フェイクニュースをめぐる争いとメディア・リテラシー
見城 武秀(成蹊大学文学部現代社会学科教授)
ロシアのウクライナ侵攻以降、テレビ局や新聞社など報道機関による報道とYouTubeやTwitterなどSNSを通しておこなわれる個人/集団/国家レベルの情報発信が錯綜する中で、メディアが流す情報の真偽性があらためて問われる状況となっている。
本稿ではこの問題について考察するための糸口としてフェイクニュースという言葉の政治利用に焦点を当て、フェイクとファクトをめぐる争いが激しさを増している理由の一端を考察し、また、このような時代を生きる私たちに求められるメディア・リテラシーについても考えてみたい。
フェイクニュースという言葉の政治利用
ロシアのプーチン大統領は4月12日におこなった記者会見で、ウクライナの首都キーウ近郊のブチャにおいてロシア軍が多数の民間人を殺害したという情報はフェイクだと主張した¹。
それに先立つ3月4日には、ロシア軍の活動について当局がフェイクと見なした情報を報じた記者らに最長15年の禁固刑を科す法改正が成立し、ロシア国内外のメディアが報道抑制を余儀なくされた²。ロシア政府がこれらの言葉を、自らにとって都合の悪い情報を否定したり抑制したりするための政治的武器として用いていることは明らかである。
フェイクニュースという言葉が現在使われているような意味で広く認知されるようになったきっかけは2016年のアメリカ大統領選挙だった。
当初、この言葉は「ローマ法王がドナルド・トランプを支持した」、「ヒラリー・クリントンがISISに武器を売っていたことがWikiLeaksで確認された」など、SNSで拡散された偽のニュースを指して用いられていたが³、直にトランプはこの言葉を、CNNやニューヨーク・タイムズなど、自分に対して批判的なメディア企業や報道を非難するために使うようになっていった⁴。
トランプ大統領誕生以降、為政者が自分にとって都合の悪い報道を否定し、貶めるために、さらには批判的報道機関やジャーナリストを牽制し、検閲や情報へのアクセス制限を正当化するためにフェイクやフェイクニュースという言葉を用いるのは世界的潮流となっている⁵。
事実をめぐる争い
報道機関やジャーナリストから見れば、自分たちはファクト=事実を報じているのであり、それを否定する発言こそがフェイクなのだから、ファクトがフェイクの汚名を着せられ、フェイクがファクトを自称するという倒錯した状況が生まれていることになる。一体なぜこのような嘘や強弁がまかり通るのだろうか。
その理由として、SNSの普及に象徴されるメディア環境の変化や政治的分極化の進行⁶、世界的に広がるマスメディア不信⁷、情報の真偽を問わずページビューを稼げれば情報発信者やデジタルプラットフォーム事業者に収入がもたらされるインターネット広告の収益構造⁸といった要因を指摘することはできる。
しかしながら、ここで注目したいのは、事実を無視してフェイクニュースという言葉を濫用している者たちもまた、事実がもつ価値を認めているということである。だからこそ、自らの主張が嘘だと知っている者さえ、事実を述べているのは自分であると強弁する。
このような事実の価値を支えているのは、事実は一つであって誰もが同じように認識するはずであり、中立的であるという暗黙の前提であろう。
だが、この前提は自明だろうか。もしこの前提が自明でないとすれば、私たちは事実の価値を過大視し、その過大視が事実をめぐる争いを激しくしているともいえないだろうか。
事実の中立性をめぐる問題
この問題について多くの示唆をあたえてくれるのが、史上初の総力戦、史上初の社会主義革命、史上最悪のインフルエンザ流行後の混乱の中で1922年に出版されたアメリカのジャーナリスト、ウォルター・リップマンの主著『世論』⁹である。
第一次世界大戦中にウィルソン政権下で情報戦略を担当し、「14箇条の平和原則」の起草にも関わったリップマンは本書において、政府の情報操作がもたらした政治的・外交的帰結への幻滅や、政府によって操作されてしまった民主主義社会への疑念や失望を、複雑さの度合いを増す社会における人間の認識や民主主義、そしてジャーナリズムのあり方をめぐる考察へと昇華させた。
その議論は100年経った現在でも決して精彩を失っていない。以下ではリップマンの議論を参考にしながら、事実の中立性という前提がもつ問題点を(1)情報環境に内在する偏り、(2)情報の認知における偏り、(3)事実に対するステレオタイプの優越という3つの観点から論じてみたい。
情報環境に内在する偏り
リップマンによれば、私たちが自らを取り巻く複雑な環境に対応するためには、認識上のフィルター=ステレオタイプを通して事実を自分の理解可能なモデルに当てはめ、再構成する必要がある。私たちの意見は実際の環境に基づくものではなく、こうして作られた「疑似環境」の中で形成されたものであり、世論もそこから形成されていくというのだ。
