日本の賃金決定をめぐる法構造的特殊性
【長期にわたり低迷の続く日本の賃金。その背景にある日本の特殊性をひもとき、よりよい「分配」を実現するための打開策を提案する】
神吉知郁子(東京大学大学院法学政治学研究科准教授)
賃金決定における他律性と自律性
日本の実質賃金はここ20年、低迷している。具体的な打開策を考える前提として、賃金を一次分配とみた場合に、契約条件たる賃金の特殊性を確認しておきたい。日本の労働契約のもつ他律性と(部分的)自律性に着目すると、賃金上昇に対する重石がみえてくる。
法律論的にはまず、他律性を生じる原因として、日本独特の就業規則法理が挙げられる。そもそも市民法原理による契約のあり方は、当事者同士が話し合い、合意して契約条件の決定に至るというものである。使用者と労働者との交渉力の圧倒的格差を考慮して、ほとんどの国では最低労働基準が法定されているが、これを上回る部分については依然として労使交渉で決めるのが原則である。
ドイツやフランスでは、産業別労使団体が職務・資格と賃金とを対応させた労働協約を締結し、それが非組合員にも拡張適用される仕組みが機能してきた。つまり、産業横断的に仕事に対する賃金水準の適正さが事前に協議されている状況にある。
これに対して、アメリカやイギリスでは、事業場を代表する労働組合が締結している労働協約の適用がなければ、基本的には個別に賃金が決まる。もっとも、仕事の内容とそれに対する賃金の対応関係が明確で、同じ仕事をしている限り賃金は変わらない。
この点、日本では使用者が就業規則(賃金規程)を作成して労基署に届け出、周知していた場合には、その内容が「合理的」であれば契約条件となる。この就業規則法理上、合理性の有無の判断には経営側の裁量が広く認められ、長期にわたる人事制度・職能資格制度の運用との対応関係なども含めた賃金体系の決定に関して、会社に圧倒的なイニシアティブがある。そして、賃金水準は企業ごとの違いが大きく、従事している職務よりも、入社した会社の規模などに左右される。入社後のキャリアや賃金の展開も会社次第となる部分が大きい。
働き手が契約の入口で賃金決定に限定的にしか関与できないなら、雇用関係が展開していくなかで、賃金の適正さを定期的に見直すことが必要になる。その最大の機会がいわゆる春闘であるが、日本の労働組合のほとんどは、企業別に組織された正社員中心の組織である。産業ごとや全国レベルの連合体も、活動の中心は単組である。その活動や目的は構成員の利益の最大化に向けられるため、職務と賃金の対応関係が産業横断的に検討されることがあまりない。
実際に、日本型雇用慣行の1つに挙げられる年功処遇制度は、勤続年数に従って向上する職務遂行能力に応じた賃金上昇という体裁をとりつつも、実際には稼ぎ主が家族を養える生活給を理想とする賃金体系である。これが労働組合の強い要求で実現した経緯に鑑みれば、労働者の自律性が反映されたものと評価できる反面、扶養家族をもたない働き手をそこから排除する理屈にもなった。
最初の非正規類型は高度経済成長期以降に一般化した主婦パートであるが、扶養内で働く家計補助者という前提で賃金相場は低く形成され、生活給の考え方とは断絶した非正規全般の賃金体系として定着していった。
つまり、契約の展開においても、自律性が機能する部分は限定的である。労働組合の組織率が低下し、未組織の非正規労働者が増加するなか、もともと部分的であった自律性はさらに縮小し、賃金決定の他律性は高まる一方である。
つまり、構造的に、労働者の望む賃金上昇が自然におこることはまずない。高賃金を提示しなければ人手不足が解消できないといったような状況が後押しになるにしても、生産性さえ上がれば自動的に分配が実現するとは考えにくい。
「同一労働同一賃金」とは
労働法体系は最低基準を上回る賃金決定を労使自治に委ねている以上、自律的に上がらない賃金をどうにかして上げなければならないという規範をもたない。もっとも、雇用形態にもとづく待遇格差を解消して多様な働き方を可能とするため、いわゆる「同一労働同一賃金」というスローガンの下、同一企業に雇用される正社員と非正規労働者との間の不合理な労働条件格差禁止規制が導入された(全面施行は2021年4月)。
しかしこれは、職務評価に基づいて賃金を決定することを求める法規範ではない。あくまでも当該企業における長期的な視点にもとづく人材活用システムなど、幅広い裁量を考慮しながら不合理性が判断されるので、たとえば正社員の年功処遇的職能給制度に無条件に修正を迫るものではない。
