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現代のプロパガンダ

【近年あらためてスポットが当たっている「プロパガンダ」。SNSの急速な発展に伴って進化する現代のプロパガンダの特徴と、その罠から逃れるためになすべきことは】

辻󠄀田 真佐憲(近現代史研究者)


そもそも「プロパガンダ」とは

 ウクライナ戦争の長期化などで、プロパガンダにあらためて注目が集まっている。

 プロパガンダとは、政治的な意図にもとづき、相手の思考や行動に(しばしば相手の意向を尊重せずして)影響を与えようとする組織的な宣伝活動のことだ。第一次世界大戦を機に世界各地で関心が高まり、政府や軍の幹部たちはそれ以来、いかにして味方の士気を高め、敵の戦意を削ぎ、そして中立国の友好的な態度を引き出すか、つねに知恵を絞っている。 

 近年では、プロパガンダの舞台がインターネット上に広がりつつあり、ツイッターなどのSNSでは「あれはロシアのプロパガンダだ」などという指摘が当たり前のように飛び交うようになっている。以前には、北朝鮮の女性音楽ユニットや、自民党の広報戦略などがプロパガンダの文脈で批判的に取り上げられたこともある。このような例は枚挙にいとまがない。

 筆者は歴史屋であり、個々の国や地域の専門的なアナリストではない。そのため以下では、ひとつひとつのプロパガンダを分析するというよりも、むしろ歴史的な視点で現在のプロパガンダの特徴とそれへの対処法について考えてみたい。

プロパガンダの基本的構造

 最初に理解しておくべきなのは、現在のプロパガンダはいかに派手に映るとしても、基本的な構造は歴史的にみてあまり変わっておらず、その影響力は限定的にとどまるということである。

 ここでいう基本的な構造はつぎの4点にまとめられる。

 (1)まず、プロパガンダは最新のテクノロジーやエンターテインメントと結びつくということだ。

 プロパガンダというと、軍部が押し付けてくる、いかにも説教じみて退屈な作品だというイメージが根強い。たしかに、そういうものが多いことは否定しない。ただ、プロパガンダはひとびとの心を動かさなければ意味がないため、そのときどきの娯楽産業などと結びつきやすい。

 第二次世界大戦では、レコードやラジオ、映画などがその例で、それがテレビを経て、現在ではインターネット上の動画となっている。人気の文化人や芸能人などが関わっている以上、そこでしばしばクオリティーの高い作品が生み出されたとしてもふしぎではない。

 では、そうしたプロパガンダの効果はいずれも高いのか。いや、そうではない。いかに携わっているひとびとが一流であろうと、その内容がワンパターンでは二流以下にならざるをえないのは説明を要しないだろう。

 (2)そこから、ふたつめの基本的な構造が導き出される。すなわち、プロパガンダは単純化を重んじるということだ。

 プロパガンダは、とりわけ戦時下などの非常時に求められる。その極限状態では、敵と味方がはっきり区別されるのであり、メッセージも「敵を倒せ」「味方を守れ」と単純化される。「かれは敵か、味方かわからない」というような中間的で曖昧な態度は許されない。そのため、プロパガンダのメッセージはどうしてもワンパターンなものに陥ってしまう。

 いみじくもヒトラーは、『我が闘争』のなかでこう指摘している。プロパガンダは、大衆を対象に、感情的で、単純で、一方的でなければならない――と。これはプロパガンダを行ううえでは正しいものの、コンテンツを制作するという観点では制約以外のなにものでもない。

 (3)この特性ゆえに、プロパガンダにはほぼ共通してある欠点が認められる。それは、メッセージを真逆にすれば、真実が浮かび上がってくるということだ。

 なにもむずかしい話ではない。たとえば、ある国が「一致団結しよう」というスローガンを盛んに唱えていたとしよう。その国の実態はおそらく、国民が分裂している。なぜなら、本当に一致団結していれば、それを訴える必要がそもそもないからである。

 同じことは「飛行機を増産せよ」でも、「敵は必死だぞ」でもかまわない。その実態は、「飛行機が足りていない」、「むしろ自分たちこそ必死だ」と予測できよう。プロパガンダは単純でなければならないからこそ、それを別に読み替えることもたやすい。

 (4)最後の基本的な構造は、プロパガンダは足し算ではなく掛け算ということだ。

 プロパガンダは、どんな相手にも自由自在に思想を吹き込める魔法の手段ではない。火のないところに煙は立たないように、とくに好感も悪感も持っていない対象を突如として嫌う存在に変えることは、非常な困難をともなう。閉鎖空間に長時間監禁でもすれば可能かもしれないが、あまりにコストがかかりすぎる。

 それにくらべ、もとから潜在的になんらかの不快感を抱いていた相手に対する憎悪感情を強めることはそれほどむずかしくない。そのひとが聞きたい、相手の悪い評判を優先的に流せば、喜んで受け入れてくれるからだ。プロパガンダは、このような掛け算を大いに得意とする。

現代のプロパガンダの特徴

 ここまで語ってきたのは、過去から現代にいたるまで、プロパガンダが共通して持つ特徴についての考察だった。では反対に、現在のプロパガンダに特有の部分はあるだろうか。筆者はこれを「プロパガンダのターゲット化」と呼びたい。

