オーバーツーリズムへの対応が持続可能な観光地域づくりに向けたカギとなる~我々は有効な解決策を見出せるか~
東 徹(立教大学観光学部教授)
コロナ禍から立ち直りつつある日本観光だが
日本の観光は、コロナ禍による「インバウンド・ロス」から急速に立ち直りつつある。昨年(2023年)の訪日外客数は2507万人と、コロナ禍前の2019年(3188万人)の78.6%まで回復した。今年に入ってからも増加が続き、2~6月の訪日外客数は、いずれも2019年同月を上回っており(JNTO)、過去最高であった2019年を超える可能性も見えてきた。
しかしながら、その一方で、オーバーツーリズムが再び問題視されるようになってきた。かつてアレックス・カー氏が予言した「眠りから目を覚ました竜(が)さらにパワーアップして、大暴れする」(『中央公論』2021年1月号)かのような様相を見せはじめている。
オーバーツーリズムと「観光公害」
オーバーツーリズムは、観光が地域の受容力を超えることによって様々な悪影響が生ずる事態をいう。これは単に「過剰な観光需要」によって混雑が生ずるという量的な問題だけでなく、住民に対する迷惑行為など「好ましくない観光行動」による質的な問題も含まれる。
観光客が多すぎて、十分に地域の魅力を堪能できない、といった観光体験の劣化による満足度の低下によって、観光地としての評価・集客力を落とすような事態や、観光を受入れる地域の自然環境や歴史的・文化的ストック、住民の生活環境に悪影響を及ぼすなど、地域の環境破壊をもたらす事態が生ずる。
特に後者は「観光公害」とも呼ばれる。観光によって地域の自然的・社会的環境に対する負荷が高まり、観光とは直接関係のない住民の生活にまで広く悪影響が及ぶからである。
かつて、観光事業者による大規模開発、乱開発による環境破壊に対する批判が高まったこともあったが、昨今では、過剰な観光需要、好ましくない観光行動による地域社会、住民の生活環境への悪影響を問題視するものが多くなっている。
問題を放置すると…
観光客の過多や迷惑行為に関する問題は、コロナ禍以前から指摘されていた。京都では、市バスが観光客によって混雑し市民の利用に支障をきたしているという問題、芸舞妓を追い回して強引に写真撮影をする、いわゆる「舞妓パパラッチ」、さらには食べ歩きに伴うゴミのポイ捨て、私有地への無断立入や写真撮影、神社での乱暴狼藉等々、様々な問題が指摘されてきた。
北海道・美瑛では、写真撮影のために勝手に農地に立入る迷惑行為(作物の踏み荒らしや、病原菌の持ち込みリスク)が以前から問題視されてきた。江ノ電鎌倉高校前駅付近の踏切で大勢の観光客が車道を塞ぎ写真撮影をする問題、渋谷の路上飲酒、さらには、民泊と近隣住民とのトラブル等々、各地で様々な問題が指摘されている¹⁾。
こうした問題を放置すると、住民の反発が激化するのはもちろん、観光客の足を遠ざけてしまうことにもつながりかねない。
「京都は好きで何度も行ったが、最近は行かなくなった」「混み過ぎて京都らしい雰囲気を楽しめない」「バスに乗ろうとすると地元の人に迷惑がられているようで嫌だ」「マナーの悪い観光客が京都の雰囲気を台無しにしている」等といったことを耳にすることもある。
外国人観光客で賑わっているように見えても、その反面、日本人観光客が離れはじめているとすれば、それは大きな問題である。「大量集客によって観光客の満足度を落とすような事態」、さらには、「特定の需要が増えたために、他の需要が締め出される事態」(crowding out)も問題であろう。
外国人観光客の急増により混雑が日常化することで、日本人観光客が離れはじめ、加えて、本来生活の足であるはずの市バスに住民が乗れなくなるような事態を招くことで、住民の間に観光への反発が高まり、観光から利益を得る人たちと迷惑を被る人たちとの間に亀裂が生まれて「地域社会の分断」にまで発展するとすれば、取り返しがつかないことになるかもしれない。
「富士山ローソン」問題が問いかけるもの
オーバーツーリズムは、有名観光地だけの問題ではなく、SNSへの投稿をきっかけに、突然「映える写真スポット」として注目され、観光客が急増することにより予期せぬ悪影響が生ずることもある。その典型が今年俄かに注目を集めた、いわゆる「富士山ローソン」問題(富士河口湖町)であろう。
この問題は、2022年秋頃に海外のインフルエンサーが投稿した「富士山がCVSの屋根の上に乗ったように見える写真」がきっかけとなり、突如、同じ写真を撮ろうとする観光客が急増するようになったことで悪影響が生じ、ついに町が「写真撮影ができないように幕を設置する」というある意味「強硬な」対策に乗り出したことから注目を集めた。
