見出し画像

放送界の先人たち~川平朝清氏

【放送界に携わった偉大な先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から、沖縄を代表する放送人で、米軍施政下の沖縄で琉球放送、沖縄放送協会の立ち上げに尽力した川平朝清氏のインタビューをお届けする】

放送人の会


放送人の会とは

 一般社団法人「放送人の会」は、NHK 、民放、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に関心をもつ人々が、個人として参加している団体です。

 「放送人の会」では「放送人の証言」として先達のインタビューを映像として収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めています。既に30人の証言をYouTubeにパイロット版としてアップしております。

 「調査情報デジタル」でも先達の証言を紹介すべく、テキスト版の抄録を公開しています。これまでに「ふぞろいの林檎たち」などで知られる演出家の鴨下信一氏、「ニュースセンター9時」の初代キャスター、磯村尚徳氏、「兼高かおる世界の旅」で知られるジャーナリスト、兼高かおる氏、元NHK アナウンサー、鈴木健二氏のインタビューをご紹介しました。

 今後も随時文字ベースで公開したいと思っています。

川平朝清(かびら・ちょうせい)氏のプロフィール

 沖縄を代表する放送人。元アナウンサーであり、経営幹部として、米軍施政下の沖縄で琉球放送(RBC)、沖縄放送協会(OHK)の立ち上げに尽力した。

 1927年、当時は日本が統治していた台湾・台中市で生まれる。小学校時代より放送劇に出演、台湾高等学校(旧制)在学中に陸軍に応召される。戦後は父の郷里の沖縄に引き揚げ、ガリオア資金の援助を得てミシガン州立大学に留学。この時のちの妻になるワンダリーと出会い結婚した。

 帰国後、琉球放送入社、常務まで勤めたのち、本土復帰を睨んで設立された沖縄放送協会の会長に就任。本土復帰に伴ってNHK へ入局、国際協力などを担当。NHK 退局後は、昭和女子大教授、副学長、名誉教授となる。

 川平家は琉球王朝で通訳・歌舞音曲を担当してきた家柄。ジョン・カビラ(川平慈温)、川平慈英の父。

川平朝清氏の証言(抄)

本土より20年以上遅れて始まった沖縄の放送

各務 沖縄で初めて放送を出したのが1941年の太平洋戦争の開始の時だということで驚いたんですが…。

川平 昭和16年ですからね。

各務 そうですね。昭和16年ですね。しかもちょうど開戦の日に初めて試験電波が出た※ということを読みまして、なぜこれだけ置局はもとより、放送開始が遅れたのか、その辺ちょっといきさつを伺いたいです。

※日本放送協会沖縄局(JOAP)は、正式には1942年3月19日開局。太平洋戦争勃発のニュースはテスト放送中にとび込んできた(宮城悦二郎「沖縄・放送戦後史」より)。

川平 詳細は知りませんけれども、ただ、はっきりしていることは、日本政府の南方経営というのは台湾統治に重点を置いたといういきさつがあると思うんですね。

 それからもう1つは、あの当時社団法人日本放送協会にしてみれば、沖縄に局を作るということについての技術的な問題ですね。それから経営上の問題は多分あったと思うんですね。

 で、それから、当然のことながら、沖縄の経済状況というのは非常に悪いから、ラジオなんていったって、そう大して普及しないであろうという、沖縄の人の立場からすればかなり政策の上での差別はあったと思いますね。

 で、台湾の方は、もう台湾放送協会※というのが独自のスタートをしておりますし、それでかなり全島にネットワークをつくる。しかも、第2放送と称するものはですね、教育放送ではなくて、台湾語の放送をやるというくらいに、放送に対する台湾総督府の行政施策というものは非常に島民感化、島民の、台湾では皇民化という言い方してますよね。天皇の民とするということで、その皇民化的な策があったんですね。ですから、沖縄の場合は取り残されていたと。

