憲法から考えるルッキズム
新井誠(広島大学教授)
「ルッキズム」とは何か?
昨今、「ルッキズム」という言葉が、日本においても、メディアやSNSを通じて急速に知られるようになってきている。
ルッキズムとは、一般的に、人の外見を過度に重視して物事を決める態度(外見至上主義)のことを指す。また、これが極端なものになってくれば外見差別になる。「外見」といっても、その中身はいくつかの要素から成り立っている。古くからある人種や民族的特徴から生じる差別問題もその一環といえる。
もっとも、近年取りざたされるルッキズムは、痩せている、太っているといった身体的特徴から判断されるものの他、顔の美醜にかかわるものが中心であるように感じられる。
ルッキズム登場の現代的背景
外見に対する人々の評価は、今に始まったわけではない。では、近年、この言葉が登場してきた背景にはどのような社会的要因があるだろうか。
それはひとつには、SNSなどの発達によって人々が自分自身の外見を含む情報をネットなどに広く公開することが日常化した過剰な可視化社会の登場により、見る側の評価に応える形で、よりきれいに、よりかっこよく、自分自身を見せようとする人々の欲求が高まっていることがあるだろう。
これにより人々は、内面や技能よりもまず、その外見の良し悪しで様々な判断をされてくることとなる。
他方で、近年では、人々の生き方に関する多様性の尊重や公正性の実現という視点から、社会に存するあらゆる「不合理な」差異取り扱いについて発見し、それを批判的に検証しようとする傾向が見られる状況になってきている。
そのような時代背景のもと、ルックスによる差異取り扱いも、単なる嗜好の問題ではなく、差別の問題へと昇華すべきであるといった社会的要請が徐々に見られるようになっている。容姿を理由とする差異取り扱いにつき、ルッキズムという批判的意味合いを含意する言葉で示すようになり、それが広まりつつあるひとつの要因であるといえる。
ルッキズムと性差
ルッキズムをめぐっては、これまで女性の容姿を中心として触れられる場合が多く見られてきた。近々でも、男性政治家による女性政治家の外見に関する不用意な発言が話題となったりしている。実際に、女性のほうが男性に比べ、よりルッキズムの弊害を受けているという評価もある。
たとえば、労働者の募集採用において女性のみに「容姿端麗」などといった条件を課したりするような事態も、従前、見られたところである。また、国がかつて労働災害補償などにおいて女性の顔の傷(外貌醜状)に対する補償金額を男性に比べて高くしてきたようなことも、女性に対するルッキズムを助長するものであり、非常に問題があった(現在こうした差異はなくなり、性差に関係のない基準が導入されている)。
もっとも、近時のルッキズムは、かならずしも女性の外見に関して特に生じている問題ではないように感じられる。このところ、女性に対するルッキズム的発言(「かわいい」とか「美人ではない」といったもの)が問題視されることが多いことの反動からか、逆に男性に対するルッキズム的発言は許容される風潮はないであろうか。
私自身は、近年では「イケメン〇〇」といった表現が、メディアなどを通じて過剰に語られることが多くなっているように感じており、ルッキズムをめぐる問題は、性差によらず共通して起きているように思う。
ルッキズムの問題点
では、ルッキズムには、そもそもいかなる問題が潜んでいるのだろうか。それは、人々の評価は、本来であれば多面的に判断されたり、特定の技能が必要な場面であればそれに特化した評価が求められたりすべきところ、外見の評価が必要以上に過大なものとなることで、本来であれば判断対象とされるべき評価軸が捨象されてしまう点にある。
そして、顔や体の美醜が一義的評価対象となり、全体として歪んだ判断基準となってしまうことが考えられる。容姿は、時に本人の努力だけではどうしようもならないものとなる場合があることからも固定的な差別指標につながる可能性は高く、そうした点からの問題視もできる。
ルッキズムと憲法
「外見差別」と称されるルッキズムを憲法的にどのように評価するのか。憲法に定める平等原則は、一般的に合理的な差異取り扱いは許容するものの、それが不合理なものであれば、それは「差別」として許されなくなる。
また、憲法は、もともと国家による人権制限を統制する規範であるものの、憲法に定める諸価値は、民法その他の法律を通じて私人間に生じる法的問題にも適用されるという考え方が一般的であり、私人間における差別問題をめぐっても憲法学で語ることができる。
さらに、憲法14条1項には、「人種」の他には外形的特徴からの差別となる文言は用意されていないものの、同項には歴史的に差別をされやすかった指標が代表的に列挙されるにすぎず、「外見」という文言がなくても不合理な差別に該当すれば、これを法的問題と評価することができる。こうしたことからもルッキズムを憲法学上の論点に取り込むことは可能である。
顔の美醜をめぐる法的評価の難しさ
しかし、深刻なのは、この問題を憲法学のなかに取り込んだとしても、そもそも外見を理由とした人々の差異取り扱いが不合理に行われていることを、どのような視点や基準で法的に判断できるのかということにある。
