「ぽんぽこ物語」、Paravi(パラビ)への長い旅
【考古史料のような番組が修復され最先端の動画事業で初めて配信されたことの意味】
小島 英人 (TBSヴィンテージクラシックス 発掘プロデューサー)
GHQ見守る中、東京で初めて開局した民間放送局
TBSは2021年12月24日、開局70周年を迎えた。1951年、戦後6年目のクリスマスからの年月である。
開局式の主賓はGHQのシーボルト大佐だった。背筋のぴんとした軍人。口ひげがいかめしい。軍服が壇上の足立正社長を凝視している。そんな占領下の時代から、星霜、流れに流れた。幾つもの星は明るく、幾つもの凍える霜があった。しかし、70年間、放送はただの一日も途絶えたことがない。
チッツチッチッ。放送の時間は秒単位で刻まれてきた。40年近く前のこと、筆者が番組の現場に配属された時、銀メッキのストップウォッチを手渡された。ずしりと重く、ひんやりと冷たかった。手のひらに覚えたその感覚は、放送というものに身を投じていく当座の畏れ、物怖じと重なっていた。しかし、一か月もして、現場を走りはじめるとストップウォッチの厳粛さなど、どこかへいってしまった。番組をつくることは、わけもわからず、夢中で、死に物狂いである。誰もがそうであったろう。ましてや、テレビが生まれたばかりの頃ならばどうだったろう?
「ぽんぽこ物語」のサード
1957年(昭和32年)秋、TBSテレビが開局して2年目、18歳でテレビの現場に飛び込んだ彼末淳(かのすえじゅん、83)。「ぽんぽこ物語」撮影中は、何日も寝ることのできない日々だったという。早朝にロケに出る。撮影機材群は戦車のように重い。ベルハウエルフィルモの16ミリカメラ、三脚、役者の衣裳一式。そして、カチンコ。彼は映画のサード(三番手の助手)だった。日本で初めて放送局が挑んだテレビ映画「ぽんぽこ物語」で、彼末は現代でいうドベのADをつとめ、またカチンコを鳴らしていた。「テレビ映画」とは、映画の機材、手法でテレビ用につくった収録番組のことである。現在のテレビドラマの父か母かに当たる。
もう一方の親はスタジオでの役者の演技を生中継していた番組である。これは当時、「ドラマ」と呼ばれていた。まだビデオが実用化していない時代だ。日本にはテレビ局がNHK、日本テレビとラジオ東京テレビ(現、TBS)の三局しかなかった草創期。一日の放送時間が4時間半。そのほとんどがスポーツや舞台やイベントの生中継である。ドラマもスタジオからの一種の「舞台中継」であった。一方、「テレビ映画」は当時、テレビ局が能力的に踏み込めずにいた一段上の制作領域だった。後のビデオやデジタル時代からは考えられない手間がかかった。フィルムで撮影すれば現像せねばならない。初期は現像に3日かかることもあったという。プリントしたものをラッシュし、編集する。そして、別にアフレコ(アフターレコーディング、後からの音入れ)する。「ぽんぽこ物語」は特殊効果も駆使した冒険活劇だったから、その手間もある。ミュージカル仕立てでもあるから、天才子ども歌手小鳩くるみ(1948―)の歌唱を録音する。オリジナルの劇伴も録音する。それらを編集済みのフィルムにダビングする。現代の番組制作より、はるかに工数が多くそれぞれに時間がかかる。それも月曜日から土曜日の毎日の番組だった。10分番組だが、3分間の生コマーシャルもあった。これだけの作業があれば「サード」の彼末には寝る間もなかっただろう。それを1クール(三ケ月)全73話完結させた。彼末は無我夢中だった。がむしゃらに横綱を倒してしまった平幕力士のように、番組を終えて振り返れば彼末は何も覚えていなかった。ただ、「死なずに生きて撮り終えた」というのだ。彼末には歴史の重要証言として、何かエピソードを思い出してもらおうとしたのだが、どうしても何も思い出せないと申し訳なさそうに語った。