※台湾放送協会 1931年日本の植民地だった台湾で社団法人として設立された。

各務 「沖縄・放送戦後史」によりますと、1945年の3月に米軍機のロケット弾が放送局に当たって、放送は不能状態になって、それから4月1日には米軍が上陸して。だから、局員が8名亡くなったとされていますけども、この8名の方というのは全部沖縄県人の方です。そして戦後ラジオ放送が開始されるまでの5年間※というものは…全く空白なわけですね。恐らく。

※ 1949年5月に米軍政府がAKARラジオのテスト放送を開始、1950年にスタジオを那覇の米軍政府内に移した、と前述の宮城悦二郎「沖縄・放送戦後史」にある。

「琉球の声」誕生

川平 全く空白ですね。しかし、私の兄の朝申※(1908~1998)というのがですね、沖縄人側の政府、あのころは沖縄人側の政府を沖縄民政府と言ってたわけですね。

※川平朝申 (かびら ちょうしん) 当時沖縄民政府勤務 のち「琉球の声」放送局長

 そこに文化部というのがありまして、ラジオをやろうという提案をするわけですよ。で、提案をしますとですね、電気もない、ラジオを持ってる沖縄人がいない。まずは住宅だということで、荒唐無稽扱いされるんですね。※

 私の兄は臆することなく、実際にアメリカ軍政当局に持ってったら「お、これはグッドアイデア」と。むしろ軍政当局のほうがこれを取り上げるということになるんですよ。だから、その意味では、私の兄の朝申、私事ではありますけれども、「ラジオというものはまず電波を出さなければ、誰も聞かない」と。「みんなラジオ受信機を用意してラジオが始まるのを待つというものではない」と。「しかもラジオを始めれば、これを聞きたいということになって…」、今で言えば電化ですよね。

※(1950年)当時の沖縄本島の電力事情は、1953年に牧港火力発電所が石炭火力による電力供給を行うまでほぼ自家発電に頼っていた。1954年、琉球電力公社発足、復帰後沖縄電力となる。

各務 そうして「琉球の声」、通称ラジオ沖縄っていうのができた※。川平さんのお兄様の朝申さんが発議されて、そして軍政府が認めてですね、その局長に任命されたのも、軍政府から任命されたわけですか。

川平 そうです。

※「琉球の声」放送(通称ラジオ沖縄)は1949年米軍により始まった日本語試験放送を引き継ぐかたちで1950年1月21日開設。現在のラジオ沖縄(ROK)とは別の会社。その後、地元紙沖縄タイムスが中心になって設立した琉球放送(RBC)が引き継いだ。

 「琉球の声」が放送を開始した時には、ほとんどの番組はNHKの番組を中継したんですよ。で、NHKはですね、あの当時短波で番組を送ってたことがありますから、その短波を受けて再放送したと。

 それについては、当時、日本の方も占領下ですから、これはもうアメリカの、沖縄の軍政府と、本土のCIE※との間で連絡がついていて、それでNHKの番組というのは安全であるというような気持ちもあったと思うんですね。ですからNHKの番組をほとんど放送してました。

※CIE(Civil Information and Education Section) 民間情報教育局 放送などを管轄する部局。 

各務 当時の番組は沖縄県人にはどういう受け取られ方でしたか?

川平 喜ばれてた面はありますね。やはり本土から引き揚げてきた人たちがいますから、本土で聞いたものを沖縄でも聞けるということで、非常に喜ばれました。

 さらに言えば、私は1952年NHKのアナウンサー養成所に参加して研修を受けるということも出来ましたから、そういう意味ではNHKは非常に好意的だったと思います。

各務 ただ、この放送史によりますと、1951年から53年の間は、大体NHKからの番組が50%あったのが、55年から米軍の意向があって、NHKの番組は1日2時間に減らされたとあります。これはやっぱり朝鮮戦争とか何かと関連があるでしょうか。

