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他者と共にいる楽しさの笑いへ向けて~日本社会における「人を傷つける笑い」とお笑い第七世代の歴史的可能性

【第七世代のお笑いを「人を傷つけない笑い」とまとめてしまって良いのか?彼らの笑いの本質は?そもそもの「笑い」の源流から解き明かす】

角尾 宣信(和光大学表現学部総合文化学科専任講師)

はじめに

 2022年12月18日、毎年恒例の若手芸人たちによる漫才コンテスト『M-1グランプリ』(ABCテレビ・テレビ朝日系列)が放映され、コンビ・ウエストランド(タイタン所属、2008年結成、ボケ:河本太、ツッコミ:井口浩之)が優勝した。

 彼らの漫才は、あるなしクイズの形式を利用しつつ「YouTuber」や「路上ミュージシャン」など挙げられる事柄に悪口を言い募るものだった。

 このネタは大きな笑いと拍手とともに観客に受けとめられ、また審査員の松本人志からは「こんな窮屈な時代なんですけど、キャラクターとテクニックさえあれば、こんな毒舌漫才もまだまだ受け入れられるっていう夢を感じましたよね」、同じく審査員の立川志らくからも「今の時代は人を傷つけちゃいけないという。あなた方がスターになってくれたら時代が変わる。そういう毒があるのが面白いので、これが王道になってほしい」などと概ね高評を得た。

 確かに2018年にコンビ・霜降り明星(吉本興業所属、2013年結成、ボケ:せいや、ツッコミ:粗品)の『M-1グランプリ』優勝を契機として急激に社会的認知を高め、テレビとインターネットを跨いで活動するようになったほぼ同年代(平成以降の生まれ)または同時期(2010年代後半以降)に世に出た若手芸人たち、「お笑い第七世代」とされる芸人たちがここ数年牽引してきたのは「人を傷つけない笑い」だった。

 お笑い評論家のラリー遠田が指摘するように、ハラスメントや暴力に対する批判的意識が社会全体で強まり、「優しさをまとった笑い」が求められるようになったこと、特にそのような意識をもつ若者の嗜好性がテレビの番組内容に反映されやすくなったことを背景として、毒舌漫才とは正反対の「人を傷つけない笑い」の潮流が生み出されてきた¹。こうした近年のお笑いの流れからすれば、今回のウエストランドの優勝は、その潮目が再度、反動ともとれる展開へ向かいつつあることを示唆するように思われる。

 その点で興味深いのは、審査員のコメントである。彼らは「人を傷つけない笑い」の隆盛を「窮屈」なものと捉え、その逆、強いて言えば「人を傷つける笑い」の方を「王道」であり本来の「面白い」ものと言いたげである。

 では、そもそも「人を傷つける笑い」は、この社会でどのように浸透してきたのだろうか。そして、それに対し「人を傷つけない笑い」はいかなる新たな笑いを提起したのだろうか。本論文では、以上二つの問いに関して、まずは現在も大きな人気を集める漫才を事例に歴史的考察を行い、続いてそれを踏まえ、第七世代のお笑いの可能性を考察する。

¹ ラリー遠田『お笑い世代論——ドリフから霜降り明星まで』光文社新書、2021年、278-285頁。

「めでたい笑い」から優劣の競争による笑いへ

 日本社会における「人を傷つける笑い」を考察する上で、漫才は重要な位置を占める。漫才はボケとツッコミの優劣を競うかたちで展開され、その優劣は、どのような人物が劣位であり傷つけられて当然かを決定することにつながるからである。

 また、漫才は近代の産物でもある。前近代には「萬歳」と呼ばれた芸能が、明治期より変容し、昭和初期に現在の「漫才」が確立された。そこで、本節では漫才形成の歴史的経緯を概観し、次節以降では近代の笑いの社会的機能について考察する。

 まず前近代の萬歳について確認しておく。その最古の記録は平安時代に遡るが、新年に家々を巡り、その年の多幸を寿ぐ芸能を提供して金銭を得る門付が主であった。

 さらに、この芸能の起源は文字記録のない太古に遡るとされ、新年に限らず酒造や建築、農作業の節目から新生児の生誕に至るまで、あらゆる人間の営みにおける予祝的機能を果たす芸能であったと考えられている²。

