戦争に対峙する日本のジャーナリズム
福田 充(日本大学危機管理学部教授)
「私たちの戦争」の時代のジャーナリズム
ロシアによるウクライナへの一方的侵攻によるロシア・ウクライナ戦争は、世界各国を間接的に巻き込みながら長期化する様相を呈している。私たち市民はテレビや新聞、ネット、SNSの情報でこの戦争の状況を知り、メディア報道における解説を参考にしながら解釈している。
それゆえに私たちの戦争に関する脳内の疑似環境は、接触しているメディア報道に依存していると言わざるを得ない。だからこそ戦争やテロリズムなど危機事態におけるメディア報道、ジャーナリズムのあり方は社会において重要性を持つのである。
現在の私たちはこのロシア・ウクライナ戦争から他者の戦争、他国の戦争の問題をどう報道するか、どう向き合うべきかということを考察し、議論している段階ではもうすでにないと考える。
そこにあるのは結局のところ戦争に対する「他人事」の態度である。グローバル化した現代において、人間の安全保障ならびに人権の安全保障の時代に、ウクライナで起きていることは他国で起きている他国の戦争ではなく、すでに地球に住む私たち自身の共通の問題である。日本政府も、日本人もすでに経済制裁や政治的表明によりこの戦争に参加している当事者であるという「自分事」の意識も必要であろう。
もう一つの意味において、東アジアで進行している中国による尖閣諸島への実効支配への動きや台湾有事のリスク、北朝鮮による弾道ミサイル発射と核実験のリスクも、独立した安全保障の問題ではなく、ロシアと連携する中国や北朝鮮など権威主義国家による巨大な安全保障リスクとして、世界がフレーム化しつつある状況があるが、その東アジアの安全保障リスクの最前線に日本があることを認識すべき時期に来ている。
このような危機の時代において、私たち自身がこうした私たち自身の戦争とどう向き合うべきか、私たちが接するメディア報道、ジャーナリズムがどうあるべきかが問われている。
戦争におけるメディアコントロール
戦争における報道において、政府とメディアの関係には(1)検閲、(2)調整、(3)自由報道の3つのパターンが考えられる。
(1)検閲とは戦争をはじめとする危機におけるメディア報道を事前に検閲して許可が得られない場合には報道できないというメディア統制がこれにあたるが、現代においてもこうしたメディアの検閲の制度は中国や北朝鮮、ロシアといった権威主義国家において平常時から存在している。
しかしながら、第二次世界大戦においては当時の主要なメディアであった新聞やラジオのニュース報道は、日本やドイツ、イタリアの枢軸国だけでなく、アメリカやイギリスといった連合国においても戦争報道に関する検閲は実施されていたことは忘れてはならない。
戦争におけるカウンターインテリジェンス、スパイ防止の文脈において、戦争に関する国家機密に関わり得る情報とその報道については、メディア報道の検閲は当然のものとして受け入れられていた。ここにおいて、戦争、テロリズムなどの安全保障に関わるメディア報道は、自国の安全保障に関わる場合は、国家機密と安全保障を優先する価値と、国民の知る権利や権力監視を優先する価値との間の対立が生まれる。検閲とは政府がメディア報道を統制する「統制型モデル」である。
(2)調整のタイプで代表されるのが、イギリスのDAノーティス制度である。DAノーティスとは、1912年の第一次世界大戦前の時代においてイギリスで整備されたDノーティスという制度に由来しており、戦争などの国家の危機に関する安全保障について、5つの項目に関する報道を行う場合には、新聞やラジオなどのメディアが事前に国防省や内務省などの政府官庁と報道内容についての事前相談をできる制度である。
その5つの項目とは、①軍の作戦、計画及び能力、②核兵器、通常兵器及び装備、③暗号、通信の安全、④特定施設の場所、⑤イギリスの安全保障、情報機関及び特殊部隊の5項目である。
各メディアは自社の報道がこれらの項目に関連すると判断した場合には、その報道内容がイギリスの公務機密法に抵触しないかどうか、事前にDPBACという機関に相談することができる。スパイキャッチャー事件やブライム事件などはそのDAノーティスが関わった有名な事例である。政府とメディアが安全保障に関して協調しながら、討議によってマネジメントする「協調討議型モデル」ということができる。