川平 ええ。これは明らかに日本が1952年に独立を回復しますよね。そうなるとNHKの放送は危険であると、何でも報道をしたわけですからね。もう検閲がなくなってますし。もうそれは当然のことなんで。それで沖縄で面白いことが起きたんですよ。

各務 NHKからの番組が減るということは、自主制作のものを増やさなくちゃならないということですね。

川平 そうです。で、その頃から、沖縄の制作能力というのはかなり高まってきたと思います。それで一番問題になったのはニュースなんですよね。で、ニュースは自己取材をやってたわけですね。

 いっぽうで検閲は続いてました。

アメリカ留学のこと、それからRBC時代のこと

川平 私は1953年から57年までアメリカのミシガン州立大学に留学して大学院まで行くんですが、そこの大学院を出る時にですね、学部長が私を呼んで「川平、おまえ帰ったらどこで仕事するんだ」と。だから「今のところは琉球放送って、かつていたところが商業放送になってるんだけれども、そこに行くことになるかもしれない」と。

 そしたら「向こうはアメリカ軍の占領下にあるから、いろいろと圧力だとか何とかあるだろう」と。「いや、圧力どころか、ニュースはまだ検閲されてるんだよ」と云ったら「そういう事実を書き送れ」と。「そしたら我々のほうでバックアップしてやる。報道の自由というのはアメリカの民主主義の国是である。検閲があったら何でもいいから知らせろ」というような学部長だったですね。

 これは非常に心強いことだったんです。そしたら帰ったらですね、1週間もしないうちに検閲がなくなるんですよ(笑)。ですから、何もそれについては働きかける必要はなかったんですけれどもね。

 アメリカに留学するときは、あのころはガリオア資金※ って言ってたんですね。いまのフルブライトの前で。

※ 占領地域救済政府資金のこと。

 その資金で行きましたので、身分は全く切れて行きましたけども、ただ留学した期間だけは帰って沖縄で勤めなければいけないという、そういう条件があるだけでしたね。ですから、帰ってきた時には琉球放送の社員として採用された。

各務 それはアナウンサーとして?

川平 いえ、違います。その時はですね、琉球放送は日本語のラジオと、英語のラジオの2波を持ってたんですね※。で、そこのステーションマネージャーというのがアメリカ人だったんですけども、アメリカ人がちょうど辞めるということになったんで、で、私がアメリカから帰ってくるなら、その仕事を川平にさせようと。そうすれば、アメリカ人ですからかなりの高給を払ってたわけですね、その高給を払わなくて済むと(笑)。   

※ 琉球放送は1955年から1973年まで1局2波で英語によるラジオ放送も行っていた。

 会社にとっても、私が帰ってくることは非常に良かったんじゃないかと思うんですね。で、私は大学院ではラジオ・テレビの経営学をとってましたんで、修士論文ていうものも、沖縄にテレビ局を建設し、その経営と放送番組についてというような内容で書いたんですよ。

 ですからそれを持って帰ってテレビを始めようということで、琉球放送はそれを買ってくれたわけですね。まあ、買ってくれたって変な話ですけれども。ですから、タイミングとしては非常に良かったです。で、琉球放送も、一応経費節減にはなったと思いますが。

 ただ、そのアメリカのマネージャーが使っていた社宅と、それから車を与えてくれましたですね。で、これは私ごとで恐縮なんですけど、私は家内がアメリカ人なんです。その家内には「(沖縄には)もう電気はない、水道はない、ないわけじゃないけど、どっかにバケツをぶら下げて行くんだ」とかね、「それからもうトイレっていうのは、もうこれは、フラッシングトイレットなんてものはない」とか、そういうことを言って、家内は相当覚悟して来たんですよね。

 そしたらそういう家をポッとくれたもんですから、「大うそつき」ってことになったんですけども(笑)。みんなこういう家に住んでるわけじゃないんだっていうことは家内も後でわかるんですけれども。

