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「寺内貫太郎一家」が輝いた時代

 【小林亜星さんが亡くなった。小林さんが俳優として大きな存在感を示した「寺内貫太郎一家」、今も多くの人の記憶に残る名作ドラマの内実と「新しさ」に迫る】

小林 竜雄(脚本家)

小林亜星さん、逝去

 5月30日、ドラマやCMの名作曲家と知られた小林亜星が心不全で亡くなった。88歳だった。新聞やテレビのニュースではその死は大きく取り上げられたが、その多くで「北の宿から」や「ピンポンパン体操」などの大ヒット曲とともに、いや、それ以上に俳優として主演した大ヒット作「寺内貫太郎一家」のことが大きく取り上げていたことが目立った。
 「寺内貫太郎一家」は1974年(昭和49年)、TBSで1月から10月まで毎週水曜の〈水曜劇場〉で放映されたもので午後9時から1時間の連続ホームドラマであった。もう47年前のドラマだが、忘れられないものになっているのは凄いことだ。
 この番組の印象が強かったのは貫太郎という東京、谷中で石屋をやっている頑固親父の印象が強烈に残っている視聴者が多かったということだろう。小林亜星扮する貫太郎はイガグリ頭で巨漢、法被に腹巻に地下足袋という姿で異彩を放っていた。この時、亜星は作曲家として知られていたが役者としてはまったくの素人だった。それが堂々とゴールデンタイムの連続ドラマの主役を張ったのでその意外性に世間は大いに驚いたものである。当時、大学生だった私はリアルタイムで第1回から見ていたが、最初は見慣れた役者たちに交じって亜星だけがセリフは聞き取りにくく、動きも鈍く、食べるシーンもセリフとともに唾が飛んでしまうのでまともに見てはいられなかった。しかし、回を重ねるにつれ娘思いの人情家の面が強く描かれてきたので慣れていったものだった。

【引き続き、「向田邦子がイメージしたもの」に続く】

向田邦子がイメージしたもの

 この貫太郎は脚本を担当した向田邦子が自分の父親をイメージして作り上げたものだ。高等小学校卒業の学歴ながら保険会社のお茶汲みから支店長まで上りつめた父親だったが、家では子供のしつけに厳しく向田は恐れつつ育っている。それでも大人になっていくうちに父親の家長としての辛さ、時折見せる男の哀愁も感じ取れるようになっていった。向田は長女で弟と妹がいた。長女としての責任の重さの自覚も父親を理解する手助けとなった。
 頑固親父が似合う職業として考えたのが石屋だった。石は固い、というベタな発想で笑えるところだが、石屋は墓石を扱うので縁起が悪いと評判は悪かった。
 家族は祖母(悠木千帆、現・樹木希林)、夫に従う良妻賢母の母親(加藤治子)、適齢期の長女(梶芽衣子)、浪人の弟(歌手の西城秀樹)となる。この母親も向田は自分の母親のイメージで考えた。