 そのため、萬歳の目的は物事の成就を神々に祈念することにあり、その主たる演目は太夫と才蔵という二人の演者による掛け合いの唱和や祝辞であった。予期せぬ天変地異や災いに大きな不安を抱いていたであろう太古の人々にとり、土地の神々と人々との朗らかな和合の笑い合いを示す芸能は、その不安を和らげる効能を有した。そのため、確かに萬歳でも太夫がツッコミに近い役割を、才蔵がボケに近い役割を担い、可笑しみを惹起する応酬を行う場面は存在するが、それは中心的要素ではなかった³。

 よって、萬歳の笑いは、近代の漫才とは異なると言える。それは特定の対象を一方的に笑うのではなく、「人を傷つける」要素も少ない。むしろ笑い合いという双方向的な笑い、人々が朗らかに明るい未来を祈念し合い、その場を共有することが重視される。このような笑いを、ひとまず「めでたい笑い」としておく⁴。

 さて、この萬歳が本格的に変容するのは明治以降である。まず明治末期には、都市部の近代的生活リズムに合わせた歌舞が中心となり、また合間には滑稽なしゃべくりが挿入された。この新しい萬歳は「万才」と銘打たれ、寄席興行での商品となる。

 さらに昭和初期、1930年代に入ると滑稽なしゃべくりのみで成立する「しゃべくり漫才」が登場する。ここで、現在の漫才の形式、社会常識を示すツッコミとそこから逸脱するボケとが明確に機能分化した上で優劣を競う形式が確立する。そして、この更なる変容を蒙った萬歳を「漫才」として商品化し、お笑い業界を席巻したのが吉本興業であった⁵。

 つまり、漫才は笑いの近代化の一環で生じたのであり、そこでは笑いの芸能が本格的に近代資本主義の競争原理に包含されるとともに、芸能の内容もボケとツッコミの優劣をめぐる競争となったのである⁶。

² 盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』雄山閣出版、1974年、117-159頁、参照。
³ 鶴見俊輔『太夫才蔵伝——漫才をつらぬくもの』平凡社ライブラリー、2000年、26-40、276-284頁、および樋口和憲『笑いの日本文化——「烏滸の者」はどこへ消えたのか?』東海教育研究所、2013年、68頁、参照。
⁴ 萬歳における「めでたい」要素に関しては、前田勇『上方まんざい八百年史』杉本書店、1975年、117-127頁、も参照。
⁵ 鶴見『太夫才蔵伝』、116-132、152-168頁、および相羽秋夫『上方漫才入門』弘文出版、1995年、22-25頁、参照。
⁶ 厳密には、笑いの芸能の資本主義経済への取り込みは、貨幣経済が浸透しつつあった江戸時代における寄席興行から始まっている(前田『上方まんざい八百年史』、111-117頁、参照)。

「人を傷つける笑い」の社会的機能①:「懲罰の笑い」と帝国主義イデオロギー

 こうした漫才の笑いは、近代社会における笑いの社会的機能を考察した哲学者アンリ・ベルクソンの議論から捉えることができる。

 まずベルクソンは、人々に笑いをもたらす対象を「習慣の強張り」や「自動性」など、一連のぎこちなさの要素に見出す。そして、本来であれば社会の構成員は常に流動していく周囲の環境や人々にしなやかに適合しなければならないため、社会はぎこちなさによる失敗やしなやかさの欠如を矯正の対象とする。この矯正機能を果たすのが笑いであり、人々は笑われる対象のぎこちなさを嘲笑して「懲罰」を与えつつ、笑われないよう自らを律する⁷。

 さらに笑う主体は、劣位とされる対象をまず認識する段階では「ほんの短い間その人の立場に身を置く」。そのため束の間、笑う対象と自らが対等かのように錯覚する。その上で笑う主体は対象を劣位として笑い、それに対し自らを社会的に認められた優位に感じ、安心感を得る。この一連の肯定的情動が前景化するため、笑いはその懲罰としての側面、自らの暴力性を「見かけの善良さ」によって隠蔽する機能も有するとされる⁸。

