コロナ禍の東京2020 〜パラリンピックの意義とは
【コロナ禍での開催について、オリンピックに比べて論じられることの少ないパラリンピック。その歴史的経緯も踏まえ、東京開催における問題点に迫る】
田中 圭太郎(ジャーナリスト)
直前まで棚上げされたパラリンピックの開催形式
東京都内で新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない中、1年延期された東京2020オリンピックが7月23日に開幕した。国立競技場をはじめとする各会場の周辺には、セキュリティゾーンが広く設定されている。本来ならその内側はチケットを購入した多くの観客が行き交うはずだったが、無観客開催のため人はほとんどいない。周辺道路も封鎖されて、分断されたかのような空間が広がっている。
封鎖された国立競技場駅前(7月14日撮影)
オリンピック開会式当日、国立競技場周辺の道路を封鎖(7月23日撮影)
開幕直前には様々なトラブルも相次いだ。ウガンダの代表選手1人が行方不明になり、外国籍のスタッフではコカインを使用したとして4人が麻薬取締法違反の疑いで逮捕されたほか、アルバイト1人が日本人女性に性的暴行をした疑いで逮捕された。開会式をめぐっては、作曲を担当するミュージシャンが、過去のインタビューで障害のある同級生への苛烈ないじめを告白していたことが問題となり、開幕4日前に辞任。さらに開幕1日前には、ショーディレクターが芸人時代に「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」と発言していたコントが原因で解任される事態となった。混乱の中でオリンピックは始まった。
しかし、新型コロナの感染者は、オリンピック開幕後に過去最多を記録。このような状況下で、未だに開催の形式が決まっていないのが、8月24日に開幕するパラリンピックだ。本来はオリンピックとは別の大会であるにもかかわらず、組織委員会が一体となっていることもあり、1年延期などの議論が個別に展開される機会はここまでほとんどなかった。もっと早く決める予定だった観客の有無は、オリンピックの状況を見た上で判断されることになり、棚上げされている状態だ。
パラリンピックのエンブレムやシンボルマークは、大きなものは8月下旬にならなければ設置されないため、まだ多くの人の目には触れていない。パラリンピックの名称は知っていても、開催する意義や、その歴史を理解している人は、決して多いとは言えないのではないだろうか。
パラリンピックは、障害者による世界最大のスポーツ大会であり、観客動員数は全ての国際スポーツ大会の中でも世界で3番目に大きな規模を誇る。そして東京は、夏季パラリンピックの2度目の開催地になった、世界で初めての都市でもある。本稿では、オリンピックとは異なる歴史を持つパラリンピックの意義と、現時点で考えられる開催への課題について考えてみたい。
JR東京駅前に設置されているパラリンピックのカウントダウンボード。オリンピックが開幕した7月23日には「あと32日」と表示されていた。
【引き続き「パラリンピックの発祥と歴史」に続く】
脊髄を損傷した元兵士のリハビリから発展
パラリンピックは、現在ではオリンピックの直後に同じ都市で開催されているものの、オリンピックとは異なる歴史を持つ。近代オリンピックが1896年にギリシャのアテネで始まったのに対して、第1回パラリンピックは1960年のローマ大会とされている。ただ、その起源はもう少し遡る。
パラリンピック発祥の地は、イギリスのロンドンから北西70キロ余りの位置にあるストーク・マンデビル村。緑に囲まれたこの小さな村にある、ストーク・マンデビル病院で始まった脊髄を損傷した人によるスポーツ大会が、パラリンピックの起源だった。
きっかけは第二次世界大戦。イギリスがノルマンディー作戦に参加する際、多くの戦傷者が出ることが予想されたことから、1944年にこの病院に脊髄損傷科を設立。脊髄を損傷した兵士を治療するようになった。
ストーク・マンデビル病院の旧病棟。現在はパラスポーツの競技場として使用