「ぽんぽこ物語」ロケ風景 右端でカチンコを持つ彼末淳。台本片手の監督は真弓典正。カメラマンは東京テレビ映画の古山三郎。女性スクリプターが記録をとっている
忘れかけられた作品、歪められた歴史事実
「ぽんぽこ物語」第一話より。ぽん吉=栗原眞一、ぽん子=小鳩くるみ
日本最古の連続テレビ映画(現在の連続テレビドラマ)「ぽんぽこ物語」。ただひとり存命な制作スタッフさえ、撮影の具体や番組の中身を忘れてしまっていた。もちろん、事実は残った。テレビの歴史を切り拓いた名誉の記録である。しかし、テレビの契約台数が40万、普及率が2.3%(NHK年鑑による)の時代に夜6時から10分間の番組を実際に見た人は少ない。テレビは普及前夜。街頭テレビが中心の時代である。映画「ALWAYS三丁目の夕日」(2005年、配給東宝)の中で、テレビが「鈴木オート」にはじめてやってくる際の大騒ぎのシーンがあったが、あれは1958年の設定だった。「ぽんぽこ物語」の放送の一年後のことである。テレビ一台で公務員の給料の一年分という価格では、テレビは一般家庭にはまだまだ高嶺の花だった。「ぽんぽこ物語」は1957年11月11日の月曜日に番組がはじまり、月曜から土曜日の毎日放送し、正月を挟んで、予定通り3か月後の1958年2月22日、土曜日に全話を完結した。
お話は子ダヌキの兄と妹が人間に転生して繰り広げる冒険譚である。よい子のご褒美に人間に生まれ変わったぽん吉(栗原眞一、1949―。原節子とも共演した美形子役)ぽん子(小鳩くるみ、1948-。3歳でNHKコンテストに合格した天才童謡歌手。さらに演技もたくみで「少女スタア」と呼ばれていた)の兄妹は「お話の都合上」(台本のまま)80里(320キロ)も離れ離れに暮らすことになる。ぽん吉は江戸。ぽん子はみちのく、白妙城のお姫さま「初夢姫」となる。姫は兄に会いたい気持ちを募らせ、お伴を連れて江戸への旅に出る。ぽん吉は生まれた直後、母に死なれ、父からは貧しさのあまり捨てられる。魚屋に拾われ、気立ての良い評判の子どもとなる。ところが、父の剣の才能を受け継ぐぽん吉はひょんなことから、その才と性質のよさを幕臣に見込まれ、請われて養子となる。ところが、時は幕末、侍の子となったぽん吉は佐幕、倒幕の争いに巻き込まれてしまう。密命を帯び、運命の皮肉にも白妙城への旅に出る。兄と妹はお互いの動きがわからぬまま道をゆく。道中に山賊やら悪党やらが次々にあらわれ、危機一髪となる。たぬきの超能力を使って切り抜けもするが、絶体絶命となると謎の正義の味方、「鬼面菩薩」があらわれる。
そんな風雲渦巻く街道で、二人は果たして再会できるのか。そういったお話である。
「ぽんぽこ物語」は最高で16.7%の視聴率を記録した。ビデオリサーチの視聴率調査が始まる6年前だが、広告代理店がアンケート調査でとった記録が残っていた。
「『ぽんぽこ物語』は子どもたちには結構人気があり、水曜日はその後6時15分から『赤胴鈴之助』もあったので私などは楽しみにしている番組であった」(月光仮面は誰でしょう/懐漫倶楽部 アース出版局 1993)などという証言も残っている。
しかし、人々の記憶はその後、薄れていった。永久保存すべきと今なら思えるフィルム原盤だが、その後、行方不明となった。もちろん再放送されることがなかった。一方、「ぽんぽこ物語」の後番組であった「月光仮面」はその後、テレビ普及期の波に乗り、大ヒットする。「月光仮面」はフィルムが残り、何度も再放送されたり、「懐かし」番組などで度々取り上げられたりし、放送から何十年もたってからの再ブームがあった。その陰で「ぽんぽこ物語」のことはますます忘れ去られていった。しかし、歴史の事実としては「ぽんぽこ物語」が第一号作品であり、「月光仮面」が二番手である。放送から30年ほどたった1980年代末になると「月光仮面」の制作者、出演者やファンたちの間で「ぽんぽこ物語」について、あっても無きがごとき言い方や扱いがあふれるようになった。