 すると近代日本社会における漫才は、このベルクソンの指摘する懲罰の笑いを具現する芸能として捉えうる。漫才の基盤は、社会常識から逸脱するボケを嘲笑に値する劣った対象、「愚かな役」として明確化する点にあるからだ。

 その上でボケによる抵抗が生じても、既存の社会常識を根本的に毀損することはない。そして、ボケを律するツッコミこそが「賢い役」として優位に立ち、懲罰の機能を具現する⁹。

 つまり、少なくとも基本的形式における漫才は、ツッコミとボケの優劣を根本規定とした上で、見かけの優劣の逆転可能性という善良な競争を仮構しつつ、しかし実質的には揺るぎない階層秩序において劣位の者に懲罰の暴力を振るう一方向的な笑い、「人を傷つける笑い」の表現方法を追求した芸能ということになる。

 そして、漫才における優劣の階層秩序は帝国主義イデオロギーとも連動していく。文化研究者の米山リサが指摘するように、時に漫才はボケ側に大日本帝国からみた周縁部、中国や朝鮮の人々を演じさせ、衣服の前近代性や日本語のぎこちなさ等を前景化させる。そして日本人としてのツッコミがこのボケを律することでこれらの人々の劣位を強調し、日本人主体の優位を保障する¹⁰。

 同様の議論は明治期以降の風刺画に関する研究でも認められ、風刺を通じた懲罰の笑いとともに醸成される差別意識は、皇軍兵士をして自らの暴力を劣位の者に対する当然の仕儀と錯覚させ、本来は暴力に伴うはずの罪悪感を磨滅することに寄与した¹¹。

 つまり懲罰の笑いは、植民地主義に基づく侵略戦争を潤滑に遂行させるイデオロギー戦略の一環として近代国家に取り込まれたのであり、この国の「人を傷つける笑い」は実際に「人を傷つける」暴力を促進したのだった。

⁷ アンリ・ベルクソン『笑い』合田正人・平賀裕貴訳、ちくま学芸文庫、2016年、17-19、125-140頁。
⁸ 同前、140-182頁。
⁹ 根本規定としてのツッコミとボケの優劣は、舞台での上下の立ち位置においてもほぼ慣習的に決定されている(相羽『上方漫才入門』、12、15頁、参照)。また、漫才のもつ「批判力」と「公的イデオロギーの媒介」としての機能との両義的作用、およびこれも別稿に譲るしかないが漫才の「時事性」に関しては、米山リサ「娯楽・ユーモア・近代——「モダン漫才」の笑いと暴力」、小森陽一ほか編『岩波講座6 近代日本の文化史 拡大するモダニティ』岩波書店、2001年、159-168頁、参照。
¹⁰ なお、ここでは演じるボケもまた日本人であり、演じる主体としての優位も日本人側に偏って付与される。米山「娯楽・ユーモア・近代」、166-167頁、参照。
¹¹ Cf: Han Jung-Sun, “Empire of Comic Visions: Japanese Cartoon Journalism and its Pictorial Statements on Korea, 1876–1910.” Japanese Studies 26, no. 3 (2006), 283-302.

「人を傷つける笑い」の社会的機能②:天皇制国家を支える「抑圧の移譲」としての漫才

 ここで重要なのは、漫才の背景を成す国内外での優劣の階層秩序を支える基盤が、歴史的には近代天皇制に求められることである。

 先の十五年戦争とほぼ軌を一にして形成された漫才において、ツッコミがボケを笑いとともに懲罰すること、また中国や朝鮮の人々を劣位として嘲笑することが正当化され得たのは、ツッコミが大日本帝国の臣民たる常識的な「日本人」だからである。

 そしてその優位は、まさに天皇の神聖性によって保障される。神代に遡行する歴代皇祖たちの家父長制に基づく系譜とその悠久の時間性によってこそ、その天皇の「赤子」たる日本人(特に日本人男性)の優位が保障され、そこでの階層秩序も権威付けられ、懲罰の笑いが正当化される¹²。

