〈弱いロボット〉 ~「〇〇してくれるロボット」からの脱却
岡田美智男 (豊橋技術科学大学 情報・知能工学系教授)
ロボットとの共生は、いつのことになるのか。「共生」というからには、ロボットそのものが生きていないことにははじまらない。それはまだ先の話ではないのかと高を括っていた。ところがどうか。すでに、お掃除ロボットの〈ルンバ〉などは、世界中で4000万台以上も出荷されているという。「従来の家電製品とは、どこか違う!」との感想も聞かれる。
ロボットとの「共生」をどのように捉えるのかにもよるだろう。「お掃除してくれるロボット」と「お掃除をしてもらう人」という機械と人との関係性やそこから得られる利便性や効率性だけでなく、その関わりの中で新たな価値をも生み出しつつあるようだ。
ここでは筆者らの研究テーマである〈弱いロボット〉の観点から、私たちの生活に入り込みつつあるロボットと私たちとの新たな関わり方について考えたい。
〈お掃除ロボット〉の行為方略
最近のお掃除ロボットは、ずいぶんとおとなしい。ただ静寂性がアップしただけではないようだ。スイッチを押してみると、あたりの様子を丁寧に探ろうとする。そうして部屋の片隅まで進み、そこから計画に沿ったかのように、丹念にお掃除をはじめるのだ。
これはこれで効率的なのかもしれない。けれども往年のお掃除ロボットファンとしては、少々物足りなさも残る。大人になるとは、こういうことなのか。
初期のお掃除ロボットをご存じの方も多いことだろう。とりあえず、まっすぐに進んでみる。部屋の壁などにぶつかると、これ以上は進めないと判断し、進行方向を変える。あちらでゴツン、こちらでゴツン。「えっ、これだけなの? これでちゃんと掃除できるんだろうか……」と心配になった。
ただ、しばらく眺めてみると、この「あまり考えることなく、まわりに半ば委ねてしまおう!」との方略は、なかなか賢いものに思えてきた。「環境に適応したければ、作り込みを最小にせよ、その多くを環境に委ねよ!」との教えに従い、部屋の壁を上手に味方につけ、その制御の一端を担ってもらっていたのだ。
ソファーやテーブル、そして椅子の脚なども、本来は進行を妨げる障害物だろう。それでも、その凹凸から、たまたま新たな進行方向を手に入れている。そんな障害物の助けも借りながら、部屋の中をまんべんなくお掃除していたのだ。
いろいろなところにコツン、コツンとぶつかるも、前進することをあきらめない。目の前に迫る障害物を避けようと、試行錯誤する。こうした振る舞いは「機能特定的な行為」と呼ばれ、そこには生き物らしさや志向性を伴う。
そんな甲斐甲斐しい振る舞いを目にすると、私たちも思わず応援してしまう。その進行を妨げそうなモノを先んじて退けてあげる、椅子やテーブルの配置を変えてあげる。いつの間にか、一緒になって部屋の中を片付けてしまうのだ。
これまでの家電製品に対する姿勢とは、どこか違うものだろう。一つは、「どこに進もうとしているのか、なにをしようとしているのか……」と思わずロボットの意図を汲もうとしてしまうこと。
家電製品であれば、設計者の意図を理解しながら使う(=設計的な構え)。しかし、このロボットの振る舞いに対しては、その意図や目的を探ろうとする「志向的な構え」をとってしまう。そのためか、家電製品であれば欠点や欠陥とされかねない「拙さ」や「不完全さ」も、私たちのケアの対象になる。幼い子どもの覚束なさに目が離せず、思わず手を差し伸べてしまう、そんな感覚に近いものだろう。
もう一つは、あっけらかんとしたところである。ぶつかるのを承知で、果敢に壁にぶつかっていく。あたりのケーブルを巻き込んでギブアップしたり、床の上のスリッパを散らかしても悪びれるところがない。自らの能力やその弱さをそのまま受け入れ、それを隠すことなく、さらけ出している。
こうした「不完全さ」や「弱さ」は、私たちが関わる「余地」や「余白」を残し、私たちの「強み」を引き出している。一方でロボットにも床の上の塵を丁寧に吸い集めるなど、私たちには真似のできない「強み」もある。自らをさらけ出すことで、お互いの「弱さ」を補いあい、その「強み」を引き出すような、持ちつ持たれつの関係を生み出すのである。