確かに「ぽんぽこ物語」という先行作品があったものの「ぽんぽこ物語」は(「月光仮面」と違って)人気がなく、打ち切りになったなどという根拠のない言い方である。さらに、いつしか「幻の番組」とみなされるようになり、あったかなかったかわからない番組であるならば、「月光仮面」こそ日本で最初の「テレビ映画」であるという主張がまかり通るようになった(書籍多数。書名、著者名は記さない)。その後、2001年に編まれたTBSの50年史でさえ、そうした無責任な歴史の改竄を孫引きし、「番組が赤字で打ち切りになった」と誤記してしまっている。上述したように番組は視聴率としても、証言としても十分に人気があったことがわかった。また打ち切りになった事実などなく、当初謳われた予定通り全話を完結している。当時の社史編集長に、誤記がなぜ生じたのかを尋ねると「あの頃はよくわからなかったしなあ。事実誤認と言われても、いまさら訂正原稿も出せないしなあ」とぼやくばかりである。「ぽんぽこ物語」は放送の画期をなした作品であり、正確な事実をきちんと残さなくてはならない。また放送史の中に正しく位置づけなくてはならない。あらためてそう感じる。
ドラマによって立つ
TBSは「ドラマのTBS」を強烈に志向した会社だった。存在を賭けた戦いだった。
フジテレビのドラマプロデューサーだった能村庸一(1941-2017)は、テレビ草創期の要人80人にインタビューするなど調査研究し、テレビのジャンル史を著した。その中で、他局であるTBSの初期の差別化戦略に触れている。不分明な時代の貴重な記録である。
・・・世間のテレビジョン放送に対する評価はいまだ「電気紙芝居の見世物小屋」であった。相変わらずNTVのプロレス中継に群がっている。それに対してドラマは内容の乏しさは隠しようもなく、大宅壮一の〈テレビによる一億総白痴化論〉が多くの国民に共感をもって受け止められていた。
そんな中でTBSの今道潤三編成局長(後のTBS社長)は〈優れた俳優と一流作家による格調ある番組の実現〉が焦眉の急だとし、ドラマによってKRテレビ(現TBS)のプレステージを高める方針を決めた・・・(実録テレビ時代劇史/能村庸一 東京新聞出版局 1999)
1955年、ラジオ東京テレビの「街頭テレビ」。日本テレビを追随し、力道山以外のプロレスを中継している
他局は力道山のプロレスとプロ野球のジャイアンツ戦で圧倒的に先行している。「TBSは優れたドラマによって立つ」この大方針は制作現場に降ろされた。営業的にも不定期なイベント中継ではなく、安定的なレギュラーの番組枠を生み出すことが必要であった。さっそく、1956年12月、日本ではじめての1時間レギュラードラマ枠として「東芝日曜劇場」が登場する。同時に単発の「テレビ映画」の制作を実験的にスタートする。年が明け、1957年、社長の足立正(1883-1973)は新年のあいさつで「立派な品のある番組を創ることが緊用(原文ママ)である。最大ではなく日本一の最良の会社でありたい」と述べた。「最大よりも最良」。この言葉はその後、長く社訓となった。
ドラマ班のプロデューサー大垣三郎は三本の単発テレビ映画の実験を踏まえ、いよいよ連続テレビ映画の企画を立てた。作品として既にラジオドラマとして人気を博し、映画や漫画でヒットしていた「たん子たん吉珍道中」を原作として選んだ。脚本家として映画やラジオのシナリオで売り出し中だった川内康範を起用した。主役として白羽の矢を当てたのが小鳩くるみである。小鳩は、当時9才。4歳で日劇デビューし、歌に芝居に大活躍中だった。小鳩は既に日本テレビでスタジオドラマ(生放送)の主演(どんぐり日記、1955)をつとめ、演技にも定評があった。雑誌グラビアの常連で「なかよし」の表紙を毎号飾っていた。「少女スタア」と呼ばれていた。