家族それぞれのドラマ

 人気があったのは毎回必ずあった貫太郎と弟が取っ組み合いの喧嘩をするシーンであった。保守的なことをいう父親に弟が「父さんは古すぎる。何もわかってないよッ」と反発し口論になるのが発端となる。親子の断絶を文字通り絵に書いたようなシーンであった。喧嘩もすさまじく、もみ合っているうちに襖は倒れ、貫太郎に飛ばされた弟は障子を破って庭に転がった。これをプロレス中継のような感じで演出するので大いに楽しめた。もっとも亜星も西城も本職の役者ではないので手加減が出来ない時もある。そこで続編のある回では転んだ際に西城は本当に腕を骨折してしまったこともあった。これは今日ならばDVのシーンになるだろう。深刻な物語ならばまだしも、このようなギャグ・シーンにするということはできない。やったら暴力礼賛と糾弾されるだろう。その意味で七〇年代とはまだ大らかな時代だったといえる。
 長女は年上の子持ちの中年男(藤竜也)との秘めた恋をしている。彼女は向田の分身だった。向田も年上の妻子ある恋人と父親に隠れて付き合っていた過去があったからだ。妻がいるか、いないかの違いだけだ。これは向田の死後、実妹の和子が遺品の中に残っていた向田と13歳年上の記録映画のカメラマンとの恋文を公開したことで分かった。
 この長女は足が悪い。貫太郎が気づかぬうちに墓石が長女の足に倒れた事故のせいだった。そのため貫太郎は長女の足を引きずった姿を見ると罪意識にさいなまれることになる。これまでホームドラマは明るく楽しいものと決まっていたので家族の中に身障者を設定するのは暗くなると避けられてきたものだ。しかし、向田はあえてそうした。長女にもハンディを与えて陰影を与えたかったのだ。これも実際の恋人が脳卒中で片足が不自由になったというのがヒントになったのだろう。演じた梶は2年前に映画「女囚701号・さそり」(監督・伊藤俊也)で復讐の女を演じたのでただの娘はやらないと思っていたのでこれは納得できた。
 西城秀樹は郷ひろみ、野口五郎とともに〝新御三家〟の一人で「情熱の嵐」をヒットさせ青春ポップス歌手として人気が出ていた。主要な役に新人や若手歌手を使うのは〈水曜劇場〉枠では五反田の銭湯「松の湯」を舞台とした「時間ですよ」(1970年・昭和45年)の天地真理以来の伝統である。
 この年、74年は前年にオイルショックがあったので経済は低迷していた。だから元気で活きのいいドラマが求められた。そこにうまく嵌まったといえた。それでいてどこか懐かしさも感じさせた。視聴率は30パーセントを超え、「TVガイド」主催のテレビ大賞も受賞し、その年を代表するホームドラマとして輝いた。
 好評だったので翌年には続編「寺内貫太郎一家2」が作られている。

期待されていなかった船出

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 だが、このドラマは最初から祝福されて生まれたものではなかった。「寺内貫太郎一家」は期待された番組ではなかった。当初は大ヒットした「時間ですよ」に続く森光子主演の企画だったものが、森に舞台の予定が入って無理となり急遽、ゼロからの企画でやらざるをえなくなってしまった。森主演は秋に延ばすことになりそれまでの繋ぎ、となったのである。プロデューサーは「時間ですよ」と同じ久世光彦だったが落胆はしなかった。むしろ、この機会を活かしてお仕着せではない自分なりのホームドラマを作ろうとしたのだった。
 貫太郎役も当初は若山富三郎でいくはずだった。だが、若山が賭博事件で出られなくなって代役探しとなった。しかし、土壇場までいい役者が見つからず困った時、久世は仕事仲間の亜星を見て閃いた。ここに貫太郎がいた、と。そこで亜星を口説いた。亜星はド素人だからできないと渋ったが、久世は強引に出演をオッケーさせた。向田も最初、イメージが違うと反対したのだが、久世が亜星に長髪を切らせてイガグリ頭の貫太郎の扮装をさせて見せるとやっと「いいかも」と承諾したものだった。局としても仕方なく亜星の起用を認めたが、勝算はなかった。しかし、結果は大成功となった。悪条件を逆手に取った久世の勝利だった。予定通りに若山が演じていたら重くなってここまでの人気が取れたかは疑問である。