もう一つ忘れてならないのは、「手伝った方も、まんざら悪い気はしない」ことだ。手の掛かるロボットに、手伝うことを強いられているわけではない。手伝うのも、世話をするのも、私たちに委ねられている。それでも思わず手伝ってあげてしまう。そこでは有能感や自己肯定感も得られる。くわえて、「一緒に部屋をきれいにできた!」との達成感、そしてロボットとのつながり感や一体感なども感じられるのかもしれない。
この「自らの能力が十分に生かされ、生き生きとした幸せな状態」は、「ウェルビーイング(well-being)」として着目されている。誰かに手伝ってもらえたときもうれしい。それにくわえ、誰かの手助けとなれたり、一緒に何かを成し遂げたときにもうれしく思う。それはロボットとの協働でも例外ではないだろう。利便性や効率性などのモノサシとは違う、新たな価値観といえる。
〈ゴミ箱ロボット〉の誕生
自らはゴミを拾えないけれど、子どもたちの手助けを引き出しながら、結果としてゴミを拾い集めてしまうロボットはどうか……。そんな他力本願で、手の掛かる〈ゴミ箱ロボット〉の着想を得てから、ちょうど20年になる。
2005年の「愛・地球博」に向けて、当時、様々なロボットの提案を競いあう公募がなされた。そこに、人との共生にむけた、環境にも優しいロボットとして、子どもたちの手助けを引き出しながらゴミを拾い集める〈ゴミ箱ロボット〉を提案した。けれども「自律的なロボットは、誰の手助けも借りてはいけない」との不文律でもあったのか、書類審査の段階で不採択になってしまったのだ。
それでも折に触れ、いくつかの〈ゴミ箱ロボット〉を制作し、広場で遊んでいる子どもたちのところに持ち込むなどの活動を続けてきた。
〈ゴミ箱ロボット〉のヒントとなったのは、養育者の腕の中に抱かれた乳児の姿である。一人では何もできないような「弱い存在」にもかかわらず、時々ぐずりながらも、必要なミルクを手に入れ、まわりの解釈を上手に引き出し、行きたいところにも移動してしまう。他者を味方につけ、自らの思いを果たしているのだ。
「あっ、そうか。ゴミを拾い上げる手を装着するのもいいけれど、いっそのこと、まわりの子どもたちの手を借りればいいのか……」。 自らの中で完結しようとする「個体能力主義的な行為方略」に対して、「関係論的な行為方略」と呼ばれるものである。
当初は、このロボットに備わる「社会的なスキル」に着目していた。けれども、子どもたちとの関わりを観察する中で、いくつもの発見もあった。一つには、「手伝うのも、まんざら悪い気はしない」と、子どもたちはとてもうれしそうなのだ。ゴミを拾うことを強いられているわけではない。ゴミを拾ってあげるとわずかに上体を屈める。そんな姿に興味を抱いてなのか、このロボットを取り囲んで世話をはじめたのである。
勝手にゴミ拾い集めてしまう自己完結したロボットでは、私たちの関わる余地はあまり残されていない。
一方の〈ゴミ箱ロボット〉の拙さや「自らではゴミを拾えない」などの不完全さは、まわりとの関係性を生み出す「のりしろ」となり、その「へこみ」は子どもたちの優しさや「強み」を引き出している。くわえて、「自らの能力が十分に生かされ、生き生きとした幸せな状態」(=ウェルビーイング)をアップさせているようだ。
こうした機能的な「へこみ」は、一種の〈クリエイティビティ・ポケット〉として、子どもたちの優しさや「強み」だけでなく、工夫や学びを引き出すことがある。
ある広場で複数の〈ゴミ箱ロボット〉を動かしたところ、子どもたちがゴミの分別をはじめることもあった。無造作にゴミが放り込まれるのをかわいそうに思ったのか、「このグレーの子は、ペットボトル専用! この赤い子は、燃えるゴミ専用だからね!」と、その場を仕切りはじめる子どもがいた。ただヨタヨタと動くだけのロボットと子どもたちとの間に、ゴミを拾い集める、ゴミを分別するなどの機能が立ち現れたのである。
〈弱いロボット〉とその仲間たち
「こんなことも、あんなこともできる」とアピールしがちなロボットや人工知能であっても、まだ不完全なところ、弱いところもたくさん残されている。それらを隠さずに、適度に開示したらどうか。
その「へこみ」は、まわりとの関わりを生み出し、潜在的な「強み」を引き出すものとなる。ほんの少し手伝ってもらうことで、ロボットの守備範囲も格段に広まっていくだろう。
