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日本社会はテレビドラマほど多様化しているのだろうか~ジェンダーとLGBTQ+

【近年のテレビドラマには、ジェンダーやLGBTQ+をとりあげたものが多い。そこにはどのような背景、課題、今後の展望があるのだろうか。海外ドラマとの比較もまじえて考察する】

藤田真文(法政大学社会学部メディア社会学科教授)


テレビドラマの声を上げる女性たち

 筆者は、性自認はシスジェンダー・男性で、性的指向はストレート(異性愛者)として60年以上生きてきた。

 いきなり筆者の個人属性から書き出したのは、研究テーマであるテレビドラマ批評・分析で、自分のドラマ評価ははたして的確なのか。性的マジョリティの立ち位置から書いているに過ぎないのではないのではないか、と自問することが多くなったからである¹。以下は何らかの知見・結論というよりも、問いとして読んでいただければ幸いである。

 最近制作された日本ドラマの女性を見ていると、「男女共同参画」「女性活躍」といった美しい官製の標語とは裏腹に、相変わらずの生きづらさ、抑圧に対する悲鳴が聞こえてくるように思う。

 『わたし、定時で帰ります。』(「わた定」2019年TBS 原作:朱野帰子、脚本:奥寺佐渡子・清水友佳子)の主人公東山結衣(吉高由里子)は、夕方6時の定時で帰ることをポリシーにする。

 結衣が働くサイト制作会社では残業が当たり前で、定時で帰る結衣は上司の福永清次(ユースケ・サンタマリア)から「ほんとに定時で帰ってる。もっと頑張ろうよ、もっと仕事してる人もいるんだし。自分のことしかしない人なの」と皮肉を言われる。定時で帰る結衣は、「変わり者」なのである。

 ドラマ終盤、上司の福永が予算上無理な仕事を受注してきたために、結衣たちはさらに過重労働にさらされる。結衣は働き方改革を標榜している社長に、「現場の人たちは、みんな不安なんです。居場所がなくなるんじゃないかと怯えたり、認められたくて無理をしたり」と職場改革を直訴する。

 「わた定」のように、職場の矛盾に声を上げるのは女性という設定が最近のドラマには多い。女性が中心的な視聴者層だから、視聴者のカタルシスのために主人公を闘う女性にしているのかもしれない。だがむしろ、非正規雇用では女性が男性の倍以上の比率になっているように²、日本の職場の様々な矛盾が女性に押し付けられやすいことが、主人公の設定に反映していると見るべきだろう。

 『半沢直樹』第1シリーズ(2013年TBS 原作:池井戸潤 脚本:八津弘幸)では、「やられたらやり返す。倍返しだ!」という名ゼリフに、筆者もおおいに溜飲を下げた。

 だが『半沢直樹』がもたらす爽快さは、筆者が男性だからこそ感じる爽快さではないのか。『半沢直樹』の醍醐味は、多額の融資が回収不能になるなど危機一髪のトラブルを半沢(堺雅人)がどう切り抜けるか。必ずそこに東京中央銀行「内」の権力闘争が絡んでくる。

 銀行内で半沢が対峙するのは、宿敵の大和田暁常務(香川照之)はじめすべて男性である。『半沢直樹』は、総合職の女性が現実に少ない日本の銀行をリアリズムに徹して描いたドラマだと言っていいのだろうか。

 けれどもセジウィックのいう「ホモソーシャル」という概念を援用すると、『半沢直樹』のホモソーシャルな物語空間が見えてくる。

 ホモソーシャルとは、同性間の社会的絆を表す言葉である。多くの社会で男性は、男性同士の親密な関係が性愛を伴うホモセクシャルな関係と見なされるのを恐れ・嫌悪する(ホモフェビア)³。それにも関わらず、学校、職場、コミュニティなど多くの場が、女性を排除した男性のみの親密な関係で出来上がっている。

 火花をちらす半沢と大和田暁常務の対立も、お互いを好敵手と認め合った同士のホモソーシャルな物語空間での闘争である。そしてそこから爽快感を得る筆者もまた、『半沢直樹』のホモソーシャルな物語空間の一部として取り込まれているのであろう。

 ここに日本のドラマについて、筆者が答えを出せていない一番目の問いがある。

 いま日本社会が、特に女性視聴者が必要としているのは、「わた定」のように女性の生きづらさをリアルに描くドラマなのか。それとも女性主人公が、ホモソーシャルな組織の中で男性上司の抑圧を跳ね除けて半沢直樹ばりに道を切り拓いていくドラマなのか。

 筆者は後者のような女性が解放されていくドラマを見たいと思うが、女性視聴者からするとそのようなストーリーは現実離れしていると忌避されるのだろうか。

ドラマで増える性的マイノリティ

 LGBTQ+など性的マイノリティが登場人物となるドラマも増えた。『おっさんずラブ』(2018年(第1シリーズ)テレビ朝日 脚本:徳尾浩司)や『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(「チェリまほ」2020年テレビ東京 原作:豊田悠 脚本:吉田恵里香、おかざきさとこ)などの話題作が多数登場した。

