追悼 橋田壽賀子さん
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追悼 橋田壽賀子さん

【テレビドラマの歴史に大きな足跡を残された橋田壽賀子さん。ベテランプロデューサーがつづる、橋田さんの歩みと功績】

 市川哲夫(テレビプロデューサー)

 4月4日、橋田壽賀子さんが亡くなられた。一斉にメディアで報じられた翌5日、『調査情報デジタル』の岩村隆史編集長から追悼文を依頼された。橋田さんと親しい方は、他に幾らでもおられるのに、「なぜ、私に?」と問い返すと、「テレビドラマ史における橋田さん」という観点から書いてくれればと言われたので、お引き受けすることにした。
 従って、以下は文中全て敬称略とさせていただくのでご寛恕いただきたい。

映画界から、テレビドラマへの転身という幸運

 橋田壽賀子は、2019年(令和元年)5月に『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載した。本文も、それに依拠する所が少なくないが、私自身も2010年9月に『調査情報』誌上で、「渡る世間は鬼ばかり」の第十シリーズのスタートに際し、橋田と石井ふく子プロデューサーに巻頭対談をしていただいた。橋田、石井ともに大正時代末期に生まれた同年代である。橋田は、大阪・堺の女学校(現・府立泉陽高校)の出身であり、与謝野晶子の後輩にあたり、女優沢口靖子の大先輩でもある。人の縁とは不思議なもので、石井ふく子は十代半ばに与謝野が創設に関わった文化学院で、与謝野晶子の講義に接している。橋田は、戦中に日本女子大に進み、戦後には早大に進学。そこで演劇に目覚め大学を出て、松竹に入社し脚本部で脚本家としての道を歩み始める。
 松竹での十年間は、橋田にとって必ずしも満足できるものではなかった。「本当、女一人はいやでしたね、あの当時は。」(『調査情報』497号より)と自身で述懐されている。「映画時代は、不遇だったよ。橋田ちゃんは」と、某映画脚本家から私も聞いたことがあった。戦後、間もない映画界で活躍していた女性脚本家と言えば、水木洋子と和田夏十くらいでは、なかったか。因みに、水木は谷口千吉監督と結婚歴があり、和田は市川崑監督の妻だった。橋田は、何本か映画の脚本も書いたが、先輩の男性脚本家との連名であったり、なかなか「一人前」のライターとしての扱いを受けられず、あまつさえ「秘書部」への転属まで打診される。映画界は当時全盛期にあったが、1958年のTBSドラマ「マンモスタワー」(脚本・白坂依志夫、演出・石川甫)に描かれたように、新興メディアたるテレビの台頭を実は恐れていた。
 そして、橋田はテレビドラマの世界への進出を考えるようになる。自ら、テレビ局に脚本を持ち込みアピールしたそうだ。NTVとTBSに縁が生じ、少しずつテレビドラマの仕事が舞い込む。映画と違い、脚本の台詞が一言一句そのまま直しがなく演じられるテレビドラマに、より魅かれるようになった。TBSでは、今から考えると少し意外だが、刑事ドラマの「七人の刑事」を、4本も書いている。1962年の第43話「レースの手袋」、1963年の第74話「表彰状」、第89話「生きているものと死んだもの」、第96話「帰ってきた娘」であり、演出は山田和也ディレクターだった。山田は、プロデューサー兼ディレクターだった蟻川茂男と「七刑」を担ったが、橋田にとってはこの二人との出会いが幸運だった。山田は、「東芝日曜劇場」のプロデューサーの石井ふく子に橋田を引き合わせたのである。それが機縁となって、初めて「日曜劇場」で、1964年1月放送の「袋を渡せば」(演出・蟻川茂男、主演・香川京子、山内明)を書く。そして、この作品が同年4月の「愛と死をみつめて」(演出・蟻川茂男、主演・大空眞弓、山本学)に繋がる。このドラマの反響は凄まじく、脚本家・橋田壽賀子の出世作となった。橋田は、オリジナル脚本を旨とする脚本家だが、これは病いで夭折した女子大学生大島みち子と、恋人の河野実の往復書簡が原作である。以後、TBSでは石井プロデューサーの絶大な信頼を得て、半世紀を超える盟友関係となる。私生活では、1966年5歳年下のTBSの制作マン岩崎嘉一という伴侶を得る。ここでも石井ふく子が、「結びの神」となった。