当時は脊髄を損傷した患者は、遠からず死に至ると考えられていた。ところが、脊髄損傷科の初代科長に就任したユダヤ人医師のルードウィッヒ・グットマンは、それまでの医学では考えられなかった治療法で患者の命を救っていく。その一つが寝たきりの状態のために発症する床ずれである褥瘡の予防。もう一つが、スポーツによるリハビリだった。特にスポーツによるリハビリは神経筋システムを回復させて余命を伸ばすとともに、身体機能を高めることで、麻痺があっても社会復帰を可能にした。患者は半年のリハビリで社会復帰できるようになり、世界から注目された。
病院では脊髄損傷患者によるスポーツ大会「ストーク・マンデビル競技大会」を1948年から開催。1952年からは海外からの選手を受け入れ「国際ストーク・マンデビル競技大会」となり、毎年開催された。これがパラリンピックの起源となる大会だ。1960年にオリンピックの開催都市ローマで開催したことから、この年の大会が今では第1回パラリンピックと位置付けられている。
現在のストーク・マンデビル病院。3色のシンボルがパラリンピックのシンボル「スリーアギトス」
世界で初めて「パラリンピック」の名称で開催
ローマ大会に次いで、1964年に2回目のパラリンピックが開催されたのが東京だった。第一部が国際ストーク・マンデビル競技大会で、日本語では国際身体障害者スポーツ競技会と表現した。第二部は国内大会として開催され、脊髄損傷以外の障害がある国内や西ドイツの選手が参加している。この第一部と第二部の総称が「東京パラリンピック」だった。パラリンピックの名称が使われたのは、この時が初めてである。
この頃の日本では、身体に障害のある人は寝たきりの生活を送っていて、スポーツをする機会はほとんどなかった。日本は1960年のローマ大会に参加していないが、この年にストーク・マンデビル病院で研修した日本人医師の中村裕が中心となって、スポーツによるリハビリを本格的に日本に持ち込む。1962年の国際ストーク・マンデビル競技大会に初めて選手を派遣すると、関係者の尽力によってパラリンピックの開催にこぎつけた。
とは言え、1964年の東京パラリンピックに出場した53人の日本人選手のほとんどが、療養所や病院のベッドで寝たきりの生活をしている人たちだった。一方で、海外から訪れた選手たちは明るく、上半身の体つきも逞しかった。欧米の多くの国では車いすユーザーだからといって就職の際に差別されないことから、選手は社会復帰を果たし、弁護士、会計士、電気や機械の技術者、営業職、記者など、障害のない人と変わらない仕事についていた。しかも、試合の後には渋谷や銀座へと飲みに繰り出す。日本の障害者との差は歴然だった。
こうした外国人選手の姿を見て、日本の関係者は大きな衝撃を受けた。それまで身体障害者福祉法はあったものの、障害者行政と呼べるものはほとんどなかったため、大会をきっかけにリハビリや障害者スポーツの普及や、障害のある人の雇用を生み出す動きが始まった。東京オリンピックに比べれば規模も小さく、多くの国民に認知されたとは言えない大会だったが、それでも障害のある人をめぐる環境を大きく変えるきっかけになった。このように開催国や参加国の社会を変えることが、パラリンピックの意義の一つでもある。
競技スポーツに発展したパラリンピック
パラリンピックの名称が東京の次に使われたのは、1988年のソウル大会。この翌年に国際パラリンピック委員会(IPC)が発足し、ソウル大会以後、オリンピックとパラリンピックは同じ都市で開催されることが定着した。この頃には競技は障害別ではなく、能力別にクラスを作って実施されるようになる。選手たちはより技術を磨くようになり、大会の競技レベルは飛躍的に向上した。冬季のパラリンピックも1976年から始まり、1998年には長野パラリンピックが開催され、日本選手の金メダル獲得が初めて新聞の一面に掲載された。日本ではこの時にパラリンピックの名称を初めて知ったという人が多いのではないだろうか。
夏季パラリンピックは回を重ねるごとに参加国と参加選手が増加し、オリンピックとサッカーワールドカップに次ぐ、世界で3番目に大きな規模の国際スポーツ大会に成長した。これまで最も成功したと言われているのは2012年のロンドン大会で、史上最多となる280万枚のチケットが売れた。2016年のリオ大会は、当初はチケット販売が伸び悩んでいたものの、オリンピックの盛り上がりを受けてパラリンピックにも足を運ぶ人が増えた。最終的な販売枚数は215万枚まで伸びて集客的には成功を収めている。