元中央大学特任教授の市川哲夫(1949―)は「少女スタアのトップをキャスティングすることは新しいメディアだったテレビのベンチャー精神のあらわれだった」と見ている。
「ぽんぽこ物語」はこうして「ドラマのTBS」たらんとする志を背負い、前人未到のチャレンジとして創られた。それだけのものが、その後60年間、人知れず眠ることになってしまったのはどうしたわけか。
60年ぶりの発見
「ぽんぽこ物語」の原盤フィルムは放送後、どこかに消えてしまった。それは当時の放送界では特段、珍しいことではなかった。放送はそもそも「送りっ放し」の意味であったと聞く。(日本放送協会が編んだ「20世紀放送史」によれば「1917年1月、日本で初めて公文書の上に『放送』という言葉が現れた。第一次大戦中、客船三島丸がインド洋上で発信元不明の電信を受けた。ドイツの巡洋艦が出没したとのことだった。この時、無線電信局長は『放送』を受信したと記した。これは『送りっ放しの電信』という意味だった。」)
そもそもテレビ放送の初期においてはビデオが実用化されておらず、1958年からビデオが一部で使われるようになっても、テープがあまりに高価(10分テープが10万円。公務員の給料の一年分)だったため、番組は消去され、テープは何度も使い回された。日曜夜9時の「東芝日曜劇場」はテレビ開局から10年間で431話を数えたが、保存され今に残るのはわずか31本である。保存率7.1%である。93%はそもそも生放送であったり、ビデオ放送であった場合でも消去されたりしている。現役最高齢のテレビプロデューサー石井ふく子(95)のデビュー作は1958年9月の「橋づくし(原作三島由紀夫 脚本辻久一)」だが、残念ながら現存しない。
「ぽんぽこ物語」のフィルム原盤は放送から60年を経た2018年11月、TBSの子会社の貸倉庫の片隅で発見された。子会社の再編に伴う倉庫の棚卸しの作業中のことだった。奇跡的なことだった。もう存在しないと思われていたものが見つかった。「原盤発見」はテレビ、新聞でひとしきりのニュースとなった。(朝日新聞など)
段ボール箱の中に無造作に68本ものフィルム缶が詰め込まれていた。放送当時の常識では捨てられていてもおかしくなかったが、誰かがそれを思いとどまったのだろう。段ボール箱はタイムカプセルのように60年前の放送を格納していた。ブリキのフィルム缶は使い回しだったようで、別の番組名の上にマジックで「ポンポコ物語」と書きなぐられている。フィルム缶を開けると長く閉じ込められていた空気が一気に噴出した。酸っぱい匂いが立ち込めた。これは「酢酸シンドローム」という一種の腐敗化である。悪い予感がしたのだが、当初の調査で、第1話、15話、20話と無造作に抜き出すとフィルムは三本とも奇跡的に良好であった。再生すると画像は比較的鮮明であり、音声もしっかりと聞き取れた。まあよい状態だった。他もよいのだろうと推測した。小鳩くるみはその後、イギリス児童文学者鷲津名都江となっていたが、この1話と15話を見て「当時のことが蘇ってきました。本当に懐かしい」と喜んだ。
この発見は放送史の画期を後世に伝える考古史料であった。国立の映画アーカイブ(東京都中央区)は「ぽんぽこ物語」のフィルム原盤を文化資産として半永久に保存することを決めた。TBSからは原盤を寄贈するという段取りになった。(TBSからの広報)
そのために3本以外の全てのフィルムをデジタルスキャンしはじめたのだが、フィルムの状態は予想外に悪いことが次第にわかってきた。
当初の発掘段階でフィルムが良好だったというのは、サンプル調査した3本がたまたま良好だったというだけであった。段ボール箱の中で、下の方に積まれていたフィルムの音声ネガが腐敗していた。黴がはえ、捻じれ、癒着し、17話分は再生が全く不可能であった。
カビが生え、歪んだ音声フィルム
