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〈ラジオ 長寿番組の研究②〉 信越放送「武田徹のつれづれ散歩道」

【全国のラジオ局には魅力あふれる長寿番組が多く存在する。第2回は独自の路線を貫き続け、今年で36年目を迎える信越放送の生ワイド番組。パーソナリティご自身に文章をお寄せ頂いた】

武田徹(信越放送パーソナリティ)

 武田徹さんの原稿を紹介する前に、編集部より『武田徹のつれづれ散歩道』(毎週土曜日午前8時から11時の生放送)がどういう番組なのか簡単に説明させていただきたい。長年かけて作り上げられてきた番組だけあって、構成がしっかりしており、それぞれのコーナーの内容が濃い。各コーナーの説明はSBCのホームページに譲るが、番組は武田さんが一人で3時間を仕切り、地元で活躍するスペシャリストや起業家を呼んで展開していく。

 2月3週目を例にとると、ジビエ起業家との対談では猪や鹿のおいしい食べ方について話がはずみ、食の在り方を考えさせられた。息の合ったレギュラー出演者の樹木医との対談ではコロナ禍では手の消毒や殺菌、抗菌への関心が高まっているが、土の中にいる細菌についていえば悪いだけの存在ではなく大切にしないと良い作物が育たないのだという話に感心させられた。

 こうしたゲストとの対談を柱としながらも、武田さん自らがハーモニカを演奏するコーナーでは音色の美しさが印象的だし、歴史や朗読コーナーが散りばめられるなど、魅力的なコーナーが盛りだくさんだ。全般にテーマの切り口に新しさが感じられるだけでなく、随所に武田さんが蓄積されてきた知見や経験、地元長野へのこだわりが滲みでている。長寿番組の秘訣がこの辺りにあるように感じた。

バブル景気と対極の番組目指し誕生 

 この番組がスタートしたのは、昭和63年(1988年)10月である。今年10月で36年目を迎えることになる。

 「週末の土曜日の午前、つれづれなるままに散歩道を楽しむような気分で、三時間お付き合いください」以上の文言を、冒頭当日のメニューを紹介した後に付け加え番組が始まる。午前8時から11時までの生放送だ。

 昭和60年代の日本は、未曾有の好景気で沸きに沸いていた。世の中はバブル経済と言われるほど金余り企業も多く、アメリカなどの不動産を買いまくり、国内ではリゾート地が次々と開発され、超多忙なサラリーマンまでもがゴルフ熱に浮かされていた。システム・ノートなるものが登場、向こう一年の予定がビッシリ書かれていることがステータス・シンボルのように誰もが思い、尻に火が付けられたようにセカセカと動き回り、どことなく浮足立った忙しさの中を人々は小走りに生きている時代だった。

 生来、天邪鬼きぶんを持った自分は、ならばその世相とは対極の番組を作ろうと考えた。多くのワイド生放送は、娯楽中心で、東京の有名タレントを呼び、リクエストされた歌謡曲で時間を持たせ、金にものをいわせてクイズで景品をプレゼントするというパターンがほとんどであった。

 ならば新番組は、じっくりと腰をすえ、自然に恵まれた信州の折々の四季を意識しながら、知名度はないがそれぞれの分野で活躍している長野県在住の人たちをレギュラー出演者に起用し、長野県独自の視点を持って情報を発信したらおもしろいのではないか。

 県内各地でカルチャー講座もオープンし始め、生涯学習などのキャンペーンも行われ始めていた。新番組を通して県内独自のカルチャースターが生まれたら、実に愉快ではないか。番組出身のカルチャースターが講師を務めるようになったら、それこそ万歳ものだ。

 教養番組といえばとかく堅苦しいものが多いが、この番組は楽しく、おもしろく、親しみやすさを最重要に考え人選をすることにした。…とここまで書いたが、多くのワイド番組のパーソナリティーはアナウンサー出身者が多いが、実は私は、報道部から制作部に移り、しゃべりも担当するようになったという、根っからの番組制作男なのである。

 私の番組意図を理解してしゃべってくれるアナウンサーが、たまたま局にいなかったため自分でしゃべるようになった次第なのである。であるから、番組の企画内容も、自分が興味あるもの、やりたいものをとことん考える。番組のタイトルからコーナータイトルはもちろん、そのテーマ音楽から、レギュラー・メンバーの人選、ゲストの人選から交渉まで、ディレクターがすべき仕事もすべて自分でやっている。実にわがままな番組なのである。それには深い事情があった。

