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「絶対に忘れさせない」被災者としての葛藤と記者としての思い~能登半島地震・緊急寄稿~

【元日に能登半島を襲った巨大地震。奥能登の実家に向かう道中で自らも被災した地元放送局の若手記者が「被災者」としての自分と「報道記者」としての自分のはざまの中で日々抱いた葛藤を吐露すると同時に、これからに向けての使命を誓う】

平 歩生(北陸放送報道部 記者)

元日、実家への道中で被災し電話中継

 1月1日、午後4時10分。私は車で夫と共に実家へと向かう道中にいました。その数分前にも携帯の緊急地震速報が鳴り最大震度5強の揺れがあったため、車を路肩に止めていました。「実家に帰った後は取材することになるだろうな」と思いながら、再び車を走らせようとしたその時でした。まるで遊園地のアトラクションに乗っているような、下から突き上げられるような揺れに突然襲われ、車は大きく上下左右に揺れました。

 何が起こったのかすぐには分からず、携帯のカメラを起動したのは数秒経ってからだったと思います。道路標識がしなって揺れている様子や反対車線に止まっている車がひっくり返りそうなほど揺れている様子を何とか撮影しました。とても長い揺れでした。車に付けていた安全運転のお守りが鈴の音を鳴らしながら大きく揺れていたのを覚えています。

携帯のカメラで撮影した地震発生時の車内 お守りが大きく揺れた

 私の実家は石川県の能登町にあります。私が勤める北陸放送の本社や自宅のある金沢市からは車で2時間ほど、能登半島の中でも北の方に位置する「奥能登」と呼ばれる地域です。能登町の人口は1万5000人ほどで、田畑が広がるいわゆる田舎です。私がランドセルを背負い、家までの道を歩いていると、知らないおばあちゃんから「おかえり」と声をかけられるような、そんな集落で育ちました。

 しばらくして揺れが収まり、恐る恐る車の外に出ました。私が走っていたのは奥能登へと繋がる「のと里山海道」という道路で、車を停めたのは最大震度である震度7を観測した志賀町でした。道路の中央線の部分に亀裂が入り、ぱっくりと割れていました。

「家族に電話しなきゃ」
 すぐに母親に電話をかけましたが繋がりません。その後何度か電話しましたが繋がらず、一足先に実家に着いていた従姉妹に電話をかけました。
「みんな無事やよ、大丈夫やよ」
 当時実家には、両親と祖母、兄夫婦と1歳になったばかりの甥、従姉妹がいました。無事という言葉を聞いて手が震えました。家族に会いたい思いと、取材をしなければという思いで再び車を走らせましたが数十メートル進んだところで道路が大きく陥没しているのが見えました。

地震発生直後「のと里山海道」にて筆者撮影

 すぐに車を降りて、道路の様子を撮影しました。車で見ていたテレビでは、自局の地震特番が始まっていました。本社から電話があり、「電話中継できるか」と聞かれたため、すぐに準備しました。助手席に乗っていた夫は車を降りて、能登へ向かおうとする車の交通整理をしていました。

本社から能登取材の指示を受けるも…

 電話での中継を終え、本社に指示を仰ぐと「金沢に戻らず能登へ向かってくれ」と言われました。報道とは全く違う仕事をしている夫は不安そうな顔をしていました。きっとすぐにでも金沢へ戻りたかったのだと思います。ただ、私は当時「取材しなきゃ」という思いで頭がいっぱいになっていて、夫に運転してもらいながら何とか能登へ向かう道を探しました。

 「のと里山海道」を降り、山道を走っている道中も至る所に倒壊した住宅が見えました。能登へと向かう道路は、道路と呼べないほど悲惨な状況でした。マンホールは隆起し、至る所で陥没も。電線が垂れ下がり倒木で通れない道もありました。もちろん、交通整理などはまだ始まっていません。地震発生から2時間が過ぎようとしていました。

 午後6時を過ぎていて辺りは暗くなり、少しでも間違えれば車が落ちてしまうような中を進みました。そんな中でも私は、車を運転する夫に「早く能登に向かって」と声を荒らげました。この時は家族が心配と言うより、報道記者として早く伝えなければいけないという使命感に駆られていたんだと思います。その後何とか能登へ向かおうとしましたが大規模な土砂崩れがいくつも発生し、穴水町まで行ったところでそれ以上先には進めませんでした。夫と来ていたこともあり、このままでは取材を続けられないため、1度金沢に帰ることになりました。