結局、映像、音声とも完全に良好と言えるものは12話しかなかった。これだけでも世に還そう、見て頂こうということになり、1年かけて、映像の汚れを取り、傷を補修した。音声については音効職人の伊藤誠一(1959―)の手によって調整した。2020年2月、まずDVDとして12話が公開された。(TBS Vintage Japan ぽんぽこ物語 ベストセレクション/DVD+CDなど)
小鳩くるみは確かに「少女スタア」の輝きであった。挿入歌を透き通る声で歌っている。美形の子役、栗原眞一は凛々しく立ち廻りを決めていた。兄妹の危機一髪に謎の「鬼面菩薩」が正義の味方として突然に現れる。これは「月光仮面」などで見られるその後の川内康範作品群の祖型のように見えた。しかし、私たちにとっても残念であり、ご覧いただく方々に申し訳なかったのは、飛び飛びにしか見ることができなかったことである。1話の次は6話。続いて9話まで視聴できるものの、10話は音声が崩壊しており、欠番。40話から49話まで欠番。といった状況だった。テレビ・アナリストの吉田正和は「修復可否話数の関係で12話にセレクションされてしまったので、転生した子だぬきの成長物語である過程が追えない。これは致命的だった。これでは全体像が把握できない。」と指摘していた。
纏めてみる。
放送から60年。「ドラマの原点」は、全73話のうち、68話が発見された。無いはずのものが出てきた。放送史の遺跡からの出土品である。地層からぼろぼろの土器が発見されたかのように、かなりの話数が傷み、腐敗していた。放送古代史の考古史料を最善最適に保存するために、原盤は国家の保管庫に入った。スキャンデータは、マスタリングが進み、12話についてはDVD盤として見て頂くことができた。しかし、飛び飛びでは、ドラマとしての中身がよくわからない。「ドラマのTBS」が社運を賭けた第一作のドラマである。ドラマとしての出来はどうだったのか。何が描かれ、メッセージは何だったのか。
ぽん子ぽん吉、Paravi(パラビ)への旅
2021年冬、DVDの発売から1年後、「ぽんぽこ物語」にとって、ひとつのチャンスが巡ってきた。「Paravi(パラビ)」から声がかかったのだ。著名な動画配信事業のひとつである。テレビ局系、外資系、さまざまな動画事業が花盛りだが、Paraviはある特徴を持っている。
ドラマに強いのである。惹句は「国内ドラマの数は日本最大級」とある。
「ドラマの古典」がドラマの多くの仲間たちのもとへ迎えられるのなら、それはひとつの幸福な形であると思えた。それも最古参の朋輩として。
さて、Paravi(パラビ)の謳う「国内ドラマ、最大級」とはどのようなことなのか。筆者はそこを確かめたいと思った。実はこうした配信事業では各社ともコンテンツの実数は公表していない。日々の変動がある。他にも企業としての方針があるのだろう。
以下の調査は筆者が1月20日時点で数えたものである。若干の数え間違えがあるかも知れないが、それぞれの動画配信事業においてのドラマの位置づけ、傾向は判明するものと思われる。ドラマ好きな方にとっては何かの参考となるかも知れない。
以下、調査の結果である。
国内ドラマの品揃えにおいて、Paraviは圧倒的だ。この特徴について、Paraviを運営するプレミアム・プラットフォーム・ジャパン社の田中徹社長に取材した。
ドラマについては単に数的に優位であるだけではない。そういうことがわかった。
「私たちのサービスの中でも他社と一線を画すのは、その株主の強みを大いに示している『ドラマ好きユーザー』に支えられている点と言えます。オリコンが毎年発表する『満足度ランキング』でも、2021年度配信プラットフォーム『国内ドラマ』ジャンルでは2年連続1位となり、TBSをはじめとするコンテンツプロバイダーによる良質なドラマがユーザーの満足度を上げたことがわかります。」
