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「番組コメンテーター」の構造的危うさ〜玉川徹氏の降板劇から考える

【安倍元首相の国葬をめぐる発言で議論を呼んだ玉川氏の降板。その背後にはテレビ業界全体が抱える大きな問題が存在する】

奥村 信幸(武蔵大学教授)

 テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」に出演していた玉川徹氏が、安倍元首相の国葬に関して「当然、これ電通が入ってますからね」などの不正確な発言で、謹慎処分とともに番組のレギュラーコメンテーターを降板した問題で賛否両論が飛び交っています。

 問題の一部は、玉川氏個人のスタンドプレー的な仕事のしかたや、起用し続けた番組の責任者らの判断の甘さにあることは間違いありません。

 しかし、これはテレビ業界全体が抱える、大きな問題の一部ではないでしょうか。長年にわたって生放送に過度に依存した番組づくりを拡大させ、報道番組と情報バラエティの境界がますます曖昧になっていく中で、情報を検証し、正確に伝える仕組みの強化を怠ってきたという構造があったのではないかと思われます。

 (公正を期すためにお断りしておきますと、私は玉川氏と同期にテレビ朝日に入社しました。私は主に報道の部署で仕事をしていましたので、彼の仕事ぶりは仄聞してはきましたが、一緒に仕事をしたことは一度もありません。また、同社を退職以来、一度も個人的に話をしたこともありません。)

ワイドショーの「原点」

 『ワイド・ショーの原点』(新泉社 1987年)という本があります。著者は故・浅田孝彦氏、1964年4月1日にスタートした「木島則夫モーニングショー」の初代プロデューサーだった人です。

 当時、平日朝の時間帯は、「民放の火山灰地」と呼ばれていました。NHKのニュースや連続テレビ小説の圧倒的な視聴率に民放は太刀打ちできず、主に映画、ドラマの再放送で枠を埋めるしかありませんでした。そこに「新たな生放送の帯番組」を立ち上げるという、いわば「業界内ベンチャー」の工夫や努力の記録です。

 スポンサーから要望されたのは、「女性向けの番組を」というものでした。イメージしたのは30歳以上の主婦でした。

 彼らの関心を考えて選ばれた話題は、料理などの生活情報や、芸能人、皇族らセレブのゲストトークなどが主でしたが、その中にはニュースもありました。浅田氏はこんな風に番組のスタンスを説明しています。

 むずかしいテーマや素材を取り上げなければならないときは、どこまでかみくだいて説明すれば理解してもらえるか。素材の選定、それを生かすための演出は、すべてこのレベルからスタートしなくてはならないのだ。(22ページ)

「人間らしさ」を求める

 「わかりやすさ」とともに、浅田氏らが追求したのは「人間らしさ」ということです。台本通りのインタビュー質問(時には答えも決められていたという)、ある結論に持って行くためだけの討論などをやめ、「作りものではない」ものを目指したといいます。生の声を拾うというやり方は、当時、録画が主流だったテレビには革新的なことでした。

 ニュースの切り口も、生活者目線にこだわりました。列車事故では現場ではなく乗っていた人の証言を集め、災害現場ではボロ着などしか送られて来ないことにがっかりする被災者に寄り添おうとしました。

 銀座の宝石店に展示された大きなダイヤの指輪や京都の祇園祭も扱う一方で、ベトナム戦争の取材から帰ったばかりの作家・開高健氏をスタジオに呼びじっくり話を聞いたり、重い話題もしっかりと押さえました。

「ニュースショー」のはじまり

 浅田氏が思い描いた「わかりやすいニュース」の考え方が実現したニュース番組は、それから約20年後、フジテレビの「スーパータイム」(1984年開始)、テレビ朝日の「ニュースステーション」(1985年開始)などで現実のものとなりました。

 私も「ニュースステーション」のスタッフとして、あるいは番組でレポートする記者として仕事をしましたが、「中学2年生にもわかるニュースを目指せ」という言葉を何人もの上司から聞きました。フィリピンのマルコス政権崩壊(1986年)の際、マニラ市内で国軍とデモ隊の動きを大きな模型を使って実況するとか、新しい政党が生まれては消えた時代の日本政界の勢力図を積み木で解説するなど、現在も広く使われている手法の原型がこの頃に生まれました。

 それを「キャスター」や「アンカー」が、従来のニュースよりもアットホームな雰囲気で伝え、お互いに感想などを言い合ったりするような進め方です。

「コメンテーター」の本来の役割とは

 そのニュースに補足の解説をしたり、注目すべき所を指摘したりするような役割の「レギュラー・コメンテーター」として、社会に広く認知された最初の存在は、おそらく「ニュースステーション」の初代コメンテーターの小林一喜(かずよし)氏ではないでしょうか。

 1964年当時、「モーニングショー」の浅田氏らが想定していた番組には「コメンテーター」という役割はありませんでした。ニュースに関係のある人や、その分野に詳しい人をゲストに招き、司会者が自ら質問をして、ニュースとは別のユニークな情報を引き出そうとしていたものだと思われます。