外見、とりわけ顔の美醜をめぐっては、一般的に、綺麗だとかハンサムだといった評価が最大公約数的に行われることはあるが、傷や体格などの客観的指標に比べると、各人の、きわめて主観的判断とならざるをえない。
結局のところ、顔を理由とした差別的判断をしていることを立証するためには、特定の技能を有していることを基準に選考を行うべきところを、そうではなくあえて顔の美醜で判断することを明示する文章などが存在するような場面に限られてしまう。しかし、法令遵守の厳しい現代の社会で、(かつて見られたような、女性に対する「容姿端麗」といった条件を含めて)そのようなあからさまな差別基準を用意する企業など、にわかに想像できない。
他方で、結果的に選考された者を見たときに採用側が顔を基準に選んでいるかもしれないという推測ができたとしても、かような明示的基準がないなかでは、採用側が「顔で選んだ」などと明言することは決してなく、「総合的に選んだ」というのがオチである。そこに外見差別があったと断定するには、裁判所が美醜をめぐる一般基準を探す旅に出なければならない可能性があり、相当程度の困難を極めよう。
そうなると、そうした差別を促進しないための外科的な制度構築をする他ないのではないか。たとえば、アメリカなどでは、雇用にあたって、従業員などの募集時に、顔写真付きの履歴書などを要求すること自体が法的に統制されているようである。かような法制度の構築の可能性を日本においても検討すべき時代が来ているのかもしれない。
外見の評価はしてはいけないのか?
他方で、そもそも外見の評価は、あらゆる場面で、してはならないのだろうかという問題は残る。かような問題提起を憲法的な議論に引き付ければ、次のようなこととの対抗関係が生じる。
まず、顔に関する美醜をめぐっては、その容姿を持つ本人が美しくありたい、あるいは美しいと評価されたいと思い、様々な努力をすることはどうか。また、評価する側も、容姿が好みの芸能人をひいきしたり、パートナー選択において容姿を重視したりすることはどうか。これらのことは、各人の私生活上の自由として、憲法13条で保障される幸福追求権に関わる問題になりうる。
また、外見にまつわる話題が、あからさまなハラスメントやジェンダー差別などの視点からなされていることになれば、それを戒めることが必要となる。しかし、外見の評価をめぐるあらゆる発言を一律に断罪することになれば、他方でそれは、人々の表現の自由を過度に制約することになる可能性があることにも注意しなければならない(近年、アメリカなどでは、様々な視点から政治的に正しくない「不適切」な発言とされるものを社会的に断罪し、そうした発言あるいは発言者をボイコットする「キャンセル・カルチャー」という現象が見られるが、こうしたことをどのように評価すべきかが現代の憲法学にとっての重要な試金石となってきているなかで、ルッキズムも議論の対象となろう)。
ルッキズムをめぐる憲法学上の固有の課題があるとすれば、人々の間での多様性や公正性の確保は現代の社会において非常に重要な課題であることは当然であるものの、人々の私生活上の諸自由が必要以上に制限をされ人々が過度に委縮する社会にならないよう、必要なバランスを確保していくためにどのようなことを論じていくべきか、ということにつきる。
そこで、より踏み込んでこの問題を憲法学的見地から考えるならば、外見の評価をすること自体がすべて差別的行為であるとするのではなく、外見の評価をすることに伴って生じる、本来的には受けるべきではない不当な評価がある場面においてこれを不当な差別としてとらえていくこと、そして、かようなことが差別にあたる可能性が生じるのだと人々が自覚を持つことこそが、当面の課題だと現時点では思うに至っている。
ルッキズムと映像メディア
ところで、このことを考えるにあたっては、特に映像メディアに関わる人々に期待したいことがある。
映像メディアは、人々の視覚に訴えかける特質を持っていることから、番組などに登場するメンバーをどのようにするのかということについて、容姿をも含めた判断がなされる場面があると推察する(実際に、俳優などについては、その業態の特性から容姿を理由とした選考はやむを得ない場合があるとして法的に許容されている部分もあろう)。
近年では、さまざまなコンプライアンス遵守により、かつてよりも、明らかに外見(のみ)を重視したと思われる人選が行われている状況は減ってきているのかもしれない。
ただし、本来的には外見とは直接的には関係のない業務を遂行する出演者につき、もしかしたら外見の良し悪しを優先して選んでいるのではないかという疑念を視聴者に持たせるような事態が現在でも生じることはないか(たとえば、何らかの専門知を前提とするコメンテータなどは、ときに専門知よりもなお容姿が重視されて採用されている傾向が幾分あったりするのではないかと、個人的には一視聴者として感じるときがある)。
そうであるとすれば、こうしたことに改めて思いを寄せる必要はないか。現在でも人々に対する影響力が多大であるがゆえに、映像メディアには、理不尽なルッキズムが生じていないかといったことをしっかりと受け止めた番組制作を期待したい。
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