれども。

 つまり人間が何かをするという表現ではなくて、何かそこにある物とか手とか足とか、そういうことで表現にプラスアルファを求めたいという意識がすごくあって、手のアップとか、そういうものが非常に多かったわけです。あまり顔を映さないで、手ばかりで芝居をさせるとか。それはその影響みたいな、残影が残っていたのです。何か違うことをやってみたいということで、非常にやったのをよく覚えています。

大山 少し分かったような気がするのは、要するにお芝居を映すというのではない。普通はそうですよね。お芝居をさせて、お芝居をしている顔を撮ってしまうのは普通の演出だけれども、つまりそれがお嫌いというか。

岡田 そうそう。嫌いというか。

大山 乗らないというか。それよりもっと違う表現があるだろうと。

岡田 ああ、そうそう。そういうことですね。

大山 なるほど。それは新しいですよ。

岡田 そのように非常に意識したのです。

大山 それでは中途半端な芝居好きはびっくりしますよ。こういうやり方があるのか、と。ああ、そうか、そうか。少し分かりました。つまり人間の行動だけをとにかくじっと見つめているというようなね。それはやはりテレビの最初は特に、小さなフレームを生かすという意味では有効ですよね。手のアップとか。それは和田さん※のアップ主義とはまた違う話ですね。

※和田勉(わだ・べん<1930~2011>)NHKのディレクター、顔のアップで知られる。 

ずっとテレビが好きだった

大山 最近のテレビとの接し方はどうですか。

岡田 やはりよく見ますよ。うちでも呆れられるほどです。「好きなのね、テレビが」と言われるくらい、暇があれば見ています。本を読んでいるか、テレビを見ているかくらいです。本は会社で読んだり、病院で読んだりしていることが多くて。家に帰ると、夜はよくテレビを見ていますね。

大山 岡田さんのテレビ人生は非常に変化に富んで充実されていたという気がしますね。

岡田 もういい、という感じがします。

大山 何かおっしゃりたいことがあれば。

岡田 いやいや、特にないです。たまたま大山さんにこうやって聞かれるというのも妙な感じもしますが。僕らがフジ側で一生懸命やっていた時の良きライバルというか、そういうふうに大山さんたちを見ていたし。特に僕なんかにとっては実相寺さんとか、村木さんとか、今野さん※とか、あのへんの世代の方々というのは、ちょっと僕より一つ下の世代。

※実相寺昭雄(じっそうじ・あきお<1937~2006>)、村木良彦(むらき・よしひこ<(1935~2008>)、今野勉(こんの・つとむ<1936~>)いずれもTBS出身のディレクター(後述)。

大山 そうですね、昭和10年から12年くらいです。

岡田 その人たちに、また一つテレビですごく新鮮な、あの当時としては、目を見張るようなものを見せて頂いた。あの興奮というのもいまだに忘れないような気はします。何か妙に、別にきちんとした交流があったわけじゃないけれども、何かあの頃を知っているのです。僕なんかは一緒に箱根へ遊びに行ったりとか、何かしているんです。今にして思うと、どうしてかなと。たぶん円谷さんでしたか。

大山 円谷一さん※。

※円谷一(つぶらや・はじめ<1931~73>)TBSのディレクターから円谷プロダクションに。「ウルトラQ」以降のウルトラシリーズを制作。父は特撮の第一人者、英二。

岡田 あの人なんかの縁かな。あの人が若手をかわいがっていて、一緒に連れていったのかな。

大山 そうかも知れません。早くに亡くなりましたけれども、「ウルトラマン」を作るちょっと前です。若い連中を連れて遊んでいましたからね。

岡田 それで、遊びに来ませんかとか言われて、妙にあの頃はそういう人たち、そんなに足繁くじゃないけれど交流があって、実相寺さんはあの頃からよく知っています。あの人は素晴らしい演出をしていて、びっくりしました。見るのが楽しみみたいなね、今度はどんなものが出てくるのだろうと。

大山 そういう時代でしたね。私はNHKさんと、和田さんとか、あのへんの人たちと交流がありました。フジテレビ時代の岡田さんと、dAグループ※と言うんですか。そういうのを通じて、ということもありました。

※ 1960年、テレビ制作現場でAD業務を体験したTBSの若い世代が、同人誌「dA」(ダー)を発行。そこに集まった村木良彦、今野勉、並木章、実相寺昭雄、高橋一郎らの執筆グループを指す。3号で廃刊になったが「茶の間の温度を変え、大衆への挑戦による大衆の獲得」といった挑戦的スローガンは、自局より他局の制作現場への反響が大きく、はじめてのテレビ論として話題になった。

岡田 まあ、ほんのわずかですけれどもね。

大山 dAの連中も岡田さんに一目置いていたということもあったでしょうし。

岡田 向こうがある程度、面白がっていたのかも知れません。

大山 そうだと思います。今、ちょっとおっしゃったアップの撮り方が、やはり普通より変わっているぞというところが、若い連中にしてみると非常に関心があったと思いますね。

(了)

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