 しかし、ニュースには時に法律などの予備知識がなくては理解しにくいものがあります。弁護士や研究者などにインタビューしたり、ゲストに招いたりすることが常識的に考えられます。

 ある程度テンポ良く、その日に起きた出来事を追っていく夜のニュース番組では、ひとつひとつの項目ごとに専門家のコメントを紹介する時間も労力もかけられませんでした。そこで、記者として取材経験が豊富な新聞記者を起用するアイディアが浮上したものと思われます。

 そもそも、コメンテーターの最も重要な役割とは、解説よりも、ニュースになった出来事について、「本当の問題はどこにあるか」「私たちは何に怒るべきなのか」を教えるという限定的なものではなかったでしょうか。小林氏は、しゃべる時間もそんなに長くはありませんでしたし、かえって「知ったぶりをしない」謙虚な発言で信頼と人気を得ていたと思います。

 ちなみに現在の日本のような、何のニュースにでもひとこと食いつくようなコメンテーターは、私の知る限りアメリカやイギリスのニュース番組には登場しません。

生放送枠の拡大という「麻薬」

 30年以上の間に、コメンテーターの仕事は大きく変わりました。放送というビジネスが劇的に変化したからです。

 インターネット、スマホへのユーザーシフトが急速に進行する過程で、民放テレビの番組制作費は年々削減され、生放送の番組の数が非常に多くなりました。

 制作費を節約しようとすると、ワイドショーや、ニュースを題材にお笑いタレントなども入れたトークバラエティなどが、最も経済効率が良いとは言えます。トークを面白くして時間を消化してくれるゲストさえブッキングできれば、ドラマのように脚本やセットなどの事前の「仕込み」もあまり必要なく、ニュース映像を使うのであれば、カメラを出動させる必要も少なくなります。生放送なら編集作業もカットできます。

 さらに、朝のワイドショーや夕方のニュースの放送時間が年々引き延ばされています。現在、平日夕方の「ニュース番組」の放送枠は3時間にも及びます。「連休に出かけたい紅葉スポット」とか、「秋の味覚、栗を使った新感覚スイーツ」などの「生活情報」という名目のニュースとはかけ離れた項目も散見されます。

コメンテーターの役割の変質

 生放送枠の爆発的な増加は、コメンテーターの役割に大きな変化をもたらしました。放送が長時間に及び、リアクションを取らなければならない項目が多くなりすぎ、実質的なコントロールが施されないまま、コメントさせるような形が、次第に常態化していきました。

 本来は、そのコメンテーターの専門的な知識や能力の範囲内で、解説やリアクションをしてもらうよう、制作スタッフが内容を事前に厳密にチェックして初めて、説得力を持つはずだったものです。

 オリンピックについてコメントするために呼ばれたアスリートが、なぜか幼児虐待死事件についての感想を求められたりしています。弁護士でも、行列ができるラーメン店の話題に上手にリアクションできるような人が高く評価されるような、考えてみれば「異常な事態」が日常化してしまいました。

「バトル」を演出したがる風潮

 生番組でコメンテーターを何人もスタジオに呼び、長時間討論させるような番組の作り方は1990年代から、アメリカのCNNなども導入してきました。「24/7」(1日24時間、週7日休みなし)という態勢でニュースを送り出すとすると、午後の時間帯などで、政治評論家や政党のコンサルタントなどの肩書きを持った「半分当事者で、半分部外者の人たち」が、激しくやり合うさまを生放送し、時折飛び込んで来る要人の記者会見などを織り込むような番組です。

 討論を制御するには、「腕」のある司会者が必要ですが、時に子どものケンカのようになってしまうものを意味のある討論にするのは容易なことではありませんし、そもそも、相手を言い負かすことに長けている人たちを制して順番に発言させるような度胸と能力を持ち合わせた人材が、そんなにたくさん居るわけでもありません。

 筆者が翻訳した『インテリジェンス・ジャーナリズム』 (原題『BLUR』有名なジャーナリズムの基本書『The Elements of Journalism(ジャーナリズムの原則)』を書いた、ビル・コヴァッチとトム・ローゼンスティールがデジタル化が進むニュースの世界でニュースにおける情報検証の重要さを議論した本)の中にも、ベテランのアンカーパーソンたちが、出演者の不正確な情報を元にした主張を見逃したり、時間の制約で片方の一方的な意見だけを取り上げて、次の話題に移行したりする事例が、たくさん紹介されています。

 一方、そのような「ケンカ」は、人の目を引き、話題になり、制作側にとっては「おいしい」とも言えます。政治家に挑発的な質問を敢えてぶつけ、本音を引き出したりするなど、激しいやりとりが全て悪いとはいえません。あるいは、旧統一教会との関係に関して、詳細な調査に後ろ向きな自民党や岸田政権の姿勢については、怒りを表現しなければ深刻さが伝わらないこともあるでしょう。

 しかし、それはあくまで戦略的に準備して使うものであり、アドリブの「お約束」になってはいけません。今の報道、情報番組の中には、話題性や視聴率のために、時に安易な手法を取っているものは少なくはないのではないでしょうか。