疑似環境をめぐるリップマンの議論は、現在の情報技術との関連において新たな意味を帯びつつある。インターネット上での検索履歴や商品の購入履歴、友人関係などをもとに、GoogleやAmazon、Facebookなどの情報企業は利用者一人ひとりに合わせた情報のフィルターを作成し、利用者が関心をもちそうな情報を優先的に見せるようになっている。こうしたフィルターを通して作られる自分の好みに合った心地よい要素だけで構成された情報世界を、イーライ・パリサーはフィルターバブルと呼ぶ¹⁰。
フィルターバブルは編集された事実によって構成されているという意味において疑似環境であるが、フィルターによってどのような事実が排除されたかを知り得ないという点で、その外側に意識的に出ようとしない限り、覆される可能性がほとんどない疑似環境である。
その一方で、膨大な情報の海の中から自分にとって価値のある情報を個人の努力によって見つけ出すことが不可能である以上、私たちは情報企業が提供するフィルターによる「偏り」が内在化された情報環境を生きざるを得ない。
情報の認知における偏り
リップマンは、私たちは「見てから定義しないで、定義してから見る」¹¹といい、人は混沌とした環境の中から、自分が属する文化が形成したステレオタイプに合致した事実を拾い上げ、記憶し、そうでない事実は無視し、忘れがちだという。人間は自分を取り巻く世界や事実をそのまま認識する訳ではないという指摘はその後、多数の経験的研究によって裏づけられている¹²。
これらの知見は、「事実は一つであって誰もが同じように認識するはずであり、中立的である」という前提を大きく揺るがす。私たちを取り巻く情報環境には偏りが内在化されていることも考慮すれば、この前提はさらに危うい。
事実に対するステレオタイプの優越
リップマンによれば、ステレオタイプは私たちが人間や世界や歴史について説明し、判断するための規範として機能する。この規範は事実に基づいて作られる訳ではなく、むしろ私たちは規範に合わせて事実を認識する。そのため、私たちが抱く人間像や世界像、歴史像は常に事実によって裏づけられているように見える。
このような状況下で、人間や世界や歴史について異なる見解をもつ者たちを「同一の現実を見ているのだが別の側面に着眼しているだけ」¹³と解釈することは自分たちの規範に対する確信の土台を揺るがすことになる。
他方、相手を誤った存在、悪意のある存在、陰謀を企てている存在と見なせば、ステレオタイプの中に取り込むことが容易になり、はるかに理解しやすくなるのである。
フェイクニュースの時代のメディア・リテラシー
「事実の中立性」という前提の見直しを強く迫るリップマンの議論は、あまりに悲観的過ぎるだろうか。とはいえ、リップマンは事実など存在しないと言っている訳でも、事実に価値がないと言っている訳でもない。
実際、リップマンは『世論』や同時期に著した『自由とニュース』において、ジャーナリズムが事実を伝えるという責任を果たすためにはどのような制度や仕組みが必要かを考察し、具体的な提案をおこなっている。
リップマンにとって、「事実の中立性」は事実自体に備わった性質ではなく、ジャーナリストや報道機関が目指すべき、しかし決して完全な形では実現されることのない理念だったのである。
不正確な誤情報や意図的に流される偽情報でメディア環境が広範に「汚染」される中で、メディアの特性を知り、情報と主体的・批判的に付き合う能力=メディア・リテラシーの重要性を説くことは情報の受け手の自己責任論を増長させるという指摘や¹⁴、汚染された情報環境の中では批判的思考がかえって誤情報や偽情報を信じてしまう危険性を高めるという議論もある¹⁵。
いずれももっともであるが、メディア・リテラシーに関するこれまでの議論が暗黙の内に依拠してきた「事実の中立性」という前提をいったん取り払うことで、メディア・リテラシーをめぐる議論を新たな方向に開くこともできるはずだ。
たとえていうならそれは、「自分が色付き眼鏡をかけていることに気づき、その眼鏡を外すことが目標となるゲーム」から、「全員がさまざまな色付き眼鏡をかけている中で、自分が何色の眼鏡をかけているかを当てるゲーム」への転換である。
新しいゲームにおいて、「自分は色付き眼鏡をかけていない」と考えることは許されない。だとすれば私たちは、他人がどのような色の眼鏡をかけているかを観察、分析するとともに、他人から見て自分や周囲の人間がどのような色の眼鏡をかけているように見えるのか、積極的に尋ねていく必要があるだろう。
玉石混淆の情報が氾濫する現代社会において重要なのは、「正しい情報を見抜く力」よりも、「メディアは何を『正しい情報』として伝えようとしているのか。それはいかなる方法によってか、またなぜか」と問い続けることであり、事実の見方が立場によって異なることを出発点に、さまざまな事実の見方をすり合わせ、自分なりの、しかし暫定的な事実の見方を模索し続けることではないだろうか。
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