「ニュース」を破壊するものは何か?―フェイクニュース、ポスト真実、そしてワイドショー文化について
山腰 修三(慶應義塾大学教授)
ウクライナ侵攻は「ハイブリッド戦争」
ロシアによるウクライナ侵攻から5カ月が経過した。一連の事態をめぐる議論において、この紛争が「ハイブリッド戦争」としての性格を強く有するという点は衆目が一致するところである。
ハイブリッド戦争とは、「政治的目的を達成するために軍事的脅迫とそれ以外のさまざまな手段、つまり、正規戦・非正規戦が組み合わされた戦争の手法」を指す(廣瀬 2021: 24)。
本稿との関係では、「非正規戦」としてSNSを介したフェイクニュースや偽情報の拡散といった情報戦が含まれる点が注目される。この概念に基づくと、2014年のクリミア危機、さらには2016年のアメリカ大統領選挙へのフェイクニュースによる介入さえもロシアが展開したハイブリッド戦争の一環ということになる。
ただし、ロシアが展開してきた情報戦をSNSを介した対外的なフェイクニュースの拡散の問題だけに還元すると見逃してしまう側面もある。
2016年に放送されたNHKスペシャル『そしてテレビは“戦争”を煽った』では、2014年のクリミア危機の時点ですでに、ウクライナへの介入を正当化するロシア国内向けの「物語」がテレビによって提供されていたことを明らかにしている。つまり、ロシア政府の情報戦は国外だけでなく国内に対しても展開し、それはテレビという伝統的メディアを通じて行われてきたのである。
さらに番組で描かれるその状況は、単なるフェイクニュースの拡散という問題にとどまらない深刻さを兼ね備えている。
ロシアのテレビ局のキャスターは、ジャーナリズムにおいて客観性はもはや存在しないと述べ、「我々にとっての真実を伝えるために自分の命をかけている」と主張する。記者たちは現地を取材することなくインターネット上の映像や画像を恣意的に収集・編集しながら「ウクライナの過激な民族主義者からロシア系住民を救うための介入」という物語を再生産する。
これはトランプ現象で注目を集めるようになった「ポスト真実」がそれよりも以前からロシア国内ですでに定着しており、プロフェッショナルのジャーナリストたちが日常的なニュース制作を通じてそうした環境の形成に寄与してきたことを示している。
必要とされる「ポスト真実」への理解
したがって、ジャーナリズムが偽情報やフェイクニュース、あるいは陰謀論をめぐる諸問題に向き合う際に鍵となるのは、ポスト真実を理解することにある。
「ポスト真実」とは、「世論形成において、客観的な事実よりも感情や個人的信条へのアピールが影響を与える状況」を意味する(https://languages.oup.com/word-of-the-year/2016)。いわば、科学やジャーナリズムが提示する「事実」よりも「自分が信じたいもの」が「真実」とみなされる状況のことである。
先述のように、この用語はトランプ現象を説明する概念として注目されたものの、「フェイクニュース」と比較すると日本社会、とくにメディアの間ではあまり定着しなかったように見える。しかし、陰謀論の興隆から民主主義の危機に至るまで、現代的な事象を読み解くうえで欠かせない概念である。
ポスト真実について理解を深める上で、百木漠の議論が参考になる。百木は政治哲学者ハンナ・アーレントの「政治における嘘」論を手がかりに、ポスト真実の特徴を考察している(百木 2021)。
かつてアーレントは「政治における嘘」の現代的特徴を事実と虚構の区分の破壊にあると論じた(アーレント 1994: 344)。そして政治における「伝統的な嘘」が外敵に向けられていたのに対し、「現代的な嘘」は自国民および自分自身に対して向けられているとする(アーレント 1994: 347-8)。
この視座に基づくと、「現代的な嘘=ポスト真実」とは、「真実」のカテゴリーを破壊し、「事実」と「虚偽」それ自体の区分を曖昧にすること、そしてそのような形で作られるもう一つの「現実」(オルタナティブ・ファクト)の中に自分も安住してしまう状況にほかならない。この議論は、ロシアにおけるジャーナリストたちの振る舞いを説明する上で説得的である。