国内ドラマ分野で満足度が高い配信事業である。「ドラマ好きユーザー」が集っている。元祖ドラマとなるとマニアックな作品だが、ドラマ偏差値の高いユーザーならば楽しんでもらえるかも知れない。
いざ、「ドラマの園」Paraviへ。「ぽんぽこ物語」の旅支度である。
3つのポイントがあった。
①今一度、再修復を進める。
②配信話数を増やす。
③ドラマの世界観全体を視聴者に伝える。
①さて、まず再修復である。この修復の過程で、私たちは「放送の古代史」を実感することになった。日本ではじめての「テレビ映画」の時代。編集は、素朴な手作業であった。
下の写真はぽん吉、ぽん子が人間に生まれ変わる場面である。オリジナル画面では、フィルムを物理的にハサミで切り、溶剤(接着剤)で貼りつけている。画面左手にはこぼれた接着剤の後がある。また切り張りの過程で画面が前後の画面に比べ縦に持ちあがっている。これを連続再生すると前のコマより縦ズレしてしまう。1コマ、24分の1秒の瞬間、縦にぶれるわけだ。DVD化のためのAIソフトによる一次修復ではこの縦ずれは修復できなかった。Paravi配信用の修復ではコマの位置を手作業でずり下げた。TBSスパークル社、西村寿生、小野寺正臣の執念の作業であった。
次の「鶴のおばさん」(若水ヤエ子、一世を風靡した昭和のコメディエンヌ)画像では画面左手に大きなひっかき傷がある。第一次修正でもかなり修正されている。しかし、それでもわずかに傷が残っていた。実はAIソフトは左右の傷について細やかに認識するものの、縦の傷については認識能力が弱い。鶴の影絵が二回の修復で綺麗になっていることがわかるだろうか。
下の実例では、欠損部分を修復している。剣豪、弓矢折太郎が端坐している。左手の掛け軸が欠損しているが、デジタル修復され、欠損が消えた。下の写真はぽん吉が石灯籠の陰から父、弓矢折太郎の決闘を見ているシーン。上部にスプライシングテープ跡が残ってしまっていたがこのコマも修復で綺麗になった。
修復はこうして1コマ1コマを確認し、修復すべきものを修復していく手作業となった。1秒24コマの番組は正味7分。それを35話修復したので24×7×60×35=352,800となる。
実に35万コマの手作業であった。
②こうした手作業によって配信可能話数は12話から35話まで増やすことができた。
③しかし、それでも全73話のうちの半数にもみたない。連続ドラマの全体のストーリーをどうお伝えするか。「飛ばし回」が問題だ。39話の次は50話となる。この間の10話のうち、欠番が2話。8話は音声フィルムの状態が悪く、修復したものの配信レベルに達しなかった。しかし、8話分の映像は存在するのであるから、これを素材として用いて短い「あらまし」を作成した。例えば50話の冒頭に「40話から49話までのあらまし」を加えることにした。
こうした作業を数か月にわたってこつこつと進めた。
また同時に配信不可の38話分の各話の「あらすじ」を音声の無い画像から読み取り、また欠番については前後の話から内容を合理的に推測し、「全73話あらすじリスト」を作製した。これをParaviでの配信の直前に「TBSヴィンテージクラシックス」(テレビ、ラジオの古典逸品を発掘、還元する事業。2013―)の公式HP上で公開した。
配信、その意義
そして、2022年11月11日、Paraviで全35話を配信開始した。「ぽんぽこ物語 ―”テレビの原点” 秘蔵フィルム復刻レストア特別配信セレクション―」
11月11日は1957年、日本ではじめて連続テレビ映画がブラウン管に映しだされた日である。まだ全国に50万台しかなかった小さな(主に14インチ)テレビで、ぽん吉、ぽん子が大活躍をはじめた。子どもたちをわくわくさせはじめた日だ。