写真を撮ろうとする観光客は、車道を挟んで反対側にある歯科医院側から撮影をしようとするため、危険な横断をしたり、狭い歩道が通院患者の出入りに支障をきたすほど混雑したり、ゴミが散乱する等の問題が発生するようになった。
「危険横断やゴミ捨てを禁止する看板」(多言語で表記)を設置し、警備員を配備する等の対策もとられたが、迷惑行為が改められないまま観光客が増え続け、苦情が増加するようになったことから、町は「苦渋の決断」として、歩道からの写真撮影ができないよう「幅20m×高さ2.5mの黒いビニール製の幕」を設置するに至った(朝日新聞2024/5/20)。
この問題は、端的に言えば、「観光客が特定の場所に集中したこと」と「自己中心的で無遠慮な観光客の行動」によって生じたものである。「ほかにもっと穏便な方法はなかったのか」とする声もあるが、注意喚起が効果を発揮しなかった以上、強硬な抑止策を取らざるをえなかったということであろう。
この対策は、撮影自体を抑止する強硬策であるだけでなく、「マナーが悪い観光客は来ないでほしい」というメッセージを発する効果があるものと考えられる。話題性のある奇抜な対策だけに様々なメディアでこの問題が取り上げられることで、「地域社会に迷惑をかける観光行動には“毅然とした”態度で臨む」というメッセージが広く拡散していくことが期待される。
有効な対策は?
オーバーツーリズムへの対策には、次のようにいくつかの方法がある。これらは程度に応じて段階的、選択的に行われるだけでなく、同時並行で行われる場合もある。
①需要の分散化とマナーの啓発
過剰な観光需要によって生ずる量的問題を解決するため、特定地域への需要の集中を避け、分散化を促そうとする対策の例として「京都観光快適度マップ」がある。これは、サイト上で京都の主な観光エリアごとの混雑度を表示することで、観光客の自律的な分散化を促そうとする試みである。
もう一つは、好ましくない観光行動によって生ずる質的問題を解決しようとする取り組みである。「京都観光行動基準(京都観光モラル)」(京都市・京都市観光協会[2020])や「ツーリストシップ」(一般社団法人ツーリストシップ(旧一般社団法人CHIE-NO-WA)[2019])の提唱、“Mālama Hawai‘i”(ハワイ=旅先を思いやる心)として発信されている“Responsible Tourism”(責任ある観光)のメッセージ(ハワイ州観光局[2021])などがその例であろう²⁾。また、観光前に動画やレクチャーを通じてマナー啓発を行う方法もある。
②観光客への注意喚起、迷惑行為の警告・監視
京都祇園町南地区協議会が設置した「私道での撮影禁止や無許可での写真撮影は1万円を徴収する」ことを記した高札や、錦市場の「食べ歩き禁止」の表示等は観光客に向けた注意喚起・警告の例である。
美瑛町では、農地への無断侵入を防ぐため、監視用の屋外IPカメラを設置し、あわせて「監視カメラ作動中」の表示や自動音声発出も行われ、一定の成果をあげているという(週刊トラベルジャーナル2024/7/15)。
③公的規制、有料化や予約制等による需要の制限・抑制
条例の制定等、公的規制を設けたり、より実効性のある過剰需要の抑制策として有料化や予約制を導入する場合もある。
鎌倉市では、「住んでよかった、訪れてよかった」と思われる成熟した観光都市をめざして「鎌倉市公共の場所におけるマナーの向上に関する条例」(2019)が定められているし、渋谷区では路上飲酒を禁止する条例が制定されている(2019年にはハロウィン・年越しイベント時の禁止⇒2024年に通年禁止に改正)。富士山の山梨県側では、今シーズンから予約制を導入し、登山者を1日4000人に制限し、1人2000円の通行料を徴収している。
“Regenerative Tourism”(再生型観光)を掲げるハワイでは、ダイヤモンドヘッドへの登山やハナウマ湾等で予約制が導入されているし、ハナウマ湾自然保護区では入場料を25ドルに値上げし、1日の入場者数を1400人に制限している(オリエンテーション・ビデオの視聴も義務づけ)。
ヴェネチアでは、今年4月から旧市街への日帰り客を対象に入島税5ユーロ(特定日)を徴収しはじめた。竹富島では2019年から入域料300円を、宮島では2023年から入島税100円を徴収している。
④行動の物理的抑止
富士河口湖町のように、幕を設置して、迷惑の原因となる行動自体を抑止する方法がある。他には、富士山の山梨県側のように安全確保のため入場時間を制限し登山道を閉鎖する方法もある。