 そして、近代天皇制のイデオロギーは現在の漫才とも連関している。現在でも日本社会では至るところに、戦時中までと同様の階層秩序が維持されているからだ。特に学校組織や会社組織における階層秩序の歴史的起源は、大日本帝国の軍隊組織および官僚組織に求められる。これら組織の構成員たる官吏は、「天皇と政府に対する無限の忠誠と、その対価としての終身保障を特徴とし」、その賃金は国家の頂点たる天皇により権威付けられた階層秩序での各自の「身分」によって決定される¹³。

 「天皇」との関連が明示されないだけで、現在も日本社会はあくまで天皇制国家の下に維持されており、今でも構成員には組織に対する「無限の忠誠」が求められ、また「身分」という必ずしも実質的能力に基づくわけではない上司や先生や先輩による支配の下、劣位の者への抑圧が生じる¹⁴。

 よって、そこでは丸山眞男の提起した「抑圧の移譲」が必須となる。丸山は、天皇制国家を「上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持され」るシステムと喝破した¹⁵。つまり、天皇制国家を運営するには、その階層秩序において生じる抑圧のストレスを自分より劣位の者へ発散させる装置が必要となる。

 すると、まさに漫才こそ、今も稼働するその装置の一つと見なしうるだろう。天皇制国家に生きることで蓄積されるストレスは、漫才におけるツッコミのボケに対する懲罰を通じて、「日本人」としての常識のない者、他民族、またどの組織に忠誠を誓うわけでもないYouTuberやストリート・ミュージシャンなど、天皇制国家の階層秩序に従属しない者への蔑視や暴言の許可というかたちで、誰に対してであれば暴力的に発散してよいかが示される。

 人々はこうした逸脱者を劣位として嘲笑することで、階層秩序を維持したかたちで日々貯まったストレスを発散する。ベルクソンの指摘した懲罰の笑いは、日本社会において、天皇制国家を維持するための抑圧の移譲を担う装置として社会的に機能し、だからこそ「人を傷つける笑い」としての漫才が現在も隆盛をみているとも言える。

 よって、序論で引用したように「人を傷つけない笑い」を「窮屈」とした松本人志が漫才師であることこそ重要なのだ。彼の企画による人気の年末特番シリーズ『笑ってはいけない』が、その暴力性を指摘されつつ、ここ二年間は休止したことは記憶に新しいが、当該シリーズではまさに、笑いを我慢するというゲームを通じた芸人たちの優劣が競われるとともに、それを俯瞰する視聴者の圧倒的優位が保障され、一年間のストレスが嘲笑によって発散される¹⁶。この天皇制国家では、現在も漫才師がその階層秩序を維持すべく要請される懲罰の笑いを企画し、人気獲得に腐心していることになろう。

 しかし、以上のように歴史を省みるならば、天皇制国家における「人を傷つける笑い」はあくまで近代以降に確立したお笑い文化の歴史的一形態にすぎず、めでたい笑いが完全に消滅したわけではない。次節以降では、このめでたい笑いとの連関も含め第七世代のお笑いに関する分析の大枠を示し、一抹の希望を示唆したい。

¹² 多木浩二『天皇の肖像』岩波現代文庫、2002年、188-201頁、および西川祐子『近代国家と家族モデル』吉川弘文館、2000年、9-37頁、など参照。
¹³ 小熊英二『日本社会のしくみ——雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社現代新書、2019年、234-235頁。
¹⁴ ハラスメントや性暴力やいじめに関して、国家そのものの影響は注目されつつあるが(信田さよ子『家族と国家は共謀する——サバイバルからレジスタンスへ』角川新書、2021年、など参照)、これらも天皇制国家の問題として捉える必要があるだろう。
¹⁵ 丸山眞男『新装版 現代政治の思想と行動』未來社、2011年、25頁。
¹⁶ 『笑ってはいけない』シリーズに関しては、笑うことを罰するという、懲罰の笑いの逆転により笑いの暴力性を隠蔽する戦略が認められ、それは敗戦後の象徴天皇制のイメージ戦略とも連動すると思われるが、本論文では割愛する。別稿を俟ちたい。

第七世代におけるツッコミの変容

 前節までで確認したように、近代の漫才においては機能分化したボケとツッコミの優劣をめぐる階層秩序が明確化し、その上でツッコミは劣位の者に対する暴力を正当化する機能を担った。