上司と大喧嘩、孤立状態でスタート

 すでに記したが、あの当時のワイド番組は聴取者からの便りを紹介しながら、リクエスト曲を何曲もかけ、クイズやタレントのしゃべりで構成されたものが多かった。が、この番組は県内ばかりでなく、国外へも足を伸ばし取材、それらを編集してレポートするほか、文学、環境問題、音楽、書道など、その分野の専門家をレギュラー陣として迎え、教科書的ではなく、肩の凝らない楽しいトークで綴るユニークな番組にしたかった。

 となると、取材も自分1人でやり、編集もし、レポートもした方が動きやすく経費も安く済む。レギュラー陣とのトークにしろ、必ずしもアナさんが、私のやりたい分野に興味を持っているとは限らない。三時間ものワイド番組、質問事項を台本なぞにしていたら、それこそ他の取材に手が回らない。

 という訳で、自分がしゃべった方が、何かと事はスムーズに運ぶと主張した。ところが上司はどうしてもアナウンサーを起用せよと宣う。しかも、たまたま放送日である土曜日に空いているアナさんを起用するという。この番組は誰がやっても可能というようなサラリーマン的なものでないと意地を通し続けた。結果、上司から最後通牒を厳しい口調で言い渡された。

 「君のしゃべる番組には、ディレクターとしての社員は、金輪際絶対につけないからな。そのつもりで勝手にやるがいい!」

 かくして、生放送時のエンジニアは別として、すべて1人で三時間の生ワイド番組をこなすことになったのである。生放送にはディレクター役は必要なので、全く素人だが放送に興味のあるK君をハンティング、アドバイスをしながらのスタートとなった。外部ディレクター起用第一号番組とあいなったのである。

 タイトルは「つれづれ散歩道」とした。高校生時代に学んだ「徒然草」の序文、「つれづれなるままに日くらし…、おっこれだ!」と思った。「つれづれなるままに」とは所在なさに任せて」という意味だ。

 当時は今と違って、散歩をのんびり、あるいは運動としてやっているひとはほとんどいなかった。そこで、散歩を楽しむ余裕を持ちましょうよ、という意味を込め「つれづれ」と「散歩道」を合体し「つれづれ散歩道」とした。

 なにしろ私たち団塊世代が働き盛りの40代になったばかり、週末ぐらいはつれづれなるままに、季節の移り変わりを愛でながら、散歩道を楽しむような気分で、ゆったりと番組を聴いてほしい、そんな願いを込めたのである。

 皮肉なことに番組スタート直後にバブル経済がはじけて、多くの長野県民も番組の狙い通り、足元を見つめながらの生活に戻らざるを得なくなった。

 時代は、平成に変わり、環境問題にようやく関心が向き出した。長野県は水源県で、千曲川、姫川、天竜川などすべての河川は源流である長野県から隣接する県を流れ、日本海と太平洋に注いでいる。県内河川を何日もかけ取材、さらに九州の柳川市の掘割り、果てはスイス、ドイツなど環境先進国へも足を伸ばし、「水いきいきキャンペーン」と題し数年間にわたって放送した。ヨーロッパ取材は自らビデオカメラで撮影、60分程にまとめ、編集し、一般の方にも販売した。

 「近代青春グラフティ」では、近代を築いた長野県人の偉業を現地取材し、親しみやすいタッチで放送した。幕末の佐久間象山、作家の島崎藤村、岩波文庫でおなじみ岩波茂雄、新宿中村屋を開いた相馬愛蔵、黒光ら多彩な人々の活躍をふり返った。このコーナー、現在は島崎藤村の大著「夜明け前」を朗読を交えながらお送りしている。

 信州は音楽面でも、多大な影響を日本に与えている。西洋音楽を日本に導入した伊沢修二、「ふるさと」などの唱歌の作詞をした高野辰之、「みかんの花咲く丘」の作曲者、海沼実らを取り上げ、その曲がどのような経過で作られたかを取材、さらには全国にまで取材範囲を広げ「唱歌のふるさと」なるコーナーで紹介した。

 「歌謡曲解体新書」では、当時は全く取り上げられなかった昭和の大ヒット曲を生み出した作詞、作曲家に焦点を当て、時代背景とともに掘り下げた。

 この35年間、様々なコーナーを立ち上げたが、要はパーソナリティーである私が興味を抱いたネタを取り上げ、その道の専門家で、楽しいおしゃべりを展開できる人材を探しあて、レギュラー陣として加わってもらっている。胸襟を開いて本音トークでしゃべってもらうには、大親友とまではゆかなくても、せめて親友ぐらいの信頼関係が構築されなければならない。そのために、生放送終了後、出演者、スタッフともども毎回昼食を共にし、人間関係を密にするとアイデアがポンポン飛び出す。

