テレビで使われた印象深い「ことば」たち
内山 研二(TBSテレビ審査部)
「言葉はいきもの」
私の職場は「審査部」です。番組やCMなどの表現について、民放連の放送基準をもとに問題がないかを確認し、どのような表現がより良いのかを探る職場です。その「審査部」で放送表現や放送用語を担当し、番組スタッフから言葉・表現について質問・相談を受けています。
よく言われるように「言葉はいきもの」です。その言葉の本来の意味や使い方であれば問題ありませんが、意味や使い方は少しずつ変わるものがあります。その変わる言葉の意味や使い方をどこまで許容できるかは、なんとも悩ましいです。今回はそうした相談の中から、印象深かった「ことば」たちをいくつかご紹介します。
気を「つかい」ます
こんな質問が寄せられました。
「『気をつかう』の『つかう』は『遣う』だと思ったが、『使う』が使われていた。『遣う』と『使う』は、どう使い分けるのだろう」…「つかう」がずらりと並ぶ質問です。
審査部では、言葉の意味を調べる際に14冊の国語辞典の掲載内容を確認しています。同じ「言葉」でも、ちょっと違った解釈を掲載しているものもあり、発見や気づき、ときに驚きもあります。
この「つかう」を調べてみると、まず「使う」は「用いる」のほか、「消費する」「減らす」といった意味があります。「気を使う」という表現であれば、「健康に気を使う=健康に注意する」、「この機械の操作には気を使う=操作には細やかな神経が必要(または、神経をすり減らす)」、「遺跡の発掘には気を使う=発掘に細心の注意を払う」といった用例があり、「気持ちや集中力、感覚などをつかって効果(結果)をあげる場合の表記」ということがわかります。
一方、「気を遣う」は、文字通り「気遣い」「気遣う」(=相手に対して気配りする・心配する・思いやる)の意味になり、相手への心情が含まれています。
今回の質問は、「気配り」という意味で受け止めたのに「気を使う」と表記され違和感を覚えたということだったので、「気遣い」「気遣う」の意味に解釈できるのであれば「気を遣う」、それ以外は「気を使う」と表記すれば違和感なく伝わるのではないかと答えました。
ただし、「使う」の用途は広いので、「気遣い」「気遣う」の意味で「気を使う」と表記しても、誤りと断じることはできません。また、前後の文脈で「使う」「遣う」どちらも記すことができる表現もあるでしょうから、悩んだときは「つかう」とひらがなで表記することを検討しては、とも付け加えました。気をつかいますね。
「堀」と「掘」には「落とし穴」がある
テロップの間違いで、繰り返される表記があります。間違えた担当者は、ばつが悪い思いをするものですが、それぞれ別の担当者が間違えるからには、何か理由・原因があるのだろうと考えると、その担当者一人一人を責める気持ちになれません。
その間違いが繰り返される表記に「深掘り」と「深堀」があります。ご存じのように「深掘り」は「深く調べたり考えたりすること」といった意味です。「この問題を深掘りする」などと、目にしたり耳にしたりすることもあるでしょう。この「深掘り」の「掘(てへん)」を「堀(つちへん)」と間違えることが何度となくあります。
「掘」と「堀」は「へん」に違いがあるだけで、よく似ていますし、「ふかぼり」と入力して変換すると、どちらも候補として表示されるので、急いでいる時は、間違ってしまう可能性が高まります。大抵は「ふかぼり」と入力して変換すると「深掘り」と「深堀」が候補として表示されるので、送り仮名の「り」があるかないかで違いを判断できるのですが、一度「深堀り」と学習してしまうと、ご親切に次から候補に「深堀り」が表示されてしまうこともあるようです。
「深堀」が候補に出てこなければよいのにと思いたいところですが、「深堀」は人名や地名で使われているので、候補から削除することは「深堀さん」や「深堀に住むかた」には大変失礼です。
「掘」と「堀」の「落とし穴」にはまらないよう、対策としては今のところ「『深掘り』は動作なので、手で掘るんですよ。『てへん』ですよ」などと呼びかけて、注意喚起するくらいしか思いつきません。どなたか、この「掘」と「堀」の「落とし穴」を避ける妙案をお持ちではないでしょうか。
この違いは「放っておけない」
面倒なことは後まわし、放っておきたいという誘惑は誰にでもあります。この「放っておく」という意味で使われる言葉に「おざなり」と「なおざり」があります。似た響きのこの「おざなり」「なおざり」の違いを質問されて、どっちがどっちだったか、どうにもあやふやだったので、慌てて調べました。
すると、「着手したか」「着手していないか」で使い分けられるようです。
まず、「着手したのに、放っておく」が「おざなり」です。「お座敷形(おざしきなり)=お座敷で、その場だけとりつくろった形が由来」と掲載する国語辞典(三省堂国語辞典・第八版)があります。
一方、「着手もせずに、放っておく」のが「なおざり」です。「なおざり」の語源は諸説あるようですが、「なおも○○しない」という意味合いが由来のようです。こうしたことから、「勉強をおざなりにしている」のであれば「勉強しているものの、きちんと学んでいない」、「勉強をなおざりにしている」のであれば「勉強をまったくしていない」となります。
「おざなり」も「なおざり」もしないようにするのが基本でしょうが、良からぬこと、得にもならないことに荷担しそうであれば「なおざり」も「手」の一つではあります。
「例える」ことはできません
「絶対にお前を許さない」。こんな言葉を浴びせられたくありませんが、この「絶対に」の言い換えとして「たとえ太陽が西からのぼっても…」や「たとえ天地が逆さになっても…」といった「たとえ○○としても」という表現があります。先ほどの例を使うと「たとえ太陽が西からのぼっても、お前を許さない」となります(伝わりかたの印象が変わった気もしますが…)。