 この観点から第七世代の芸人たちによる漫才やコントをみるならば、そこでのツッコミの機能には異なるものが認められる。そこで本節では、第七世代の漫才やコントにおけるツッコミの機能を三つに分類し、考察を進める。

 まず、コンビ・霜降り明星の漫才について、例えば、彼らが優勝した2018年の『M-1グランプリ』にて披露したネタ「豪華客船」をみてみよう。

 ボケのせいやが船内の様々な様子を身振りと声色の使い分けで披露し、それにツッコミの粗品が合いの手を入れるものだが、例えば、せいやがダンスホールでの様子を再現し、両腕を激しく前後に回したのち片膝をついて何かを献上するような姿勢をとる。するとすかさず粗品は、「こいつは表現力が劇団四季!」とツッコむ。また、せいやが船長として舵を回す動作をしつつ、体を左右に動かしながら「こっから明日~、こっから今日、こっから明日~、こっから今日」と言うと、粗品は「日付変更線を挟んでる!」とツッコむ。

 せいやの動作は、それ自体としては謎めいているが、粗品が的確に解説するツッコミを入れることで笑いを誘うものになる。

 このようなツッコミは、従来の漫才における、ボケを律し懲罰の笑いを誘うツッコミとは異なる。ツッコミは、むしろボケの世界観を理解するがゆえに的確な解説者となり、笑いを通じてボケの逸脱した世界観を視聴者に伝える¹⁷。このタイプのツッコミを「ボケを理解できるツッコミ」としておく。

 続いて第二に、まさに「否定しないツッコミ」として人気を博したコンビ・ぺこぱ(サンミュージックプロダクション所属、2008年結成、ボケ:シュウペイ、ツッコミ:松陰寺太勇)を取り上げよう。

 例えば、2019年の『M-1グランプリ』で第3位を獲得した際のネタ「デート」であるが、そこでは、好きな女性が出来たのでデートの練習をしたいというシュウペイに松陰寺が付き合う。

 まずシュウペイの要請に従い、女性側を演じる松陰寺が待ち合わせに遅れた設定で、「ごめーん、だいぶ待ったよね?」とやって来る。するとシュウペイは、「大丈夫だよ。待ったって言ってもたったの4年だから」と笑顔でボケを返す。それを受けて松陰寺は、「いや、4年も待てるほど人を愛したことあるよーって人、いる?」とツッコむと見せかけて観客に振る。

 また後半では、シュウペイが勝手に床に座り込んでしまう。松陰寺は「いや、ちょっと待ってくれ相方。なに座ってんだよ」と普通のツッコミを入れるが、それでもシュウペイは立たない。結局、松陰寺は業を煮やし、「いや、立たねえのなら俺が座るからいい」と自分も座ってしまう。そして二人とも座ったまま、最終的に松陰寺が「ずっと何やってんだよ」とツッコむと、シュウペイが「いい加減にしろ」とむしろツッコみ返し、それに対して松陰寺が「いや、お前が終わらせたっていい」とツッコミを再度抑え、ネタが終わる。

 ぺこぱの場合、松陰寺のツッコミは確かにボケを「否定しない」。しかしそれ以上に重要なのは、ツッコミがボケの逸脱した世界観を理解しようとするプロセスを提示する点である。松陰寺は、ツッコもうとする際、ほぼ毎回「いや」とやや引き延ばし気味に言う。その時間内において、観客は、松陰寺が通常通り「いや、そうじゃねえだろ」とツッコむものと予測する。

 しかし、松陰寺はツッコむと見せかけてツッコまず、むしろシュウペイの世界観を理解すべく、ボケに乗ってみることをくり返す。そのため観客は、ツッコミはボケを否定するものという自らの固定観念に気付き、それが更新されることで笑いが生じる¹⁸。

 つまり、シュウペイへのツッコミを抑えその世界観を理解しようとする松陰寺のプロセスは、自らの固定観念を変更しボケを理解しようとする観客自身の内面のプロセスと並行する。

 これは、ボケの世界観を理解して即座に解説する第一のタイプのツッコミとは異なる。こうした理解へのプロセスを重視する展開は、コンビ・空気階段(吉本興業所属、2012年結成、ボケ:鈴木もぐら、ツッコミ:水川かたまり)のネタにも散見されるが、この第二のタイプを「ボケを理解しようとするツッコミ」としておく。