この日は、テレビドラマがスタジオでの生放送の制約をはじめて脱することができた日である。制約・・それまでの(生放送)ドラマでは、役者たちが全員放送時間にスタジオにいなくてはならない。狭いスタジオの中で演技や動きは限られる。大立ち回りなど撮影ができなかった。400人のエキストラが狭いスタジオでぎゅうぎゅうになり、酸欠を招いたこともあった・・・。
そんな制約を乗り越え、テレビが表現の幅を拡げ、跳躍していく記念すべき日だった。はじめてドラマが狭いスタジオを飛び出した。自由で工夫を凝らした編集によって私たちをはらはらどきどきさせることができるようになった日だった。今、「生放送スタジオドラマ」というものはない。現在の全てのドラマはこの「ぽんぽこ物語」を起点として、進化し、発展したものだとも言える。
Paravi(パラビ)には1134シリーズのドラマがずらりと並んでいる。1957年11月の「ぽんぽこ物語」の横には「私は貝になりたい」が隣り合わせている。「私は貝になりたい」(脚本 橋本忍 演出 岡本愛彦)は、「ぽんぽこ物語」の一年後、1958年10月31日に放送されたテレビドラマの金字塔だ。この作品によって見ごたえのある本格的なテレビドラマが歩み出す。NHKの放送史には次のように記されている。
「放送終了と同時にラジオ東京テレビ(後のTBS)には視聴者からの電話が殺到した。毎日新聞は『日本のテレビの歴史で最も大きな出来事』と書いた。『私は貝になりたい』は絶賛を浴び、芸術祭大賞を受賞した。」(20世紀放送史/日本放送協会 2001)
「ドラマのTBS」という世評は澎湃と沸き上がった。
エピローグ、寄せられた感想
今やテレビ画面でさまざまな動画配信を見ることができるようになった。
好きなものを好きな時に見ることができる。自分の時間にも、番組の制作された時間にも制約されない。2022年、最新の「DCU」でも1957年の「ぽんぽこ物語」でも思いのままだ。
何人かの方々に視聴していただき、感想をいただいた。
毎日新聞 隈元浩彦記者から手紙をいただいた。
隈元記者は、「ぽんぽこ物語」の脚本を担当した川内康範の研究者である。川内康範、1920-2008。この番組の後、「月光仮面」が大ヒットし、その後「レインボーマン」など一連の「正義の味方」もので、テレビ脚本の巨人となる。TBSだけでも240本の脚本、62本のドラマ原作を残した。川内の青雲の志は本来作家であり、純文学、大衆文学を多数残した。そうした小説から生まれた歌も多い。レコード大賞に輝いた「誰よりも君を愛す」は小説が先行した。森進一の「おふくろさん」も有名だが、晩年、川内が森進一を詰難する事件もあった。グリコ森永事件では、「かい人21面相」との誌上論戦で話題を振りまいた。
「川内康範にとって、本作品は限りなく、自伝的要素を盛り込んでいるように思えてなりません。もちろん、子どものぽん吉を棄てた貧乏浪人弓矢折太郎にです。弓矢絶命のシーンは実生活で子どもを棄ててしまった自らの罪を命で抗うという覚悟を披露したのでしょう。本作品を、(実子にあたる)飯沼弁護士がご覧になったら、どういう感慨を抱かれるでしょうか。川内康範は紛う方なく、生き別れのわが子へのメッセージとして本作品をつくった。「ぽんぽこ物語」のぽん吉少年は、川内の実子と同い年に設定されていた。しかし、当時、子どもの家にはテレビがなく、飯沼少年は父のメッセージが籠められた番組を見ることがなかった。川内が亡くなるまですれ違ってしまった。
川内康範から離れてもうひとつ感じいったのは映像の美しさです。二人の子役を除いてほとんどが鬼籍に入っておられることでしょう。役者たちの熱演、カット割りの妙。復元された映像は当時の制作者たちの熱量をも復元させるものだと痛感しました。」
テレビ・アナリストの吉田正和氏はTBSヴィンテージクラシックスの公式ページに寄稿してくれた。
