ポストコロナを見据えた経済再生の課題
【コロナ収束後に取り組むべき経済財政の立て直しとは。デジタル・脱炭素分野での投資強化の必要性、賃上げに必要な政策、社会保障・税の一体改革といった論点を専門家が解き明かす】
山田 久((株)日本総合研究所 副理事長)
パンデミック発生から3年目に突入するが、なお新型コロナウイルス感染症の終息はみえない。昨年秋にかけての怒涛のワクチン接種を受け、新規感染者数が激減したのも束の間、驚異的な感染力を持つオミクロン株の登場で、再び先行き不透明感が強まっている。一時的な停滞は避けられないにしても、我々にはワクチンや経口治療薬など様々な武器が揃ってきており、経済活動の見通しは悲観一色ではない。そうした状況下、2022年に取り組むべきはアフター・コロナを見据えた経済財政の立て直しである。
デジタル・脱炭素分野での投資強化
コロナ禍への対応に右往左往することを余儀なくされたこの2年近くの間、世界は大きく変化し、その一方で存置されてきたわが国の構造問題が露呈した。デジタル化と脱炭素化という、ポスト・コロナにおける2大アジェンダで世界に大きな後れをとったことが明らかになった。わが国ではこれら分野での投資が絶対的に不足しており、その促進が成長戦略の最重要課題に位置付けられなければならない。だが、具体的施策は、従来の発想で投資減税や補助金を大胆に実施する、といったものでは有効でない。デジタル化も脱炭素化もプラットフォームに過ぎず、重要なのはそれを前提にどのような経済社会を構築するのかというビジョンである。それが明らかになることによって、情報通信産業やエネルギー産業以外の幅広い産業分野において、多様で裾野の広い投資が行われる。
例えば、デジタル投資の最有望分野の一つとして医療・福祉・教育分野が挙げられ、ビッグデータとAIの有効活用によって、個々のユーザーの事情に応じた付加価値の高いサービスの提供が様々に広がる。その可能性を実現するには、デジタル技術を駆使した医療・福祉・教育の未来の在り方のイメージを官民で共有することが求められる。脱炭素についても、2050年カーボン・ニュートラルの目標達成時点のあるべき姿を描くにあたって、エネルギー供給構造の在り方と自動車・鉄鋼など炭素多消費関連産業の技術革新を中心とした議論から、産業構造・生活様式全体を省エネ型にどう変えていくかといった議論に射程を広げる必要がある。そのうえで、そこに至るまでにいかに産業競争力を維持・強化しつつ構造転換を成功裏に進めるかというトランジションこそが重要になる。産業構造・生活様式全体を省エネ型に転換するという観点からは、個々の経済主体の行動変容を促すカーボン・プライシングの積極活用も望まれる。
つまり、デジタル化も脱炭素化も、幅広い観点から未来のあるべきビジョンを官民が共有する必要があり、政府にはそのための議論の場を設定して方針を決め、そのうえで思い切った投資を促すことが求められる。問題は個別産業のレベルではなく国全体に関わるものであり、そのビジョンづくりの国民会議を設け、様々な機会を設けて国民全体の意識共有を図ることが必要であろう。すでに会議体はいくつか設置されているが、上記の観点から適宜体制の拡充も視野に入れながら、実効性のあるビジョンづくりが望まれる。
賃上げに必要な政策
デジタル化と脱炭素化という産業転換の大きな方向付けの環境整備が行われ、そのもとで民間企業がダイナミックに新たな事業を様々に創出していけば経済成長が促される。そしてこの成長の果実が国民全体に均霑されることで、拡大均衡の経済好循環が生まれる。だが、かつての「企業部門が成長すれば自ずと家計部門にも恩恵が行きわたる」という状況が当たり前でなくなった今、家計所得の増加を政策目標にする必要がある。この点、岸田内閣が取り組もうとしている「成長と分配の好循環」「幅広い人々の所得・給与の増える」経済という大きな方向性は妥当である。問題はそれをどう実現するかであり、なぜ「成長と分配の好循環」が不十分なのか、国民の所得・給与の伸び悩みが続いているのか、その原因を明らかにすることから始めなければならない。
わが国の「時間当たり賃金」は、主要先進国のなかで停滞が顕著であるが、その原因は労働生産性の低迷にあるという、巷間聞かれる言説にはやや誤解がある。2000年以降の時間当たり実質労働生産性伸び率の国際比較を行うと、実はドイツ・フランス・英国といった主要欧州諸国よりもやや高い伸びを示している。時間当たり名目賃金が伸び悩んでいるのはむしろ、①物価の下落・低迷、および②労働分配率の低下、という2つの要因に帰着する。
物価(一般物価)とは経済理論的には貨幣的現象とされるが、ストック化が進んだ経済では、マネーの量が増えてもモノに向かうよりも株や不動産のような資産に向かい、その価格を押し上げる。生産・物流・販売のバリューチェーンの各段階で労働者が働くことを踏まえれば、名目賃金の引き上げにつながる物価の上昇とは、様々な企業間取引段階を包括した物価体系全体が上方にシフトすることを要請する。しかし、わが国では「いいものを安く」を美徳とする経済風土が根強く、納入業者に対するコスト削減圧力が極めて強い商慣行が定着している。この結果、物価体系全体に下方圧力がかかり、賃金を下押しすることになる。