 現在ではゲイ男性が主人公のドラマが、特に深夜帯で毎クール制作されている。さらに、『恋せぬふたり』(2022年NHK 脚本:吉田恵里香)のように、他者に恋愛感情や性的欲求を持たないアロマンティック・アセクシャルの登場人物も描かれた。日本ドラマは、性的マイノリティに対して開放的なように見える。

 以前であれば、性的少数者であることで苦悩するドラマが多かった。だが、近年ドラマの中のLGBTQ+は、自分がマイノリティであることを周囲に知られるのを恐れたりはするが、けっして重苦しく描かれていない。最終的に自分に合ったパートナーを見つけ、満ち足りた生活を送るストーリーが多い。

 『きのう何食べた?』(2019年 テレビ東京 原作:よしながふみ 脚本:安達奈緒子)は、几帳面な弁護士・筧史朗(西島秀俊)と、人当たりの良い美容師・矢吹賢二(内野聖陽)のゲイカップルが主人公で、史郎が作る夕食や買い物のやりくりなど、二人のほのぼのした日常を描いたドラマである。それと並行して、ゲイカップルが長年関係を保ち続ける難しさや、史朗がゲイであることに両親がどう向き合うかも描かれる。

 ドラマにおける性的マイノリティの登場にも、筆者が答えを出せていない二番目の問いがある。

 森山至貴はLGBTQ+について、「性の多様性を擁護する主張は、ともすると『なんでもあり』で片付けられがちですが、『なんでもあり』という浅い理解と共感は『大きな勘違い』と『知ったかぶり』の温床でもあります」と戒めている⁴。

 性的マイノリティが登場するドラマが、シリアスではなくコメディタッチになっているのは、性的マイノリティが日本社会で生きやすくなってきたことを反映しているのだろうか。それとも、ファンタジーにすぎないのか。LGBTQ+の当事者は、ドラマに多く描かれるようになったことを歓迎しているのだろうか。

 例えば、『おっさんずラブ』で、黒澤部長(吉田鋼太郎)が部下の春田創一(田中圭)の写真をスマホの待ち受け画面にしたり、部長室のブラインド越しに時々春田の様子を観察しているコミカルな描写を見ると、性的マイノリティの当事者は嘲笑されていると不快にならないのか、とても気になるのだ。

 LGBTQ+のうちでドラマの主人公になるのは圧倒的にゲイ男性であり、レズビアンやトランスジェンダーを描いたドラマはそれよりも極端に少ないことも見逃せない。

 日本には美しい男性同士の恋愛が軸となるBL(ボーイズラブ)小説・マンガを消費する受け手がすでに存在しており、深夜帯に多いゲイ男性が主人公のドラマはその延長上で考えることができる。

 BLドラマの隆盛を前にして、フィクションを受容する女性視聴者の自由に干渉すべきでないという意見もあろう。一方で、性的マイノリティ間の不均衡をこのままにしていいのか。筆者の迷いはさらに深くなる。

 すでにBL小説・マンガの制作者や批評家は、「BL 論争」といわれるゲイ男性とのやりとりの中で、ゲイ男性を単に「見られる」存在としてではなく、「現存するゲイ差別を克服するものを描く」ことを意識し変化しようともしているという⁵。

 はたして、テレビドラマの制作者や視聴者はどうだろうか。『きのう何食べた?』には、史朗の生家を二人で訪れた際、スーツ姿の賢二を見て、史朗の父親から「家の中ではウチの息子が女の格好をしてるのか」と質問されたエピソードが出てくる。賢二はそれを否定し史朗の父親は安心する。

 このシーンには、恋愛は男女間でするもので、ゲイカップルのどちらかは女性的でなければならないとの思い込みを描き、払拭する意味がある。多くのテレビドラマ制作者もまた、性的マイノリティに対する偏見に加担しないようにと配慮しているように思える。さらに進んで、ゲイ男性以外の登場人物の起用、性的マイノリティの多様化をドラマで実現してほしい。

他の社会を垣間見る

 AmazonプライムやNetflix、ディズニー+などOTTの普及によって海外ドラマへのアクセスがより容易になり、視聴できるドラマの数も圧倒的に多くなった。筆者には、韓国、中国、台湾といった東アジアで制作されたドラマと、そこから垣間見える他の社会の様が特に興味深い。

 韓国版「逃げ恥」と言われた『この恋は初めてだから』(「この恋」原題を正確に訳すと「この人生は初めてだから」)(2017年tvN 脚本:ユン・ナンジュン)と日本の『逃げるは恥だが役に立つ』(2016年TBS 原作:海野つなみ 脚本:野木亜紀子)を比較してみよう。