ホームドラマの新しい可能性

 久世は東大の演劇部時代はアヌイなどの古典劇をやっていたオシャレな演劇青年だった。テレビ局に入ったのも3年先輩の大山勝美が代表する本格的な大人のドラマを演出したかったからでホームドラマには興味がなかった。むしろ嫌悪していた。3年目で野心満々で手掛けた一時間ドラマは担当部長から難解と判断されてしまいお蔵にされた上に一時干される。続いて自ら原作者から原作権をもらった念願の柴田翔の長編小説「されど われらが日々―」のドラマ化の企画も2年たっても音沙汰なく3年目に作品が芥川賞受賞作となったので今度こそ成立すると思ったが却下された。理由は告げられなかったが、50年代の学生運動に挫折した若者たちの群像劇は高度成長に向かう日本では受けないと判断されたと考えるしかなかった。
 部長は8時台のホームドラマ「七人の孫」につくことを命じた。久世はADとしてかかわるしかなかったが、主演の森繁久彌の笑いのセンスには参ってしまいあっさり森繁信奉者となる。そこからホームドラマの可能性を考えるようになる。ここで途中から脚本で参加してきた6歳年上の向田邦子と出会う。森繁はラジオの帯ドラマ「森繁の重役読本」(TBS)の台本を担当していた向田の才能を評価して推薦したのだった。しかし、向田はテレビの脚本は初めてだったので森繁の頼みで久世がそのイロハを教えることになる。34歳の向田の脚本の先生は28歳の久世だったのである。
 出会いはまだあった。悠木千帆、後に改名する樹木希林である。悠木はお手伝い役で人気が出る。やはり森繁の芝居に刺激を受けた。この〝森繁学校〟の向田・久世・悠木のトリオは「時間ですよ」にかかわる。ドラマの途中に毎回、銭湯の脱衣所で従業員の堺正章と悠木と新人女優(川口晶や西真澄)がギャグ合戦をやる。ナンセンスな笑いで若者に受けた。今ならばコントであった。また隣に住む天地真理の娘が屋根の上で堺と並んで白いギターを弾きながら「水色の恋」を歌う。これはヒットし〝アイドル・天地真理ブーム〟を巻き起こす。「寺内貫太郎一家」でもお手伝いの浅田美代子は屋根の上で西城の弾くギターに合わせて「しあわせの一番星」を歌う。名物の歌謡シーンである。なお、「しあわせの一番星」は3月には浅田初主演の松竹の映画(監督・山根成之)にもなっている。メディア・ミックスのはしりであった。

邪道とけなされても

 これはバラエティの発想である。正統的なドラマを好む先輩の演出家たちからは邪道とけなされたが久世はまったく気にとめなかった、面白ければいいのだ、と。これが出来たのはホームドラマに思い入れがなく、パターンにとらわれないからできたのである。だから久世は自分のことを〝テレビ界のゲリラ〟と宣言していた。「寺内貫太郎一家」で主人公を父親にしたのも「時間ですよ」のように母親が主人公で当然と思われていたものを変えたかったのだ。中年女性が多く見るから母親を主人公にするという安全パイの発想には組しなかった。
 ドタバタギャグも要所要所で放った。特に悠木千帆の祖母のきん婆さんが自室の壁に貼ってある笑顔の沢田研二のポスターを見て「ジュリーッ」といって身悶えするギャグが大いに受けた。この時、悠木は31歳、勿論、老婆ではない。だから白髪に老けメイク、歯も入れ歯に見せ、割烹着に指だけ出した手袋(悠木のアイデア)と〝フェイク婆さん〟を軽妙に演じてみせた。これは子供たちがよく真似したものだった。
 この時、悠木は自分が晩年、本物の〝婆さん〟となった悠木千帆を改名した樹木希林として「わが母の記」(原田眞人監督。2012年)など多くの映画で演技賞を受賞した大女優になるなんて想像もしてなかっただろう。

懐かしさを感じさせる理由

 だからといってギャグ・コメディにはしていない。これは向田の脚本の力だが、しっかり泣かせるところは泣かせて毎回貫太郎と妻の話で終わってしみじみとした余韻を残した。ホームドラマのスタイルは変えても根本のところは変えていないのである。
 向田と久世と悠木の三人が結集して最も成功した作品であった。これ以後、三人はトリオを組むことはなかった。

 このドラマは〝強い父権〟復活ドラマとして評価する向きがあったが、向田にはその意図はなかった。〝強い父権〟を失った時代にそれへのノスタルジィを描いた、といっていた。70年代半ばにして〝強い父権〟は失墜し〝弱い父権〟となっていたのである。どこか懐かしさを感じたのはそのためだった。それは世紀を超えた令和の今日では、さらに、懐かしさを感じさせるものになっている。

<執筆者略歴>
小林竜雄(こばやし・たつお)
1952年2月12日、東京生まれ。脚本家。
早大卒。1978年、「もっとしなやかに、もっとしたたかに」が第4回城戸賞(準入賞)を受賞し翌年に映画化。主な映画作品に「もう頬づえはつかない」、「ホワイト・ラブ」、テレビは「胸さわぐ苺たち」、「オトコの居場所」(ともにTBS)等多数。去年は「海辺の映画館―キネマの玉手箱」(監督・大林宣彦)の脚本協力をした。
著書に『向田邦子 最後の炎」、『向田邦子 恋のすべて』(ともに中公文庫)。『司馬遼太郎が書いたこと 書けなかったこと』(小学館文庫)など。

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