観光そのもの、観光客への反発の噴出
バルセロナでは、オーバーツーリズムに反発する人々が、“TOURIST GO HOME”“TOURISM KILLS THE CITY”といったスローガンを掲げてデモを行い、観光客に向けて水鉄砲で水をかけるという行動にまで出ている様子が報じられている。
マナーの良し悪しを問わず、観光客、あるいは観光そのものへの反発が噴出しているのである。日本ではまだそうした反観光的な行動が大きく報じられるまでには至っていないが、「明日は我が身」―(そう思いたくはないが)その種は既に蒔かれているのかもしれない。
「観光がもたらす利益を広く知ってもらうことが必要」との言も聞かれるが、悪影響それ自体の解決策を示すことなしに、「一方的に」観光の利益だけを主張したところで何の解決にもつながらない。観光による不利益を被っている人々に対して一方的に忍従を強いることでしかないからである³⁾。
対策は、不利益を被る人々に働きかけ、寛容さを求めることで批判の鎮静化を図ることではない。不利益をもたらす原因に働きかけ、悪影響を除去・軽減することでしか問題は解決できない。我々は、観光の利益・恩恵を一方的に主張し、観光を擁護し促進することばかりを考えすぎてはいないだろうか。
「観光は地域の利益となる」といっても、そこには観光によって利益を得る者と、反対に不利益を被る者がいる。それが「現実」である。
今なすべきことは、空前の円安という追い風の中にあって「好機を逃すな、乗り遅れるな」という観光の受益者側に立った一方的な主張をすることではない。(観光ではなく)地域社会の持続可能性の視点に立ち、「住んでよし、訪れてよし」の理念に照らして観光がもたらす正負の側面を適正に評価するとともに、実際に不利益を被っている地域の人々とともに解決策を模索することではないか。
観光は地域経済活性化につながるという考えから、増やす方向に話が進みがちである。しかし、貴重な自然や歴史的・文化的ストック、住民の生活環境を守り、かつ観光体験の質を高めるためには、「適正規模」という考え方をもつ必要がある。その実現には、観光客を減らすことも選択肢となる。そうした覚悟をもって臨むべきであろう。
オーバーツーリズム対策はまだ始まったばかりではあるが、もう「待ったなし」の状況にあるのかもしれない。日本でバルセロナで生じたような事態を招かないために、富士河口湖町の対策に対して「もう少し穏便な方法はなかったのか」などという呑気なことを言っている場合ではないのかもしれない。
「観光」のために「地域」があるわけではない
観光とは、ある意味、「分かち合い」である。地域の恵みや持ち味、そこで育まれ伝えられてきた知恵や技を訪れた人々に分かち合うことが観光なのではないか。美しい自然や貴重な文化遺産を守ってきた人たちがいるからこそ我々は旅を楽しみ、地域の「“光”を観る」ことができる。
人々が訪れた地域に対して敬意を払って観光をする。それを感じればこそ受入れる地域の人々は心から「ようこそ」と迎えようとする⁴⁾。そうした“ウェルカムとリスペクトのある関係”こそが、観光の理想的な姿なのではないだろうか。
人々が訪れる地域は、「観光地」(tourist destination)と呼ばれてはいても、そこは人々が暮らす(“We Live Here”)生活の場である。京都も鎌倉も、白川郷も、もともと人々が暮らす地域に、訪れるべき意味を見出した人々が観光をしに来ているだけのことである。いかに経済的利益をもたらすとしても、そこは観光客が楽しむために用意された場所ではない。
観光地域づくりは、「住んでよし、訪れてよし」の地域をめざすことであり、もとより「観光客ファースト」の地域づくりをすることではない。「住んでよし」を阻害してまで「訪れてよし」の地域をつくろうとすることに何の意味があるのか。
観光のために地域があるのではない。観光は地域づくりの手段に過ぎない。そう考えるならば、観光振興の論理が生活の論理に勝ることは許されないはずである⁵⁾。「地域社会の」持続可能性を考慮しながら、環境保全の枠組みの中で適正規模の観光をめざすことが、今求められている。
コロナ禍から立ち直り、前に進もうとしている今、我々はどのような観光をめざそうとしているのか、どんな理想を掲げ、その実現に向けてどのような取り組みをするべきなのか。我々はもしかすると未来の観光の姿を決める大事な分岐点に立っているのかもしれない。
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