 最後に第三のタイプとして、例えばトリオ・3時のヒロイン(吉本興業所属、2017年結成、ボケ:ゆめっち、かなで、ツッコミ:福田麻貴)のコント「妖精」をみてみよう。

 妹(ゆめっち)に連れられて森へ妖精探しに来た姉(福田)が妖精(かなで)を発見するが、妹には見えない。そのため妹は小さく可愛らしい妖精を想像して虫かごを差し出したり、指に止まるよう無邪気にお願いしたりするのだが、妖精を演じるかなでがかなり大柄の女性であるため現実とのギャップが生じ、笑いを誘う。

 さらに、現実の妖精について妹に解説するのは姉役のツッコミ・福田であり、第一のタイプである解説するツッコミが展開される。しかし終盤、姉は妖精に捕食され死亡してしまう。こうして舞台上には妹と妖精、つまりボケ役のみが残され、遂に祈りが通じて妖精を見られるようになった妹が、想像と現実のギャップに驚き、絶叫してコントは終わる。

 ここではツッコミが消滅し、ボケとの意志疎通が完全に断たれてしまう。こうした展開は、同じくトリオのハナコ(ワタナベエンターテインメント所属、2014年結成、ボケ:岡部大、菊田竜大、ツッコミ:秋山寛貴)のコントでも散見されるが、つまりボケの世界観をツッコミが理解できず、両者の断絶がそのまま提示される。この第三のタイプを「ボケを理解できないツッコミ」としておく。

 以上に鑑みると、第七世代の芸人たちは、旧来のボケを劣位として懲罰するツッコミに対して、何がしかボケへの理解を踏まえたツッコミを行っていると言える。そして、ツッコミがボケを理解する度合いにより、第一のタイプから第三のタイプへと至るグラデーションが描けることになる。

¹⁷ ラリー遠田は粗品のツッコミについて、「まるで一枚の絵画にタイトルをつけるよう」と評する(ラリー『お笑い世代論』、264頁)。
¹⁸ 脳科学や認知科学の知見に基づく議論では、笑いは、状況認識の更新に対する報酬としての肯定的情動の一つとされている(マシュー・ハーレー、レジナルド・アダムズ、ダニエル・デネット『ヒトはなぜ笑うのか——ユーモアが存在する理由』片岡宏仁訳、勁草書房、2015年、など参照)。

第七世代による「他者と共にいる楽しさの笑い」

 このように、第七世代はまさにツッコミの機能を変容させることで新たな笑いの領野を切り開いたが、そのことは、先に確認した笑いの近代化における懲罰の笑いの隆盛を踏まえるならば、画期的な事態と言える。ツッコミによるボケへの理解の基盤には、ツッコミがボケを自らと対等な一人の人として認めるという前提があるからだ。よって、この笑いのあり方は、優劣の階層秩序を否定する以上、天皇制国家における抑圧の移譲の役割を放棄するものであり、従来のツッコミに対する抵抗とも捉えうる。

 そして、だからこそ第七世代のお笑いを、「人を傷つけない笑い」と括るのは正確でないどころか危険でもある。その言葉では、第七世代のお笑いの豊かさが表面的な「人を傷つけてはいけない」という禁止に収斂され、その背後には「人を傷つける笑い」が暗示されてしまうからだ。

 実際には、第七世代のお笑いは、ボケを対等な他者として理解しようとするための手段として、ボケを傷つけるツッコミをしないだけである。そして、ボケを傷つけないことでこそ、他者を理解しようとした先に見える、ボケの世界観の豊かさや逆にその理解できなさが醸し出す無気味さ、そしてボケとツッコミですらなく、ある程度しか理解し合えない二人の人間が共に同じ空間にいることの楽しさが生じる。

 「人を傷つけてはいけない」のは、それが禁じられているからではなく、そうした方が楽しいからなのだ。よって、第七世代のお笑いは「他者と共にいる楽しさの笑い」と言う方が適切と思われる。