 「出演者にケンカ上等おまかせ」番組の体裁では、コメンテーターが「専門外だから言えない」という、当たり前の反応をすることが難しくなっていくのは明白です。敢えて挑発的なことを言って目立ち、表面的でも論争に勝つように装うテクニックを競うような風潮が拡がっていった中に、玉川氏のような存在を評価し、容認するような風潮もあったのではないでしょうか。

「玉川発言」に欠けていたもの

 玉川氏の一連の発言の背景に関しては、元NHK記者でジャーナリストの立岩陽一郎氏の指摘が的を射ていると思います。

 玉川氏の「僕は演出側の人間ですからね、テレビのディレクターをやってきましたから。それはそういうふうに作りますよ、当然ながら。政治的意図がにおわないように、それは制作者としては考えますよ。当然これ、電通が入ってますからね」という発言に関し、以下のように述べています。

仮に玉川氏が穏やかな「話し方」でテレビディレクターとしての視点から国葬への認識を語っていたら、その後の状況は変わっていたようにも思う。それでも反発する人はいるだろうが、少なくとも内容は正確に伝わった気もする。加えて言えば、仮に「話し方」が穏やかであれば、「電通が入っています」といった、確認さえしていない内容を断定的に語る愚を犯すことはなかったようにも思う。

 玉川氏に欠けていたことは主に2つあると思われます。ひとつは、自らの専門的な知識の限界を知り、「自分で責任持って言えること」の境界線を見極めることでした。

 玉川氏は、私が知る限り政治部に所属して、情報源の扱いや発信する際のニュアンスの調整などを経験した形跡はありません。おそらく菅義偉元首相の弔辞がどのようにして執筆されたか、直接の情報源を持たない玉川氏であっても、「テレビディレクターの経験を生かして、人に何かを伝える時にどのような効果をねらって、どのような仕掛けを施すか」という分析に限定してなら、発言は説得力を持つはずです。

 もうひとつは、攻撃的な話し方が彼の「芸風」のように定着してしまっていたことです。ニュースを扱うコメンテーターとしては断定的な言い回しは120%注意しなければなりませんが、その部分に「ワキの甘さ」があったのは否定できません。

「コタツ記事」が作る残念なエコシステム

 最近のスポーツ新聞各紙がネットニュースで展開している、いわゆる「コタツ記事」も、歪んだ制作態勢を後押ししていると言えます。テレビ番組の出演者の発言だけをつまみ食いし「○○が△△を一喝」のような見出しを付けた、よく見る「あの記事」です。

 これがヤフーニュースなどに掲載されると、結構なページビューを稼いでしまうため、刺激的な見出しで発言内容を「盛った」、ジャーナリズムとはほど遠い「記事」が量産され、ソーシャルメディアで拡散されてしまいます。玉川氏もそのようなエコシステムで取り上げられる「常連」のひとりでした。

 そのような形で表面的に注目されたという事実が、「目立てば勝ち」として、テレビ朝日の内外で一定の評価を受けていたのは事実でしょう。

改革の第一歩として

 重要なのは、番組の制作スタッフが、玉川氏の発言の根拠となるエビデンスを探して、代わりに取材をしたりしていたのか、あるいは、表現の内容をチェックし、テレビ朝日が確信を持って伝えられる情報とは、どこまでなのか正確に表現する(例えば「電通が入っている」と、「入っている疑いがある」と、「入っているとも言われている」は全くニュアンスが違う)態勢が、どこまでできていたのかということです。

 玉川氏に発言のフリーハンドを与えていたのであれば、制作態勢としても、社員教育としても大きな問題です。

 報道や情報番組の放送枠は拡がりましたが、それに伴うスタッフの増員は各局とも満足に行われているとは言えません。一見、何事もなく番組が放送されているようでも、このような情報の検証などが不足して「足をすくわれる」リスクは、これからもあるのです。

 番組の信頼を支えるための、情報を正確に検証、評価できる能力を確保するため必要な、スタッフの質と量を見直すのは、報道機関としての信頼性、ブランド力に大きく影響します。コタツ記事でバズるような目立ち方よりも、このような部分に投資するという放送局の経営陣の姿勢も問われています。

 テレビ朝日の玉川氏の問題ではなく、これは全国で放送されている番組で起き得る問題なのです。

<執筆者略歴>
奥村 信幸(おくむら・のぶゆき)
 1964年札幌生まれ、上智大学大学院修了後、1989年テレビ朝日入社、政治部記者や『ニュースステーション』のディレクターなどを務める。2002〜03年米フルブライト奨学金・ジャーナリストプログラムにてジョンズ・ホプキンス大学客員研究員、2005年立命館大学に転じ2012年に教授、2008〜09年ジョージワシントン大学客員研究員、2014年より現職。2018〜19年米フルブライト奨学金・研究員プログラムにてジョージワシントン大学客員研究員。FIJ(ファクトチェック・イニシアチブ)理事としてミス/ディスインフォメーション対策にも取り組む。

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