各務 琉球放送っていうのは、TBS系だったということですけど。

川平 RBCのラジオの時代はですね、何ていうんですか、いろんな局から番組を買って出してましたでしょう。

野崎 ああ、クロスネットっていうんです。

川平 それから、テレビを始めたときにはまだマイクロウェーブが入ってませんから、まさにもうフィルムで買ったり、あの頃はまだビデオはそんなに入ってなかった時代ですから、キネスコープっていったですか、何ですか、あれ、キネレコ※ 、キネレコって。

※ Kinescope Recording. テレビ映像をフィルムに変換する装置。

野崎 ええ、画質はすごく悪いですよね。

川平 ええ。ですからニュースなんかもそのキネレコで来たものを放送してるという状況でした。

 ですから、そういうことではですね、RBCもテレビを始めるときにですね※、やっぱこれはもう経験のある社とですね、経験のない社との違いだと思うんですよ。

 そう言ったら、OTV※※さんには大変失礼なことになるかもしれませんけど、これはちょっと放送の経験のない方たちがよくやってるなっていうような、そんな印象を受けました。しかし、スタッフにはもちろん経験者はいたと思うんですが。

※ RBC テレビ開局は1960年6月 JNN加盟を前年より申請。
※※ OTV 沖縄テレビ放送 1959年11月開局 FNN系。

 で、RBCの場合は、これはかなり計算していたんですね。マイクロウェーブはいずれ来ると。となると、九州で一番近いところ、鹿児島まで来てる局はっていうことになると、ああ、南日本※だということで、そのあたりの計算はしていたわけですね。

 ですから、マイクロウェーブが出来たときには、RBCはJNNに加盟し、TBS系の番組をとると。でしたが、もちろんキネレコ時代ですからいろんな所から番組を買うっていうことはやってましたけども。ニュースはJNN系列にすぐ入りましたですね。

※ 南日本放送(MBC) テレビ開局は1959年4月、JNN系。ラジオは1953年10月開局。

民放の後に公共放送OHKが誕生

各務 で、沖縄放送協会の話になるんですが、OHKは開局からずっと会長でいらしたわけですよね。

川平 はい。

各務 設立の経緯っていうのはどういうものだったんでしょうか。

川平 長い話になりますけれどもね。「沖縄が日本に復帰しない限り日本の戦後は終わらない」と言った佐藤総理が来た時に、先島までは足を運んでですね、「テレビ局をプレゼントする」と言ったんですよ。

 そうするとですね、日本の郵政省では、そういうテレビ局設置のための設置室とか何とかというのを作って、もうどんどん進めていくわけですよ。で、そのための調査だとか、置局のことについてはNHK が全面的に協力するわけです。そうすると、ハードウェアはどんどんどんどん出来ていくわけですけど、それをどう運営するのかという話になるわけですね。

 じゃ、誰を会長にするかという話になった時に、これも不思議なあれなんですけども、私はもう公共放送に行くつもりでいたんですよ。で、RBCの社長で座安さん※という人がいたんですけども、その社長に「座安さん、いや、社長、今度公共放送が出来たらね、私はそこに行きたい」と。

※ 座安 盛徳  琉球放送初代社長

各務 まだそのときは30代でした?

川平 40になってました。

野崎 で、それは正式な沖縄返還の前からそういう公共放送の事業の、何ていいますか、整備をですね、始める場合、資金的には政府の融資を受けるっていう?