 そして、特にこうした共存の喜びが朗らかに立ち現れるのが、他者の完全な理解も完全な理解不能も示さず、その中間の曖昧さに留まるぺこぱの漫才だろう。そこにはもちろん、懲罰の笑いがもたらす激しい可笑しみや優越感はないし、第一のボケを理解できるツッコミがもたらす極端な意外性も、第三のボケを理解できないツッコミがもたらす逆に極端な無気味さもない。

 畢竟、他者としてのボケは、理解しようとするツッコミの傍らにいるだけで、そして二人は、ある程度しか理解しあえぬまま、しかしひとまず共にいる。のんびり座り込むボケに寄り添ってツッコミも座ってしまう時、時間の流れはやや緩慢になり、可笑しみというよりも、二人が共にいること自体が場を朗らかにする。

 これはまさに、第1節で確認した前近代のめでたい笑いと通じ合うものではないだろうか。そこでも笑いは、逸脱した他者を懲罰するものではなく、物事の始めや慶事に際して、その場にいる人々が明るい未来を歩めるよう、朗らかに祈るものだった。

 他者と共にいる場を寿ぐこと、このめでたい笑いへの一種の回帰を基盤として、前節で指摘したボケへの理解をめぐる多様なツッコミと笑いの領野が生じるのであり、この豊かさには懲罰の笑いから脱する希望が垣間見える¹⁹。そう、天皇制国家には、天皇制を支えるお笑いだけが存在するわけではない。こんな当たり前の事実も見失わせるほどに、天皇制国家はそこから逸脱する笑いを表面的な禁止の建前に貶め、その裏に隠された本音たる懲罰の笑いこそ、抑圧の移譲こそが笑いの本質だと再度焚きつけるのだが——。

 しかし、第七世代のお笑いが、たった4年ほどで反動を招いてしまうことには、やはり限界もあったと思われる。その要因としては、まずこの潮流が、第二次安倍政権以降、本格的に進展する新自由主義の社会的影響を土台としていること(非正規雇用による女性の社会進出、世界的なSDGsへ向けた機運など)、また、「人を傷つけない笑い」が「政治家を傷つけない笑い」へと政治利用されるようになったこと(この点は、コロナ禍においてアベノマスク批判を抑圧したEXITの漫才に典型的だろう²⁰)、そして、他者の無気味さもSNS上での冷笑の対象として政治利用されつつあること(この点は、ひろゆきや成田悠輔など、冷笑系タレントたちの笑いとの関係が考察される必要がある)などが挙げられよう。

 そのため、第七世代のお笑いは、近年の日本の暗澹たる政治状況を考察する上で貴重な資料ともなりうるのだが、しかし暫し、このお笑いがもたらす朗らかな場にて天皇制国家の外部へと想像をめぐらしたい。そこで一旦、筆を擱くことにする。

¹⁹ 但し、めでたい笑いに関しても、すでに平安期以降、特に宮中での萬歳においては天皇の治世を寿ぐことが主目的となっており、天皇制の権力と笑いとの関係は生じている。この点は、前近代の天皇制と近代天皇制との相違も踏まえて考察すべき問題であり、別稿を俟ちたい。
²⁰ 2020年4月6日に『EXIT Charannel』にて配信されたネタ「コロナに負けるな!! EXITのコロナ注意喚起漫才ぶっかま!!」(https://www.youtube.com/watch?v=0NJl1tU6O98)、参照。

<執筆者略歴>
角尾 宣信(つのお・よしのぶ)
2021年、東京大学大学院総合文化学科超域文化科学専攻、単位取得満期退学。
同年4月より、和光大学表現学部総合文化学科専任講師。
専門は映画学、美学、特に敗戦後日本の喜劇・風刺映画、お笑い文化等を研究。
主な論文・著書として、「『サザエさん』と象徴天皇制——日本における政教分離の再考へ向けて」(『REPRE』46号、2022年、https://www.repre.org/repre/vol46/note/tsunoo/#body)、「占領期前半における風刺の特徴と検閲に対するその抵抗性——『総合風刺雑誌VAN』の分析から」(『Intelligence』20号、2020年、66-85頁)、『渋谷実 巨匠にして異端』(水声社、2020年、志村三代子との共編著)などがある。

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