 かつてレーニンは『何をなすべきか』のなかで、アジテーションとプロパガンダの区別を説いた。そこでアジテーションとは、少数の思想を多数のひとびとにたいしておもに口頭で伝えることであり、プロパガンダとは、多数の思想を少数のひとびとにたいしておもに活字で伝えることだとされた。現在風に言い換えれば、前者が大衆向けのプロパガンダであり、後者がインテリ向けのプロパガンダである。

 知的な能力が高いインテリは大量の情報を与えても頑張って読解して受容してくれるが、対象人数が限られてしまう。そのいっぽうで、大衆は大勢いるものの、知的な能力に限界があるのであまり多くのことを伝えられない。現在はインテリがほとんどいない時代だが、同じ人間でも詳しい分野だとインテリ的になり、そうではない分野だと大衆的になると捉えれば、以上の区分は現在でも応用できるだろう。

 だが、SNSと生成AIの台頭はこのプロパガンダの原則を覆すかもしれない。

 SNSは、フェイスブックがまさに得意とするように、ユーザーの視聴履歴や検索履歴などを参照することで、そのひとにもっとも効果的な広告を個別に出すことで大きな収益を上げている。いわゆるターゲット広告というものだ。この技術を応用すると、もっとも効果的なプロパガンダをきわめて効率的に展開できるだろう。

 たとえば、愛国心を高揚させようとする場合、韓国に否定的な意見をもつひとには竹島の情報を提供すればいいし、反米的な傾向をもつひとには東京裁判の話をすればいい。相手の知識にあわせて、その内容は調整することもできる。

 そして最近話題の生成AIは、そのようなプロパガンダのカスタマイズをより低コストにしてくれるだろう。

 かつてのプロパガンダは、つねに人員の不足に悩まされていた。いかに宣伝が大事だといっても、戦時下には前線部隊などに資源が優先的に配分される。そのため、宣伝部門は少数でやりくりせざるを得ず、しばしば国民のニーズとズレたコンテンツを提供して失笑を買わざるをえなかった。

 ところが、生成AIの台頭はこれをかなりの部分で解決してくれるかもしれない。ターゲットの個々人にあわせて、より自然な言語とより説得的な論理で、プロパガンダを自動生成してくれる可能性があるからだ。現在、ChatGPTが話題になっているけれども、映像や音声だって近い将来、いまより低コストで生成されるようになるだろう。

 ようするに、SNSと生成AIを組み合わせることで、「プロパガンダのターゲット化」がきわめて容易になってきているのである。そしてこれはターゲット化されているゆえに、大衆的なひとびとにたいしても、適切に欲望を刺激することで多くの情報を伝えられる。すなわち、「多数の思想を大勢のひとびとに伝える」という第三の道がここに開かれているのだ。

 もちろん、現在ではこのようなプロパガンダは、個人情報の保護などで容易ではない。ただ、潜在的な可能性として考えておく必要はあるだろう。またロシアや中国のように、人権意識が薄弱な国では導入が容易かもしれない。

プロパガンダへの対応

 以上の議論から導き出せるのはつぎの2点である。

 第一に、プロパガンダはそれほど大きな影響力がなく、過度に恐れる必要はないということだ。プロパガンダの多くは凡庸であり、たいした影響力は認められない。プロパガンダの恐怖を過剰に煽ることは、むしろ「闇の政府によってわれわれは操られている」などという陰謀論を招きかねない。

 とはいえ、第二に言えるのは、特定の条件下でプロパガンダは大きな力を発揮する可能性があるということだ。とくに近年では、SNSや生成AIの発達にともなう「プロパガンダのターゲット化」が起ころうとしている。まだ現実的ではないとはいえ、その問題点や影響力についてあらかじめ考えておくことは無駄ではない。

 このような新しいプロパガンダに、われわれはどのように対応すればいいだろうか。これは意外にむずかしい。高度な教育を受け、立派な経歴をもつものであっても、しばしば陰謀論に陥ることもあるからである。

 ここでヒントになるのは、さきほど紹介したヒトラーのいうプロパガンダの鉄則だ。ヒトラーは、プロパガンダは大衆に向けて、感情的に、単純に、一方的にやるべきだと述べた。その逆を心がけてみるのはどうだろうか。すなわち、理性的に、複雑さを疎んぜず、中間を重んずる、(インテリとは言わないまでも)「賢い大衆」をめざそう、と。

 より具体的には、「~は正義だ」という単純な思考から距離を取るということである。「ロシアが正義」に凝り固まれば、陰謀論に陥りやすいことはいうまでもない。では、そのロシアの部分を日本、アメリカ、ウクライナなどに入れ替えるとどうだろうか。あるいは、保守派やリベラル派などの党派でもかまわない。

 それらの国々や党派が正義ではないと断定したいのではない。そのように思考実験してみるということが大事だということだ。その結果、いずれかの国や党派が正義だと結論づけるようになったとしても構わない。ただ、それもまた疑ってみなければならない。そのような繰り返しのなかでしか、プロパガンダの罠から逃れることはむずかしいのではあるまいか。

<執筆者略歴>
辻󠄀田 真佐憲(つじた・まさのり)
 1984生。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論などを幅広く手がける。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。著書に「『戦前』の正体 愛国と神話の日本近現代史」(講談社現代新書)「たのしいプロパガンダ」(イースト新書Q)など。

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