「全73話すべての脚本を担当した川内康範は、子供にもわかりやすい物語の中に、人生にかかわる岐路の選択、困難に立ち向かう力、出会いの大切さなどを巧みに投げ込み、大人の鑑賞にも耐えうるよう、しかも国産初のテレビ映画として人気が出るよう、ファミリーで楽しめる連続性を持たせたストーリーを組み立てた。
今回のParaviでの配信では修復できなかった話数をダイジェストにして物語を追えるようにしている。より高画質になった映像に加え、物語が追えるようになっていることが『Paravi』で視聴することへの最大の訴求ポイントである。全体像が把握できることによる作品の印象度はあまりにも違う。各話が短編コメディー作品と感じた『ぽんぽこ物語』が感動的な連続の物語であったことを認識するだろう。
草創期のスタッフがテレビという、当時の新しいメディアの新しい視聴者に向かって制作した『ぽんぽこ物語』が、現在のシステムで再生されることで、未来の視聴者へも感動を与えられるように修復が完成したといえる。
最新のフィルム修復と、どうしても修復できなかった話数の物語を補完することによって、国産初のテレビ映画という資料的価値だけでなく、ドラマとしての面白さを現在の視聴者に提示する。『Paravi』は過去の視聴者へのノスタルジーを未来の視聴者へのエモーショナルに変化させた。」
年が明けて小鳩くるみさんから便りをいただいた。差出人の名前は、鷲津cとなっている。かつての芸名ではなく、現在は15冊もの著書がある英米児童文学者としての名前である。現在、74歳。お母様が100歳となられたこと、NHKの新春番組でインタビューされたこと、今年の春にライフワークである「マザーグース」のDVDが発売となることなどが記されていた。「ぽんぽこ物語」を改めて、ご覧になってのご感想が最後に記されていた。
「DVD分より遙かに多く修復され、しかも画面も音声も格段にきれいになっていてびっくりすると同時に、とても嬉しくなりました。
忍者や山賊に襲われる山の中のシーンは、深大寺でのロケではなかったかと思います。
手甲脚絆の町娘の格好で早朝からのロケは、結構子供心にも大変だったことを覚えています。もう寒い時期でしたので、ロケ開始のころはまだ霜が降りていて、その霜も氷柱のように長く太く、わらじ履きの足にざくざく踏み応えがあったことなどを、画面を思い出しておりました。かしこ」
放送から60年間、「ぽんぽこ物語はどこかに残っていませんか。日本で最初のテレビ映画です。」テレビの関係者に会うたびにそう呼びかけ続けていたのが、小鳩くるみさんだった。Paraviへの長い旅だった。
<執筆者略歴>
小島 英人(こじま ひでと)
発掘プロデューサー、TBSヴィンテージクラシックス
1960年東京生まれ。東京大学法学部卒、ニューヨーク大学大学院映画研究学修士。TBS入社後、外信部記者として世界各地の内戦や変革をレポート。その後『NEWS23』のディレクターを経て、『報道特集』では多数のドキュメンタリーを制作。記者として、潜伏江副リクルート社長発見・幻の憲法音頭発見・石井四郎731部隊長戦後日記・北朝鮮中国国境河川世界初走破・「三島由紀夫憲法」公開など、スクープを多数手がけた。2003年、深夜ドキュメンタリー枠『報道の魂』立ち上げに携わる。13年にはTBSヴィンテージクラシックスを創設。以降、「三島由紀夫未公開インタビュー」・「楽聖パブロ・カザルス来日演奏会音源」・「ヴィルヘルム・バックハウス音源」・「三島由紀夫VS東大全共闘」フィルム原盤など多数発掘。「戦後作曲家発掘集成」(8枚組CDボックス)で16年にレコードアカデミー賞特別賞、19年「三島由紀夫VS東大全共闘」の原盤発掘ニュースでギャラクシー賞奨励賞、20年、映画『三島由紀夫VS東大全共闘』は報知映画賞特別賞を受賞。
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