テレビドラマの金字塔~「おしん」と「渡る世間は鬼ばかり」

 TBSと並んで、橋田の大きな活躍の舞台となったのはNHKテレビだが、あの「おしん」に先立つ15年前、テレビ小説「あしたこそ」(主演・藤田弓子)を執筆した。これも橋田作品では珍しい原作物で、当時若手人気作家だった森村桂の二作品を併せて脚色した。70年代には、「となりの芝生」「となりと私」で、いわゆる嫁姑モノの鉱脈を掴む。橋田は、NHKでも地歩を固め大河ドラマ(「おんな太閤記」「いのち」「春日局」)とテレビ小説(「あしたこそ」「おしん」「春よ、来い」)を、三作品ずつ執筆することになった。中でも特筆すべきドラマは、やはり「おしん」であろう。日本のテレビドラマ史上、最も有名な作品である。全297話の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%(1983年11月12日放送第186回)を記録して、社会現象化した。そして、海外63ヶ国でも放送された空前絶後のテレビドラマである。初回放送は、1983年4月4日、橋田が亡くなったのは2021年4月4日である。「神の見えざる手」の符号だろうか。「おしん」には、橋田ドラマの集大成ともいうべき、複数のテーマが込められている。「女性の自立」「嫁姑問題」「反戦」そして「国家と国民」といった問題である。海外でも共感を得たのは、どこに生きる人間にも通じる普遍的テーマが「おしん」には、あったということであろう。橋田はホームドラマの大家として括られがちだが、「おしん」では、日露戦争の脱走兵(中村雅俊)や、官憲に追われる社会運動の闘士(渡瀬恒彦)を登場させたり、社会派作家の貌も見せている。前出の『調査情報』での石井ふく子との対談でも、「橋田 ええ、それ(新聞の投書欄や人生相談)は読みますね。一般の人は何を考えて、何を怒ってんのかっていうのがすごいわかるんですよね。それから、政治評論もおもしろい。あとは『クローズアップ現代』。ものすごく勉強になりますね。」(『調査情報』497号)と語っている。ホームドラマを執筆しながらも社会の変容を観察して、脚本にも取り入れたのである。謂わば、「不易」と「流行」の目配りに長けた脚本家だった。
 そして、その集大成とも言うべき「渡る世間は鬼ばかり」が1990年(平成2年)から始まる。夫君の岩崎嘉一を亡くした翌年の事である。「渡鬼」は、「おしん」と並ぶ橋田の作家人生における代表作となった。連続ドラマとして十シリーズ、そしてスペシャルドラマとしても何作も制作された。「平成」年間、テレビ視聴率は漸減傾向となり、とりわけ「若者」のテレビ離れが進んだ。しかし、「渡鬼」は安定した高視聴率を出し続けた。前出の「不易」と「流行」に対する、橋田の塩梅の賜物では、なかったか。「石井   本当、いろんなことの変化を先に取り上げているような感じもありますよ。(市川)それが一つ、20年にわたって10シリーズまで来た要因でもありますね。橋田 それはわかんないけどね。メッセージだけじゃ何にもなりませんから。変化や問題に、人間がどう反応してドラマになったのかっていうのを、皆さんご覧になるわけですよね。」(『調査情報』497号より)と、橋田自身が語っている。