「たとえ○○しても」は、「ある仮定(条件)が現実になったとしても、結論(現状)は変わらない」という意味で使います。しかし、この「たとえ」の箇所を、「例え太陽が西からのぼっても…」と「例え」を使って書くのは間違いなのです。
この場合の「たとえ」は、漢字で表記すると「仮令」「縦令」となります。これは中国の表記をそのまま使っていたそうで、かつては「たとい」と読んでいたのが「たとえ」になったのだそうです。このことから、本来は「仮令(縦令)、太陽が西からのぼっても…」となるのですが、読める人は多くないでしょうから「たとえ」と、ひらがなで表記するようになりました。
一方の「例え」は、「例え話」「例えてみれば…」など馴染みがありますが、かつて「譬え」「喩え」と表記していました。その後、常用漢字が導入された際、「譬」「喩」ともに常用漢字に含まれなかったため、代用として「例」が使われたのだそうです。このように同じ「たとえ」という読み方であっても、由来・成り立ちがそれぞれ違うのです。
たとえ太陽が西からのぼっても、「たとえ」に「例え」は使えないのです。
それは「技」ではありません
「実現するには極めて難しいこと」の表現の一つに「至難のわざ」があります。この「至難のわざ」の「わざ」は「業」と表記しますが、ときどき「至難の『技』」を見かけます。「技」は「訓練・習熟・習練を経て得られた技術・技能」といった意味なので、「至難の技」と表記することを違和感なく受け入れてしまう、その気持ちはわかります。
しかし、「至難のわざ」を立ち止まって考えると「技」ではないことに気づきます。これまで打ち破ることができなかった記録や業績を達成したのは、「行動・行為」による結果です。「至難のわざ」の「わざ」は、「行動・行為」なので「業=おこない」を使うのです。
一方、「技」は「行動」「行為」のうちの「手段・手法」なので、「至難の技」にはならないのです。なお、「業」を使った表現としては「あんなことができるのは人間業じゃない」「まさに神業だ」などがあり、TBSテレビにも「THE神業チャレンジ」という番組がありますね。
余談ですが、「至難の業」と同じような意味で「前代未聞」があり、さらに「前代未聞」と同じような意味で「破天荒」があります。ところが、この「破天荒」を、本来ではない「豪快で大胆な様子」の意味で使う人が多く(65.4%)、本来の「前代未聞」の意味で使う人のほうが少ない(23.3%)ことが、文化庁の2020年度「国語に関する世論調査」などで明らかになりました。
本来の「前代未聞」の意味で「破天荒」を使うよう広めるのは、もはや「至難の業」になりつつあるのかもしれません。
「まく」が「くま」になるのは、歳月が決める?
「レシピ(=料理の作り方)」と言ったつもりだったの「レピシ」と口にしてしまったことがありました。正しく口にしたはずなのに、前後の音がひっくり返ってしまうことを「音位転換」というのだそうです。このほか、「シミュレーション」を「シュミレーション」、「雰囲気(ふんいき)」を「ふいんき」と口にしてしまうのも「音位転換」の具体例です。
ある言葉を「音位転換」すると当初は「間違い」とされます。しかし、長年にわたって「音位転換」して使われると「間違い」ではなくなってしまう言葉もあります。例えば「だらしない」という言葉は昔、「しだらない」だったそうです。また、「あたらしい」は昔、「あらたし」だったというのは、よく知られていますね。このように歳月が「誤りを誤りでなくしてしまう」ことはあります。
しかし、まだそこまで到らず「誤り」としている言葉も多くあります。その一つが「ひっきりなしに続くさま」という意味で使われる「のべつまくなし」です。
この「のべつまくなし」は、「のべつ『くま』なし」と間違って使われることがあります。「のべつ」は「絶え間なく続く」という意味、「まくなし」は「幕無し」で、「芝居で幕を引かずに演技を続ける」ことから「のべつまくなし」となります。「のべつ『くま』なし」は、掲載する国語辞典がなく、新聞でも使われていないので誤りとしています。
また、文化庁の2021年度「国語に関する世論調査」でも、本来の「のべつまくなし」を使う人は41.9%、音位転換した「のべつくまなし」は27.1%で、本来の「まくなし」が多い結果になりました。ただ、「くまなし」を使う人は全体の3割もいますし、さらに20代以下では「くまなし」のほうが多いのだそうです。
さらに「まくなし」「くまなし」どちらも使わないと回答した人は40代以下で4割を占めました。もしかすると、過ぎゆく歳月が「くまなし」を許容する日がくるかも知れませんし、そもそも「のべつまくなし」を使わない(知らない)人のほうが圧倒的に多数を占める日がくるかも知れません。そんな「ふいんき」がしませんか。
おわりに
この一年ほどの間に印象に残った言葉をいくつかご紹介しました。「正しい」のか「間違っている」のか、使い分けの「線引き」はどこか、こうしたことを求められることは多いです。しかし、明確な「正誤」や「線引き」を示すことはなかなかできません。
そうした中、寄せられる質問・相談に耳を傾けていると、質問・相談している人たちが「あれ?」という「違和感」を覚え、質問・相談しているように感じます。そのため「より違和感がない表現は何だろう」と考えることが、現実的な回答づくりに結びつくことに気づきました。
今更かもしれませんが、この「あれ?」という違和感に敏感になることが、「ことば」たちとの付き合いに必要なのだと改めて自らに言い聞かせながら、質問・相談に応じています。
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