それに加えて百木はこうしたポスト真実が「事実と虚構、真と偽の区分を捨て去ってしまった人々(大衆)」によって支えられている点を強調する(百木 2021: 56-57)。現代的な嘘が影響力を強める中で、大衆は事実と虚構の区分をつけることに疲弊し、複雑な現実よりも首尾一貫した虚構(物語)の方を好むようになる。そしてそれが現代的な嘘をますます有効なものにする。
つまり、ポスト真実とは、「嘘をつく側」と「嘘をつかれる側」との相互作用・往復運動によって強固なものとなるのである。こうしたアーレントの議論を手がかりに、Qアノンから反ワクチンまでも含めた広範な陰謀論がなぜ現代社会の中で広がるのかを説明することが可能になる。
「ニュース」を破壊する「ポスト真実」
ただしこのポスト真実は、現代的な情報戦、あるいはフェイクニュースや陰謀論の問題にとどまらず、今日の日本のジャーナリズムのあり方そのものを考える上で重要な示唆を含んでいる。
というのも、ジャーナリズムにとってのポスト真実問題の根深さは、それが「ニュース」というカテゴリーを破壊してしまう点にあり、そのような事態は日本でも進展していると言えるからである。
つまり、現代社会の多くの人々は、あふれかえる情報の中で何が「ニュース」で何がニュースではないのかの区別を放棄しつつある。ニュースをめぐるこうした事態こそが一方におけるフェイクニュースや陰謀論への脆弱性、そして他方におけるメディア不信――メディアはどれも信頼できないという冷笑主義的態度――の社会的基盤を形成しているのではないだろうか。
それでは、「ニュース」のカテゴリーを破壊しているものは何か。無論のこと、その中心はフェイクニュースを意図的に生産し、拡散する主体である。「フェイクニュース」とは、「本物のニュースであるかのように提示される政治的および/ないし営利的目的を伴って意図的に制作された偽情報(捏造や既知の事実の改変)」と定義される(McNair 2018: 38)。
この定義に従うと、フェイクニュースを意図的に生産する主体は、例えばロシアのインターネット・リサーチ・エージェンシーのように政治的な目的で偽情報を拡散する組織から、クリックベイトで広告収入を得るための個人まで含まれる。これらは選挙や戦争といった「非日常」の出来事をめぐってとくに活性化し、日本でも2018年の沖縄県知事選挙でフェイクニュースの拡散が指摘された。
その一方で留意すべきは、「ニュース」と「ニュースではないもの」との境界線の喪失は、より日常的に流通・消費されるコンテンツによっても促進される点である。例えば、ニュースのまとめサイト、時事問題に関するユーチューブの解説動画、あるいはインフルエンサーのSNSを通じた発信などである。
一連のコンテンツはいずれも伝統的なニュースメディアの取材・編集過程とは異なる形で生産される情報である。しかし、今日のメディア環境において、それらは多くの場合、一般のネットユーザーにとっては「ニュース」とみなされ、消費されることになる。
ワイドショーが破壊した「ニュース」
ただし、ニュースのカテゴリーの破壊の要因をデジタル化以降のメディア環境に還元してはならない。なぜならば、ニュースのカテゴリーの破壊は、ソーシャルメディアが台頭するよりもはるか以前から、例えば「ニュースの娯楽化」といった形でほかならぬマス・メディア自身によって担われてきたからである。とくに日本では、ワイドショーが果たした役割への言及を避けて通ることはできない。
周知の通り、ワイドショーの特徴として次の二点が挙げられる。一つは、政治的・社会的諸問題について、新聞記事、自局の報道部門による取材、近年はソーシャルメディア上の情報を参照・紹介を中心に伝えるという形式である。
そして第二に、スタジオのコメンテーターのコメントによって進行するという点である。広義の「セレブリティ」であるこれらのコメンテーターが各種のテーマについて必ずしも十分な知識を持っていない点は問題視されない。なぜならば、番組では専門的な議論よりも「共感」や「分かりやすさ」が重視されるからである。