アメリカのメディアコントロール
(3)自由報道といってもジャーナリズムの倫理に基づき、公共の福祉にかなう報道が求められるが、例えばアメリカの事例で考えれば、アメリカにおいては情報自由法(FOIA)などの体系に基づいて、情報公開の原則と報道の自由が確立されている。
このように情報公開の原則と、報道の自由の原則によって、自由報道が守られている一方で、戦争やテロリズムといった国家の危機に直面した場合には、この情報自由法においても例外規定が存在する。その中でも最初に挙げられる代表的な例外規定が、大統領令によって定められた国防、外交政策における機密である。また議事公開法においても、公開例外とされているのが「国防または外交政策に関する記録中、大統領令に明記された秘密指定の基準に該当する記録」である。
このように原則的に情報公開や報道の自由が優先されていても、それに安全保障に関わる例外が存在するのである。そして平常時から戦時にかけて、政府の安全保障の政策に対して、メディア各局がどのように対応するかを、メディア各社が戦争報道ガイドラインを作成して自主規制する、「自主規制型モデル」であるともいえる。
そうした例外規定に対して、アメリカのメディアはどのように戦争やテロリズムと向き合ってきたか、アメリカが戦後経験したベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争を事例に考えてみたい。アメリカ政府は、ベトナム戦争においては①自由報道、湾岸戦争においては②ブリーフィング取材、イラク戦争においては③エンベッド取材という手法を用いた。
ベトナム戦争において、アメリカ政府は当初、自由報道の原則をメディアに認めたため、当時の新聞社、通信社、テレビ局は自由にベトナムの戦場に入り、取材、報道することができた。また世界のフリージャーナリスト、カメラマンもベトナムの戦場に入った。
その結果、当時アメリカ社会をはじめ世界中の家庭に普及し始めたテレビによって、ベトナム戦争は戦場の戦闘や死者が初めてお茶の間にリアルな映像として伝えられた戦争となった。さらに南ベトナム軍兵士が北ベトナム軍のスパイだとして一般市民を路上で処刑した映像「路上での処刑」がテレビや新聞で報道されたことによって、アメリカ国内ではベトナム反戦運動が拡大した。この反戦運動はアメリカだけでなく日本でもヨーロッパでも世界各地に拡大し、戦闘を維持、継続できなくなったアメリカ軍は撤退した。
ベトナム戦争の敗北を、メディアコントロールの失敗と考えたアメリカ政府は、続く、グレナダ侵攻、パナマ侵攻などの局地戦における軍事介入で徹底した報道の統制を実施した。これが社会の批判を浴び、続く、湾岸戦争においてアメリカ軍はテレビや新聞などのメディアに対して、②ブリーフィング取材という手法を用いて戦争の取材、報道をコントロールしようと試みた。
湾岸戦争においては、アメリカ軍は戦場への各国のメディアの自由なアクセスを禁止した。しかしその代わりに戦場から遠く離れた後方の基地にプレスセンターを設置し、アメリカ軍の報道官が公開可能な映像をそこでメディア各社の記者に見せて、その概要を簡単に説明するという、ブリーフィング取材が実施された。
そこで提示された映像は戦闘機や爆撃機のコックピットでパイロットが見る戦闘用の画像であり、その標的をピンポイントに攻撃して破壊したことを示した画像であったため、この湾岸戦争の報道は「ニンテンドー・ウォー」、「ゲーム・ウォー」と揶揄された。そのアメリカ軍発表の映像には、イラク兵や市民、アメリカ軍兵士の姿や遺体は全く登場しない。
湾岸戦争におけるメディアコントロールで批判を浴びたアメリカ軍は、イラク戦争においてまた新しい手法を確立した。それが③エンベッド取材である。アメリカ軍が構築したグラウンド・ルールの原則に従うと誓約した世界のメディアだけに戦場への従軍を許可し、アメリカ軍が用意したバスに世界の記者を乗車させ、まるでパックツアーのように戦場の周辺を見学、撮影させ、要所要所で下車して戦場のかなり後方から、報道官が戦場、戦況を説明して取材を受けるという手法である。
日本の戦争報道はどうあるべきか