労働分配率の傾向的な低下の基本的背景には、労使間のバーゲニングパワーの変化がある。平成バブル崩壊後の成長率の下方屈折で過大になった人件費の削減が至上命題となり、企業は非正規労働者を増やし、下方硬直性の高い賃金制度の見直し(成果主義の導入)を行った。一方で、企業統治における株主の権利の強まりや海外生産シフトによる雇用減の恐怖もあり、労働組合は賃上げを本気で主張しなくなった。
つまり、経済主体のパワーバランスが崩れ、生産性の向上に応じて要素価格も上がるという、通常の経済原理とは外れたところで取引価格や賃金が決まっている点に問題の所在がある。したがって、政府に求められているのは、税財政政策や価格統制を通じた価格決定への直接的介入ではなく、競争政策による公正な価格決定のための条件整備や、労使のパワーバランスを回復するための間接的な支援の仕組みである。
こうしてみれば、岸田首相の賃上げ政策は中途半端の感が否めない。目玉施策である賃上げ税制の拡充は、そもそも赤字企業は適用外であり、一度引き上げると恒常的なコスト増になる基本給引き上げに、一時的な税額控除がどの程度効果があるかは疑問である。看護・介護・保育等ケア労働者の賃上げに向けて検討会を設置したことは、賃金だけでなく価格も射程に入れた点で興味深い取り組みではある。もっとも、公定価格の引き上げは国民負担増の議論を避けて通ることはできず、財源手当ての議論も無く安易に報酬改定を行うべきではない。労使の代表への賃上げの働きかけも、安倍政権下の政府による企業への直接的な賃上げ要請の再現であれば、その効果は限定的である。賃金決定はあくまで労使自治が基本であり、求められているのは労使のパワーバランスの不均衡を是正することである。具体的には、第三者委員会を設置し、データ・エビデンスに基づく賃上げの適正水準を示し、労働サイドからの弱すぎる賃上げ圧力を補正することである。
なお、わが国の時間当たり実質労働生産性伸び率は主要欧州諸国よりもやや高い伸びを示していると指摘したが、米国やスウェーデンなどの「優等生」には劣っている。さらに、わが国は労働人口減少のもとで成長率を高めていくために、生産性をいまよりも高めていく必要性は変わらない。その意味で、デジタル化・脱炭素化に向けての将来ビジョン・トランジションの道筋を示したうえで、その過程で進行する産業構造・事業構造の転換に企業が主体的に取り組むことを後押しすることが重要である。同時に、それにともなって働き手に求められる新たなスキルの習得や労働移動を円滑に行うことを支援するのも重要な政策課題といえる。
社会保障・税の一体改革Ⅱ
岸田内閣がもう一つ忘れてはならないのは、社会保障・税の一体的な改革である。この問題での最大の欠陥は、財源についての実質的な議論がないことである。「全世代型社会保障構築会議」が設置されたが、受益と負担の関係を明確化し、税原理と社会保険原理を区別した制度に収束していくように、将来ビジョンとそのための段階的な改革の青写真を描く必要がある。
それには増税を含む国民負担の議論は避けて通れない。当面の現実を見れば、まずはコロナ感染第6波を何とか乗り切りつつ、パンデミックで傷んだ経済の再生の鍵を握る賃上げの流れづくりに注力することが必要ではある。社会保障の基本は所得再配分であり、その財源の基盤は賃金であることからしても、社会保障制度の財源安定化の観点からも賃上げに注力することは意味がある。しかし、社会保障への不信から将来不安が強ければ、いくら賃金が増えても経済好循環に必要な消費拡大は覚束ない。それ以上に、社会保障制度への信頼を得ることこそ、国民の政治への信頼を取り戻すために不可欠な作業である。
そのためには、社会保障制度の安定化に不可欠な財源問題を含む「社会保障・税の一体改革Ⅱ」を、超党派で議論していく必要がある。今夏の参院選を控え、選挙になればバラマキ合戦になりがちな昨今の状況を打破するために、「聞く耳」を持つ岸田内閣がこの点に真正面から取り組み、野党と真摯に向き合って、その仕組みづくりに着手することを期待したい。
<執筆者略歴>
山田 久(やまだ・ひさし)
1987年 京都大学経済学部卒業
1987年 (株)住友銀行(現三井住友銀行)入行
1991年 (社)日本経済研究センター出向
1993年 (株)日本総合研究所調査部出向
1998年 同 主任研究員
2003年 法政大学大学院修士課程(経済学)修了
2003年 日本総合研究所 経済研究センター所長
2005年 同 マクロ経済研究センター所長
2007年 同 ビジネス戦略研究センター所長
2011年 同 調査部長/チーフエコノミスト
2015年 京都大学 博士(経済学)
2017年 日本総合研究所 理事
2019年 日本総合研究所 副理事長、現在に至る
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