不合理な労働条件格差禁止規制の最大の意義は、その導入を契機に、趣旨があいまいな処遇格差が当事者の手によって棚卸しされ、再吟味されたことにあるといえよう。実際に訴訟となる前に協議がすすみ、自発的に是正に至った例も多い。そうした意味では、この不合理な労働条件格差禁止法理は自律性の回復の試みでもあった。
その反面、訴訟をうけて、正社員側の手当廃止が労使交渉の俎上に載ることもある。それでも「格差」は是正されるので、それが労使で合意されたものとなると、法的介入は難しくなる。
よりよい一次分配を実現するためには
政府の目指すように、コロナ後に「分配を成長につなげる」には、分配を実現する具体策が問われる。既存の労働組合が働く人を幅広く取り込んでいくことが1つの方法だとして、そこでカバーされない働き手への目配りも必要となる。
そもそも、労働組合活動には、費用も時間もかかる。経済的・時間的・精神的余裕のない人には、組合活動をする余力がない。高い賃金を得るためのスキルアップ、能力開発の必要性も提唱されている。しかし、非正規が選択される理由の多くは、「能力不足」ではない。主な理由にあがるのは、病気や子育て、介護などによる働き方の制約である。そうした制約をもつ人に、さらに自力で改善活動を求めても、有効に機能しないであろう。
コロナ禍で明らかになったように、生活維持に不可欠なサービスが当たり前に提供されることは、当たり前ではない。高付加価値の仕事への移行を必ずしも前提としない、基本的な職務遂行を適正に評価できる仕組みが必要である。ここでは、制度的な対応として3点を提案したい。
第一に、賃金など重要な労働条件の設定や見直しについては、労使で協議したうえで行うようにする、いわゆる労使協議制・従業員代表制を、既存の過半数代表制を拡充しながら制度化する方向である。
組合員だけでない多様な働き手を代表し、社内の制度として費用の労働者負担を抑えつつ、自律性を直接的に補完する仕組みとする。格差是正には制度の透明性が不可欠であることから、協議の前提として労使が情報を共有し、格差や評価を可視化して議論の俎上に載せること自体に意義がある。もっとも、これについては、自主性を基調とする組合活動との調整が課題となる。
第二に、最低賃金の引き上げである。地域別最低賃金は、非正規の賃金相場決定に大きく影響している。諸外国の経験からも、最賃引き上げがもたらす賃金格差の縮小効果は明らかである。
賃金の下支えとしての重要な役割を意識しながら、労働市場の動向を的確に把握し、公正で実効性ある最低基準を設定していくことが求められる。設定の場面だけでなく、事後的な効果検証の仕組みや、履行確保の強化も必要となる。
第三に、現役世代への社会保障の拡充である。賃金引き上げを考えるにあたって逆説的に聞こえるかもしれないが、生活基盤が賃金に偏りすぎない再分配がなされてこそ、純粋に仕事と賃金の対応関係を突き詰めることが可能になる。
従来、正社員に中高年期の賃金上昇や住宅手当・扶養手当が支払われてきたのは、賃金で扶養家族を含めた生活を支える必要性が前提となっていたからである。それは、日本は現役世代に対する社会保障支出が非常に少ない国であることと表裏一体でもある。極端にいえば、働けるうちは賃金、働けなくなったら丸ごと社会保障(生活保護)という二者択一であった。
それがライフサイクルの個別のニーズに対応できる段階的なセーフティーネットに変わっていけば、とくに住宅や高等教育費用といった大きな家計負担への懸念が減れば、扶養家族の有無にかかわらず、一時的な失業や賃金低下のリスクにとらわれず、労働条件の改善に声を上げたり他の適職を模索することが容易になる。
また、無限定な働き方を強いられる正社員の地位や長時間労働に固執しなくても良くなる。賃金引上げの目的が働き手の持続的な生活保障にあるなら、その視点から、賃金という一次分配と社会保障という再分配とのバランスを見直す必要があるだろう。現役世代の生活保障は、社会を支える将来世代を育むためにも不可欠な、喫緊の課題である。
<執筆者略歴>
神吉知郁子(かんき・ちかこ)
2003年 東京大学法学部卒業
2008年 日本学術振興会特別研究員(東京大学)
2010年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)
2011年 東京大学大学院法学政治学研究科GCOE特任研究員
2012年 ブリティッシュコロンビア大学法学部客員研究員
2013年 立教大学法学部准教授
2020年 東京大学大学院法学政治学研究科准教授
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