今、現在放送中のユニーク・コーナー紹介

 長いコロナ渦、声を出してもらおうと設けたコーナーが「みんなで唄おう・令和つれづれ合唱隊」。私は学生時代からジャズ・バンドでドラムを担当し、現在もコンボ・バンドで演奏活動をしているが、六十の手習いでメロデイ楽器、それもドラムのようにリズムも刻める楽器を始めた。ハーモニカである。

 コロナ渦で互いに話す機会が少ない日々、ラジオ聴取者に声を出してもらおうと、毎土曜日の朝8時台後半、私のハーモニカ伴奏で、よく知られている唱歌、童謡、歌謡曲を一緒に元気に唄ってもらおう、というコーナーを設けた。寄せてもらった曲の思い出を紹介、ラジオの前で唄って頂いて好評なのである。齢を重ねても、姿勢を正し、大声を出すと、不思議や不思議、元気になるというのだ。私のハーモニカの練習にもなり、一石二鳥のコーナーだ。

 大学教授といえば、一般にはお堅い方というイメージが濃いが、わが番組には実に気さくで親しみやすいユニーク教授が二人おられる。

 「つれづれ喫茶室・説話で読み解く昔の暮らしと文化」コーナーを担当している長野県立大学教授の、二本松泰子さん。この1月「真田家の鷹狩り 鷹術の宗家、祢津家の血脈」なる研究書を三弥井書店から出版、生誕100年で話題になっている池波正太郎の「真田太平記」でおなじみ、信州上田藩真田家の鷹狩文化の実像を明らかにした著書である。才色兼備、まことに嫋やかな女性であるが、松本城などで鷹狩の実演披露イベントも行っている剛の者でもある。

 その教授が私ども団塊世代、幼き頃、祖父や祖母から話し聞かされた「瘤取り爺さん」などの昔話の原本、「宇治拾遺物語」を紹介している。それも「日本昔ばなし」のラジオ版風にアレンジして放送中だ。現代語訳と脚本さらに女性役は二本松教授本人、音楽をつけ演出と男性役は私が担当している。

 幼き頃、ラジオドラマで育った自分にとっては実に楽しいコーナーだ。恐らくこのような形式で古典文学を解説、自らドラマに出演している教授は、そうざらにはおるまい。

 もう一人は玉城司さん。元清泉女学院大学教授で角川文庫から「一茶句集」などを出版した俳句研究家である。玉城さんが監修したポプラ社出版の「えんぴつで蕪村・一茶」の中から、時々季節にあった俳句を紹介しながら、江戸時代の人々と多忙な現代人を、互いに駄洒落を連発しながら比較考察する楽しい楽しい「江戸俳句コーナー」である。小林一茶は信州人、当時の信州や江戸の暮らしぶりが俳句を通じて浮き上がり、風雅を愛した蕪村の人生を垣間見ることが出来、興味尽きぬコーナーである。

 楽しい番組は送り手側が楽しむことが必須条件なのだ。

 最後に、「つれづれ散歩道」が10年経過した平成10年、私は独立したが、今日まで私のようなわがまま番組を許して下さっている信越放送、さらに現在のスタッフ二人にも感謝したい。

 絶妙なタイミングで音楽や取材した素材を電波に乗せてくれるミキサーの伊藤俊道さん。そして当番組のプロデューサーの生田明子さん。彼女はレギュラー出演者をあたたかく迎え、番組へのアイデアを提供してくださる良き助っ人である。生田さんは自らインタビュー、制作した「SBCラジオスペシャル・田口史人のレコード寄席~『昭和の校長先生』編」が2022年、日本民間放送連盟ラジオ教養番組部門で最優秀賞を受賞した。勿論技術は、伊藤さんが担当。次世代のラジオを担う二人のスタッフのもと、レギュラー出演者と楽しみながら「つれづれ散歩道」を放送し続けている。

 長寿番組の秘訣は、「次回も楽しく放送するあしたの心だー!」

<執筆者略歴>
武田 徹(たけだ・とおる)
1946年、長野市に生まれる。
早稲田大学を卒業後、1969年に信越放送(SBC)に入社。
報道部を経て制作部ではラジオを中心にディレクター、プロデューサーを歴任。
1984年から「らんらんサタデー今が聞きごろ」のパーソナリティになり、88年10月に始まった「武田徹のつれづれ散歩道」は34年間続く長寿番組に。
趣味のジャズは大学以来活動を続け、現在もコンボ・ジャズ“ジャミング・キャッツ”で定期的に演奏する。

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chousa@tbs-mri.co.jp


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