戦争において政府とメディアの関係はどうあるべきか。日本はこの問題を議論し、検討することを避けてきた。検閲、調整、自由報道のパターンにおいて、「統制型モデル」「協調討議型モデル」「自主規制型モデル」のいずれを選択するのか、日本にはその議論も方針も存在しない。この状態では戦争に巻き込まれたとき、日本において政府によるメディアコントロールは容易であろう。
戦争において、メディア報道がいわゆる「大本営発表」に基づく発表ジャーナリズムとなるのは、有事においてその情報源が政府や官庁といった政治権力に集中するためである。
戦争という概念は、軍事において「侵略する側」と「侵略される側」という圧倒的な非対称性を隠ぺいする機能を持つが、この「侵略する側」と「侵略される側」という非対称性を理解した上で区別することは極めて重要である。「戦争反対」という言説は「侵略する側」の攻撃に向けられるべきであり、「侵略される側」の抵抗に向けられるべきではない。
このことを理解した上でも、戦争においてはやはりその両者において、情報源の権力の集中は発生する。だからこそ戦争における政府とメディアの関係の議論と構築は重要な問題であり得るのである。この問題は程度の違いはあれ現代のロシアにも、ウクライナにも発生している。
戦争において、政府公式見解はテレビや新聞などメディア組織に対してはコントロールが可能な時代が続くであろう。東アジアにおいて、台湾有事、朝鮮半島有事、北朝鮮のミサイル事案が勃発したとき、日本のメディアがどのようにそれを報道し、どのような態度をとるか、それはあまりにも未確定であり、混乱の発生が予想される。
筆者は日本においてとるべき方針は、自由報道を優先した「自主規制モデル」だと考えるが、日本の新聞やテレビなどの報道機関は、戦争という事態において政府との関係、政府発表の扱い、安全保障上の機密に関する扱いなど、これらの問題をどう処理するかを詳細にまとめた社内の自主規制型の報道ガイドラインをほとんど持っていない。その検討と構築が急務であろう。
SNSとナラティブ・ウォーの時代
戦争とメディア報道は、従来のマスメディアであった新聞、テレビの時代から、ネット、SNSの時代へと移行した。イラク戦争においてすでに戦争はインターネットの時代といわれたが、このロシア・ウクライナ戦争はSNSが主流となった
ロシア政府はすでに欧米のSNSの利用を規制しているが、ロシアのSNSであるテレグラムも監視を強化している。一方でウクライナ側の情報は、テレグラムだけでなく、ツイッターやインスタグラム、ユーチューブなど西側諸国の様々なSNSを通じて、戦場や市民生活の現場のリアルな映像が世界の市民に向けて直接届けられている。
このウクライナ軍の兵士たちや、ゼレンスキー大統領、市民ひとりひとりのメッセージがまるで編集が全く加えられていない生の映像であるかのように、SNSを通じて世界に市民に伝えられる。
個人が自らのメディアリテラシーに基づいてどちらの情報が正しいか、どの情報を信じるかという判断、意思決定をする過程において、このSNSを通じて、そしてそれはテレビや新聞といったマスメディアを介したものではなく、直接繋がっているというメディア幻想を持つことで信頼性が生まれ、意思決定に大きな影響を与えている。これは世界のメディアの言説が戦争や外交に大きな影響を与えるナラティブ・ウォーの時代において、極めて重要な意味を持つ。
世界のメディア報道をどのようにコントロールするか、自国内のメディア報道をどのようにコントロールするかという従来の「メディアコントロール」のフレームで考えることはすでに時代に適していない。それと同様に、自国のメッセージをどのように世界に宣伝するか、どのように自国民を高揚させて動員するかという従来の「プロパガンダ」のフレームも時代遅れとなっている。
戦争という問題について、SNSを媒介にして世界の市民がどのようにつながり、どのように議論してナラティブが構築されていくか、これはむしろ「リスクコミュニケーション」と呼ぶべき状況が生まれていると解釈するべきではないだろうか。SNSの時代における戦争のリスクコミュニケーション、これが現代で問われるべきテーマであろう。
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