川平 そうなんですよ。ですから、私が会長になった時にですね、あのときに「融資」とは言わんで、投資そのままもらっとけばよかったなと思ったんですけども(笑)、しかし融資ということで、これは、復帰のときにNHK が施設一切全部譲渡を受けるわけですけれども、そういう融資についてはNHK が返済しましたよ。

野崎 ああ、そうですか。するともう協会をお作りになった時に、将来的にはNHKへ行くんだっていう沖縄側の態勢と、NHKがもう引き取りの準備を既におやりになってたと。

川平 それはやってくださったと思うんですよ。第一ですね、私はあの出来た時に、「副会長と、それから編成制作担当の理事はですね、NHKから出してください」と。で、NHK にお願いして、で、これもですね、私は琉球政府に対して「役員はそういう構成でいく」と。それから、出向をお願いしたんですよ。

本土復帰前に受信料を取り始めるも…

各務 復帰のころの琉球政府、たしか主席は革新系の屋良さん。

川平 ええ。屋良朝苗さん※(1902-1997)でしたね。

※ 屋良朝苗(やら ちょうびょう) 琉球政府および沖縄県の政治家・教育者。1968年から唯一の沖縄公選行政主席、1972年復帰後、沖縄県知事を2期務めた。

 屋良さんは公共放送を支持してくださいましたね。必要だと。ですから、運営に対しては、監視をするという立場は強いと思っておられたと思うんですよね。ですから「琉球政府の言いなりになるとか、あるいは、アメリカ民政府ですね、軍政当局の言いなりになるとかっていうようなことにならないように」と。

 それは、私も運営の面では非常に気をつけましたね。これは日本、沖縄のマスコミというのは、ある意味では間接的なプレッシャーっていうのは絶えず感じていて、だから自己規制的なことは、やらなかったと言えば嘘になると思いますね。ある程度。

各務 そういうことでしょうね。恐らく。すると、本土復帰とともに、もう川平さんは、東京の方の経営委員会の方へ…。

川平 経営企画室。

各務 経営企画のほうへ変わられたわけですね。

川平 経営企画の国際協力担当で参りました。

各務 復帰までは受信料というものは一切取らなかった?

川平 いや、取り始めたんですよ。

各務 取り始めたんですか。

川平 取り始めたんですよ。はい。もう結果は惨憺たる状態だったですね。

各務 放送法によって、義務化…。

川平 義務化されてたんです。

各務 されていて、それから、復帰後に契約制になったというふうになってますね。

川平 はい。これは、復帰と同時にNHKに変わったわけですから、日本の放送法が適用されることになったわけです。ですが、放送法は適用されますけども、沖縄については、特別法が幾つか出来まして、NHKの受信料も、たしか沖縄では本土で徴収している受信料の半分ぐらいの価格だったんじゃないですかね。

沖縄の公共放送、じつはテレビが先で、ラジオは復帰してから

川平 ラジオは復帰してNHKに移行してから始まるんですよ。これも、NHKはもう先行投資をして、ラジオのための送信所をちゃんと確保して、その工事を始めて、復帰したら間もなく始められるようにしていました。

 それから、教育テレビも、復帰と同時に始められるようにNHKはもう着々と進めましてですね。そういうことの、アメリカ民政府と琉球政府との交渉みたいなものは沖縄総局というのがありましたから、沖縄総局が進めていきました。

 ですから、沖縄放送協会にしたっていうことは、確かにNHKがそういう引き継ぎをしやすくなったということはあると思います。だから、すべてOHKの場合は逆です。ラジオで受信料っていうものをとっている経験があればですね、テレビになってもどうもないんですけども(笑)、全くその受信料っていうものを「何でとるのか?」と言うんですよね。

 だから、こういうこともありましたよ。大相撲中継をやってるのはOHKだけだったんですよね。それで「大相撲の中継のときに(徴収に)行け」と、「そしたら絶対あれだ」って言うんですけども、頑として頑張る人がいましたよ。

 「この大相撲は、これはOHKじゃない」と。「RBCだ」って言うんですね(笑)。頑張ってんですよ。「いや、RBCはその相撲の中継はやらないんです」と。「そんなことはない」って言ってですね(笑)。それだとかですね、「NHKがプロレスをやったら払ってやる」というのもありましたね(笑)。