 道中、母から電話がかかってきました。「あゆ大丈夫?家はね、もう住めるかわからんわ。パパと2人で車中泊しとるよ」。本当なら今頃、実家で寝ているはずでした。もう二度と実家で家族と食卓を囲み、楽しい時間を過ごすことが出来ないのかと、ガタガタになった夜道を走りながら考えていました。

 金沢市の中心部にある自宅アパートに着いたのは翌日の午前2時ごろ。幸いアパートの被害はほとんどなく、明朝からの取材に備えて寝ようとベッドに寝転がった途端、涙が溢れだしてきました。とてつもなく長い1日でした。心配、不安、色々な感情が入り交じって、子供みたいに泣きました。

「もし金沢の被害が甚大だったら…」

 翌日からは能登に向かいましたが、道路状況の悪さに加え、電波も繋がらず、どの道も渋滞が発生していました。渋滞のさなか、金沢へと続く対向車線に兄の車が通りました。「頑張れよ、きーつけろよ」すれ違う間のたった数秒の会話でした。

震災発生の翌日に珠洲市内の道の駅「すずなり」でリポートする筆者

 普段生活している金沢市は被害があったとはいえ、翌日から日常が続いていました。週末、飲み屋街にはたくさんの人がいました。同じ県内で凄まじい地震が起こったことなど感じられないほどの状況に戸惑いもありました。一方で、もし金沢の被害が甚大だったら、能登への支援は後回しになっていたのではないかと思ったりもして、想像してゾッとしました。

「被災した記者としての地元取材」に葛藤

 地震から3日経った日、報道部長から電話がありました。「1週間特番で、平の目線で特集してくれないか」地元が被災した記者として、家族の状況や友人などを取材して欲しいというお願いでした。正直私は嫌でした。こんな状況で、友達や家族を見世物にしたくないと思いました。出来れば何も話したくないと思いました。ただの記者として、取材するだけで精一杯でした。

 しかし一方で、記者としてやらなければという思いもありました。能登出身で、以前の姿も知っていて、地元の友人も多い。私だからこそ伝えられることもある。複雑な心境の中、特番では通っていた高校や、友人の状況を取材しました。大変な状況の中、取材を受けていただいた先生、友人には本当に感謝しています。「見たよ、伝えてくれてありがとう」とたくさんの人からメッセージを頂きました。

高校生時代によく訪れた珠洲市内のショッピングセンターを取材

 マスコミは、節目をつけたがります。1週間、2週間、1ヶ月。「きょうで地震から〇日が経ちました」自分自身もそういう原稿を書きながら少し違和感を覚えます。被災地では、1週間も1ヶ月も関係ありません。節目なんてものはありません。発生から1ヶ月を過ぎるまで、被災地では時が止まったような状況なのにまるで無理やり前に進まされているような、背中を勝手に押されるような気持ちになっていました。記者として原稿に書きながら、これでいいのかと矛盾のような思いを感じていました。

「絶対に忘れさせない」私にできること

 地震発生から2か月が過ぎる中で、これから私にできること。テレビ局の記者として能登半島地震を絶対に忘れさせないということです。私は絶対に忘れることはありませんし、もしかしたらこの先「あけましておめでとう」と言葉を交わすことは無いかもしれません。でも、今この瞬間も全国では少しずつ、能登半島地震は過去のものになっています。今は毎日全国ニュースでも取り上げられていますが、発生当初に比べればニュースの尺も短くなっています。それでも伝え続ける、それが私に出来ることです。地震を過去のものにさせないことが、地元にいる友人や家族のためになると思っています。

 普段は金沢で生活していますが、能登は私が生まれ育ったかけがえのないふるさとです。違和感や矛盾を感じたり、悩んだりすることはあると思いますが、それでもほかの記者より能登に寄り添う人でありたい。これからも記者と当事者の間で地元のためにできることを考えて伝えていきます。

〈執筆者略歴〉
平 歩生(ひら・あゆむ)
1997年    石川県能登町生まれ
2020年3月 金沢大学 卒業 
  同年4月 北陸放送入社 報道部配属
        警察担当として事件事故を取材し司法キャップを経て
      2023年~警察キャップ
2024年1月 能登町の実家へ向かう道中で能登半島地震が発生し被災