素人感覚に基づくコメントが共感を生み、そうした共感が世論という名の空気を形成することになる。それはまさに、今日のソーシャルメディア上で展開するコミュニケーションの原型だと言える。
つまり、日本では「分かりやすさ」と「共感」に基づいて時事的な問題を語るワイドショーのコミュニケーション文化がインターネット上に普及した結果、それが伝統的なニュースのカテゴリーを解体し、メディア不信の状況を生み出してきたのである。
重要な点は、多くの視聴者にとって、ワイドショーは「ニュース」として消費されていることである。「情報番組」と「報道番組」というテレビ業界側の区分は視聴者にとっては意味を成さない。むしろ、「ニュースの娯楽化」が進む中で両者の境界線は流動化し、テレビ業界もそうした傾向を促進してきた。
そしてその帰結こそが、「ニュース」のカテゴリーの自己破壊である。このようにポスト真実において進展する「ニュース」の危機の遠因は、マス・メディアが作り出してきたワイドショー文化の広がりにも求められる。
確かにそれは安価な「ニュースのような何か」の大量生産を可能にした。だが、伝統的なメディアによって担われるジャーナリズムは今、インターネット上で他の主体によって生産される「ニュースのような何か」の氾濫がもたらすニュース、そして自らに対する不信の高まりによってその対価を支払っているのである。
「ニュース」というカテゴリーの再構築に向けて
以上の考察を踏まえると、フェイクや偽情報、陰謀論への社会的耐性を高めるために、ニュースへの信頼性を回復させることの重要性が了解される。ただし、その場合、「ニュース」のカテゴリーをかつての形で再生させるのではなく、新たに作り直す必要があるだろう。
本稿では、ニュースをジャーナリズム業界の専有物ではなく、より社会に開かれた「コモンズ」として再定義するという方法を提起したい。よく知られるように、ジャーナリズムの世界では現在、組織外のアクターとの協働がさまざまな形で模索され、実践されているが、本稿のアプローチもそうした手法の延長線上に位置づけられる。ここでは次の二通りの協働のあり方に注目する。
第一は、専門知との協働である。トランプ現象以降、コロナ禍やウクライナ危機など、陰謀論あるいはポスト真実と密接に関わる出来事が続く中で、専門知に裏づけられた報道が求められている。
無論、この場合の「専門知」とは、アカデミズムの世界で適切に評価・保証されたものを指す。従来、ジャーナリズムとアカデミズムの協働は十分に機能してきたとは言い難い。しかし、ニュースを「コモンズ」として再定義することで両者の関係性を新たに構築できる。
それは、ジャーナリズムとアカデミズムとの深い相互理解によって基礎づけられ、それによってニュースの制作過程へのアカデミズムの積極的な関与を可能にするような関係である。そしてそうした協働は新たな種類のニュース制作の構想にも通じている。
第二は、幅広い社会との協働である。本稿での考察では、「ニュースとは何か」をめぐる社会的合意がもはや存在しえない点を論じた。したがって、ジャーナリズムはそもそも「ニュースとは何か」を社会に向けて説明しなければならない。
それは「良いニュース」とは何かを説明することであり、また、ニュースがどのようにして制作されるのかをめぐる説明でもある。このような社会に対する説明責任を果たすことで、一般の人々がニュースを適切に評価し、質の高いニュースの共有や拡散を通じたニュースの流通・消費過程へ関与する条件が形成される。そして将来的にはより能動的なニュース制作への関与という形での協働も期待し得る。
現代の情報戦、そしてフェイクニュースや各種の陰謀論はジャーナリズムが危機に直面していることを示している。しかし同時にそれは、ジャーナリズムをより良いものへ再構成するための手がかりでもあるのだ。
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