各務 私の記憶では、最初、沖縄復帰した後に記念番組を、川平さんにお手伝いいただいた覚えがあるんです。ドラマを作りにですね、(沖縄に)行きました時、まず最初びっくりしたのは、タクシーに乗ったら、放送してるのが全部、沖縄の民謡番組で、我々の分かることがひとつもなかった。

 それから私はNHKの最後のとき、放送文化研究所というところにいて、世論調査をしたんです。そうすると、沖縄ではNHKの番組はほとんど見られてない。「沖縄の歌と踊り」という番組だけがかろうじて確か30番目ぐらいに入ってるぐらい。ですから、沖縄県人の方から見ると、本土の番組ってのは好まれてないんだと再認識したことがあるんです。そういう部分は今でもやっぱりありますか?

川平 そうだと思います。やっぱり商業放送というか、民放先行の土地ですから、やはりテレビに対する期待というのは、エンターテインメントが主体だということは、多分に多かったんじゃないですかね。

 しかし、その中でNHKが行って、良かった、良かったと言われてるのはやっぱりその教育テレビ、教育第2放送ですね、そういったものが入っていたことについて、評価する人はいるんですけども、その人たちの数がどうかというと、もうかなりのマイノリティーということになると思いますね。

 その中で、NHKが今やってることの中では「ちゅらさん」※だとか、そういったような、とにかく全国ネットで沖縄が紹介されるような番組ができるのはNHKだけですから。

※ 2001年放送の連続テレビ小説第64作。その後2003年、2004年、2007年に続編が制作、放送されている。

 そういう意味ではNHKに対する親しみは、OHKの公共放送時代とは違った意味のものがあると思いますね。もちろん、もろ刃の剣でもあって、例えば「おばあ」なんて言葉がもう全国で広がりましたけど、「おばあ」っていう言葉を沖縄の人が全員使ってるかと思ったら大きな間違いなんです。

 私は沖縄の首里の出身ですけども、首里のおばあさんたちは「とんでもない話だ」と、怒ってるというくらいにですね、NHKがやると「これが沖縄だ」っていうことになってしまうという、そういう危険性は確かにあります。

あらためて、メディアの役割とは何か

川平 最後に一言だけ。とにかく沖縄で戦後ラジオを始めたのは米軍ですね。それから、テレビを始めたのも米軍。ということがあって、あそこに行くとですね、放送法とか電波法っていうのはどうなってるんだということを考えるべきじゃないかと思うんです。

 これは本土でも言えることですけど、あのFEN※ っていうことはもうあって無きがごときで、だれも関心を持たないですけども、あの放送内容っていうのはですね、かなり問題のある放送内容であるんですよね。

※ 当初はFar East Network(FEN)だったが、現在はAFN(American Forces Network)となって、世界中で放送されている米軍ラジオ局(テレビ局もあり)ネットワーク。

 「我が国」だとか「我が軍」だとかって言ったときには、これはアメリカ軍のことを言ってるんだっていう、そういう放送が、この主権のあるこの国でやられてる。

 また、民間機が入って来るのに、ある地域では米軍の演習区域か何かになっているので、そこは飛べないようになってる。そしたら、「今度からそこは飛べるようになった」っていうのがニュースになるくらいですからね。だから、そういう意味での沖縄の米軍基地の状況というのは、やはり日本の放送メディアは、もっともっと深く見ていくべきじゃないかという気がします。(了)

<本証言は2004年6月5日収録。A4版41ページにわたるテキストから抄録。聞き手は放送人の会会員でNHK 出身の各務孝氏、野崎茂氏とRKB毎日放送出身のドラマ演出家、久野浩平氏(いずれも故人)、フリーのドキュメンタリー作家、土江真樹子氏 (収録時は名古屋テレビディレクター)。校正・注釈は前出各務氏とNHK 出身の北村充史氏、TBS出身の木原毅氏が担当。>

この記事に関するご意見等は下記にお寄せ下さい。
chousa@tbs-mri.co.jp