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橋田壽賀子は、「ガラスの天井」を突き抜けた

 ここで、私自身と橋田との関わりについて少し触れておこう。私は、TBS入社前橋田ドラマの、それほど熱心な視聴者だったわけではない。70年代、20代の若者の多くはそうだったと思う。ただ入社前年の「愛といのち」(1973年9月30日放送 P石井ふく子、演出坂崎彰)という単発ドラマの事は、よく覚えている。ヒット作「愛と死をみつめて」と通じるドラマだったが、橋田のオリジナル作品で、結婚直前ガンに冒された娘(島田陽子)と婚約者(山本圭)の悲恋のストーリー。この年の芸術祭優秀賞作品だった。後年、多くのドラマで私とタッグを組んだ坂崎彰の若き日の代表作でもある。私とその坂崎が、コンビで作った「代議士の妻たち」の時のこと。放送枠が、月曜夜9時の連続ドラマだった。橋田は、この枠で「おんなは一生懸命」(主演・泉ピン子)を「代妻」の前シリーズとして書いていた。その流れで「代議士の妻たち」を見ていたようだ。幸い、「代妻」もヒットして間を置かずPART2をやる事が決まった。その時の上司(制作局長)から、「橋田さんが、(代議士の妻たち、の)パート2は難しそうねって、言ってたけど大丈夫だよね?」と、ご下問された。私にも、意地も自負心もあり「もちろん!大丈夫ですよ」と応えた。そして、実際、パート2は第一作を超える視聴率と反響を得た。又、同時期橋田の書いた大河ドラマ「春日局」で、「代妻」の一作目の主演夫婦だった大原麗子と山下真司を、そのまま夫婦役に起用して書かれたのは、私にとっては少し嬉しかった。直接、お目にかかったのは、『調査情報』の、対談時に先立つ十数年前、私が3年間編成部のドラマ担当となった時だ。熱海のお宅にも毎年伺った。当時は「渡鬼」の絶頂期で、編成部は表敬訪問をしていた。とても、ざっくばらんな人柄だったから、毎回楽しい時間を持った。
 橋田壽賀子とはテレビドラマ史において、いかなる存在だったのか?私は、こう考える。現在、テレビドラマの脚本の世界では、男女比は殆んど変わらない。人気の連続ドラマでは、むしろ女性が優位ではないか。そのパイオニアたる橋田の存在は、テレビドラマ界での「ガラスの天井」を突き抜けたアイコンだと評価されると思う。今や、テレビドラマの世界ではジェンダー・ギャップは、見られない。もう一つの、橋田の功績は「映画」と「テレビドラマ」の違いを明白にしたことだ。橋田が映画界にいた頃、映画とテレビドラマの「格差」はとてつもなく大きかった。しかし、橋田がテレビに転じた頃、この力関係が激変する。テレビの伸長は、邦画の衰退を招くが、60年代以降、映画とテレビドラマは、それぞれ独自のジャンルである、ということが明らかになってくる。脚本家でも、「映画」向きと「テレビ」向きと2タイプあると、経験的に私は認識している。同じ陸上競技でも、100mランナーとマラソンランナーでは違うように。100分程度1本の映画と、50分程度で連続10数本のテレビの連続では全く筆法が異なる。大河ドラマや一年連続ドラマを書いた橋田は、正に「テレビドラマ」時代の申し子だった。橋田の前に橋田なし、橋田の後に橋田なしの感が深い。

2021.4.18 擱筆

<執筆者略歴>
市川 哲夫(いちかわ・てつお)
テレビプロデューサー 1949年生まれ。 
1974年、TBS入社。三十年余にわたり、ドラマの演出・プロデュース。 2007年、TBS『調査情報』編集長。16年、中央大学特任教授(放送文化論)を歴任。 現在、日本映画テレビプロデューサー協会事務局長。主なドラマ作品に、「代議士の妻たち」シリーズ、「課長サンの厄年」、「閨閥」、「迷走地図」など。主な編・著書に、「70年代と80年代」(毎日新聞出版刊)「夢の途中」(『調査情報』連載)など。

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