 「逃げ恥」では、主人公の森山みくり(新垣結衣)は心理学系の大学院を修了しても就職活動がうまくいかず、父親のツテで津崎平匡(星野源)の家で家事代行のアルバイトを始めることになる。そのうち、みくりの両親が千葉に引っ越すので家事代行が続けられなくなることを告げると、平匡は給与を払うので「契約結婚」することにして、自分の家に住まないかと提案する。

 「この恋」の主人公ユン・ジホ(チョン・ソミン)は、ソウル大卒の高学歴女性で脚本家を目指してアシスタントをしていたが、アパートで同居していた弟の彼女が妊娠して親が二人を結婚させると言うので、ジホは家を出て行かざるをえなくなる。

 そのあとすぐにジホは職場のトラブルで、脚本家アシスタントの契約も切られてしまう。ジホは何とかルームシェア先を探すことができたが、女性だと思っていた大家で同居人が実は男性のITエンジニアのナム・セヒ(イ・ミンギ)だった。高額なローン返済に困っていたセヒは、格安な家賃とゴミ出しや猫の世話を条件に、ジホに「契約結婚」して同居しないかと持ちかける。

 たしかに二つのドラマは、高学歴の女性主人公−失業状態−独身男性と同居-契約結婚というストーリーが似ている。「この恋」が韓国版「逃げ恥」と言われるゆえんである。

 しかし、よく見ていくと二つのドラマのディテールや結末は異なっている。「逃げ恥」では同居してお互い惹かれ合う関係になると、平匡がみくりに結婚して専業主婦になってくれと提案する。みくりは平匡の提案を「それは、好きの搾取です」と拒絶するが、最後には家庭の共同経営者として平匡との事実婚を続ける。さらに、2021年放送の「逃げ恥」(ガンバレ人類!新春スペシャル!!)では、妊娠を機に婚姻届を出し、みくりは津崎姓となる。

 一方、韓国の「この恋」では、(偽装の)結婚式の際にセヒはジホの母親から「今後娘が脚本を書きたがったら、夢を追わせてあげてください」と頼まれる。セヒは、ジホの母親の言葉を忘れずに、挫折を乗り越えてもう一度脚本を書こうとするジホを暖かく見守る。ドラマの最後、二人は結婚にこだわることで愛し合っている気持ちが壊れるくらいなら、このままの関係がいいと事実婚を続ける。

 「この恋」を見ると、同居している弟が結婚するので女のジホが家を出るべきだと父親に言われたり、毎年キムチを漬ける時期になると帰省して手伝うことが娘の義務とされているなど、日本よりも男尊女卑の価値観や家父長制が韓国に根強く残っていることが随所に感じられる。

 だが一方で、ジホの自己実現を後押ししようとする母親やパートナーのセヒを通じて、その古い価値観に抵抗する姿も描いている。韓国ドラマでは、厳しい男尊女卑、家父長的抑圧が描かれると同時に、登場人物たちはそれに激しく対峙していく。

 筆者の最後の問いである。テレビドラマに描かれた他の東アジアの社会を知るようになって、筆者は多少の皮肉を込めて「日本社会はテレビドラマほど多様化しているのだろうか」と考えたくなっている。

 日本では夫婦別姓が認められるわけでもなく、同性カップルの法的地位を保証する制度もいっこうに整備されない。差別や不当な扱いに声を上げる女性主人公や性的マイノリティがテレビドラマで増えることは望ましいが、それだけで良しとする段階は終わっているように思う。

 女性や性的マイノリティが生きやすい社会をもたらすために、さらにドラマでどのような表現が可能か、制作者も視聴者も理解を深めることを怠ってはいけない。筆者も問い続けたい。

¹ 筆者は『GALAC』誌上で2021年4月号から「21世紀の断片 : テレビドラマの世界」を連載しており、現在も継続中である。
² 「労働力調査(詳細集計)2023年(令和5年)1~3月期平均」での非正規職員・従業員の比率は、男性22.5%に対し女性は53.7%となっている。
³ イヴ・K・セジウィック(2001)『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』上原早苗・亀澤美由紀訳、名古屋大学出版会、1-2頁
⁴ 森山至貴(2017)『LGBTを読みとく−クィア・スタディーズ入門』ちくま新書、38頁
⁵ 堀あきこ・守如子編(2020)『BLの教科書』有斐閣、226頁

<執筆者略歴>
藤田 真文(ふじた・まふみ)
1959年生まれ。 1982年、中央大学法学部政治学科卒業。1984年、早稲田大学大学院政治学研究科博士前期課程修了。1987年、慶應義塾大学大学院法学研究科政治学博士後期課程単位取得満期退学。2000年より現職。
研究テーマは、テレビドラマの物語論的分析。ニュースの言説分析。
テレビドラマに関する単著として『ギフト、再配達:テレビ・テクスト分析入門』など。

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