こうした背景もあり、自らの中であえて完結しない、まわりに半ば委ねたような〈弱いロボット〉のコンセプトが生まれてきた。ここで、いくつかの仲間を紹介しておこう。
その一つは、街角でポケットティッシュを配ろうとする〈アイ・ボーンズ〉である。ティッシュを手渡そうとするも、人の動きは俊敏でなかなかタイミングがあわない。それでティッシュを差し出してみたり、ひっこめたり。そんな姿はモジモジしているようで、まわりの人からの同情を誘って、その手助けも得ながら、結果としてティッシュを配ってしまうのである。
同様の振る舞いは、〈弱いロボット〉だけでなく、他者との会話場面などにもみられるものだろう。「おはよう!」と挨拶をするも、その相手が気づいてくれなければ「挨拶」とならない。社会的な相互行為は脆弱であり、賭けを伴うのである。まわりを引き込むには、自己完結しようとせずに、半ば相手に委ねてみる姿勢も必要なのだろう。
相手の目を気にしながらオドオドと話そうとする〈トーキング・アリー〉は、聞き手の「あなたの話をちゃんと聞いてますよ」との情報(=聞き手性)を手掛かりに、リアルタイムに発話を組織しようとする。「あのね、えーと、今日はね…」と、まわりの手助けを上手に引き出しながら、タイミングを図ろうとするロボットである。
聞き手の視線が外れると、「えっとー、あのー」と言い淀んだり、言い直ししながら、相手の関心を引き戻そうとする。そのことで非流暢なものとなるけれど、懸命に伝えようとする気持ちは伝わってくる。こちらに合わせてタイミングを図ろうとするので、優しさも感じるのである。
ロボットからの言葉足らずな発話などもおもしろい。〈む~〉は、今日のニュースを伝えようとするけれど、どこか言葉足らずなロボットである。「きょうね、生まれたんだよ!」(えっ、なにが生まれたの?)、「スナネコのね、あかちゃんが生まれたんだよ!」(えっ、どこで……)と、その話の続きが気になってしまう。
スマートスピーカなどの過不足のない発話は、どこかよそよそしく、聞き手を置いてきぼりにしてしまう。一方の〈む~〉たちの発話は、解釈の余地を残して、聞き手に半ば委ねようとする。「えっ、それからどうしたの?」と、聞き手の関心を上手に引き込んで、一緒に発話を生み出すのである。
ここで興味深いのは、言葉足らずな発話は一種の「のりしろ」となり、聞き手との間で〈ひとつのシステム〉を作り上げることだろう。話し手(=I)と聞き手(=You)との関係ではなく、「私たち」(=We)として一緒に発話を作り上げようとする。
これは「we-mode」と呼ばれるもので、お互いにゴールを共有しあい、貢献しあう。お互いの言葉足らずな発話を補いあうことで、結果として豊かなコミュニケーションを生み出すのである。
〈ひとつのシステム〉を探ろうとする動き
「もっと静かに!」「もっと早く!」「もっと正確に!」……、利便性の高いシステムにもかかわらず、むしろユーザーからの要求をエスカレートさせてしまう。「あなたはゴミを拾うロボットなのだから、そんな粗相をしてはダメ!」と、思わず叱りつけてしまうことも。
利便性や効率性の追求は、きっと私たちの幸福につながると信じてきた。けれども、どこかで不寛容な心をも増長することになっていないだろうか。
そんな時代にあって、「私(I)」と「あなた(You)」ではなく、「私たち(We)」として〈ひとつのシステム〉(=we-mode)を探ろうとする動きがある。
「注文をまちがえる料理店」では、ときどき注文をまちがえるけれども、お客さんとの間で〈ひとつのシステム〉を作り上げている。飲食店内をヨタヨタと動き回る〈配膳ロボット〉も、まわりの人のわずかな手助けを引き出しながら、なんとか役割を果たすようだ。
お互いにゴールを共有しあい、少しでも貢献しあう。そんな〈ひとつのシステム〉を生み出すには、自己完結しようと無理をせずに、まわりに半ば委ねあう姿勢も必要なのかもしれない。
さらに詳しくは、拙著『ロボット 共生に向けたインタラクション』(東京大学出版会, 2022)に譲ることとしたい。
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