東京2020パラリンピックの成功に向けて、日本障害者スポーツ協会と日本パラリンピック委員会(JPC)は、東京2020パラリンピックの目標に、日本代表選手団が活躍し、会場を満員の観客で盛り上げることを掲げていた。しかし、会場を満員にする目標は叶わぬ状況になった。
コロナ禍でのパラリンピック開催の課題
パラリンピックの開催形式は、感染拡大などの状況を踏まえてオリンピックの閉会後に判断される。その際には、パラリンピック特有の条件も加味する必要がある。
大会の感染症対策についてアドバイスしているのは、専門家で構成する組織委員会の円卓会議。座長を務めている川崎市健康安全研究所の岡部信彦所長は、パラリンピックの方がより選手に対するケアが必要になると指摘する。
「パラリンピックはオリンピックに比べて選手の人数などのスケールは小さいですが、選手1人に対してお世話をする人の数は増えると思います。障害の程度によっても、感染に対する注意の方法が違ってきます。基本的には選手は元気な方々ですが、中には免疫的な障害や、内臓の病気を抱えている方もいます。選手たちを守るという意味で、感染を防ぐための注意はオリンピックよりも倍加するのではないでしょうか」
組織委員会に感染症対策をアドバイスする岡部信彦川崎市健康安全研究所所長
介助者の問題は、すでに顕在化している。リオ大会で3つの金メダルを獲得した水泳選手が、介助者の帯同がアメリカのパラリンピック委員会に認められず、東京パラリンピックへの出場を辞退した。生まれつき耳が聞こえず、徐々に視力も衰える難病を患っていて、日常生活にも介助者が必要な選手だった。コロナ禍でオリンピックとパラリンピックを開催するため、来日する関係者の数を絞ったことが遠因と言えるのではないだろうか。
さらに、大会中に選手に感染が広がった場合の対応にも課題がある。車いすユーザーが新型コロナの陽性と判定されるか、濃厚接触者の疑いが出た場合、ホテルで隔離しようとしても、都内のホテルにはバリアフリーの部屋は少なく、隔離先の確保は難しい。移動の手段も考えなければならない。さらに、日常的な介助が必要な選手の場合、濃厚接触者となった時、あるいは陽性者となった時に、誰が、どのようにサポートするのかについても、個別の対応が必要になる。
岡部氏は感染症の専門家の立場から、オリンピックに関しても「東京都内で入院すべき人が入院できない状況になれば、大会の中止も考えておくべきだ」と表明してきた。岡部氏は「円卓会議はあくまでアドバイスをする立場」と前置きをした上で、パラリンピックも大会の縮小や中止も含めたあらゆる可能性を視野に入れておくことが必要だと主張する。
「都内でコロナの患者が増え、選手村でも患者が増えた場合、選手は入院できるけれども都民が入院できない状態になった時が問題です。感染を広げないためには大会を開催しないのが一番良いですが、一定の流行下で開催するなら選手のため、観客のために無観客というのが私たち専門家の意見でした。感染状況と大会のオペレーションの両面から最終的な判断がなされると思いますが、厳しい状況になった場合に、大会の縮小や中止も想定に入れておくのは当然のことです。
パラリンピックの開幕までに、東京都が緊急事態宣言からまん延防止等重点措置に変われば、イベントの観客数を緩和するので有観客もあり得るかもしれません。ただ、私たちの立場からすると、パラリンピックに観客を入れたいからまん延防止措置にするということはありえません。そういうつもりでやっているわけではありません。まずは感染が拡大しないようにすること。そして開催が前提であれば、選手に大会の場を提供すること、競技ができる環境を整えることが最も重要な、基本的なことではないでしょうか」
パラリンピアンが示す可能性
パラリンピック開幕まで約50日を迎えた7月4日、パラリンピックの選手たちが大会への思いを語る「パラ知る!FITin 東京」がオンラインで開催された。主催したのはパラリンピックの選手会である日本パラリンピアンズ協会。パラリンピック22競技のうち8競技の代表選手らが、日本パラリンピック委員会委員長で日本代表選手団団長も務める河合純一氏らと、大会前の心境を語り合った。
パラリンピックの選手たちは、コロナ禍で練習場所が確保できない中でそれぞれが工夫してトレーニングに取り組んできた。ロンドン大会とリオ大会で銀メダルと銅メダルを獲得し、東京大会では金メダルを狙う水泳全盲クラスの木村敬一選手は、最高のパフォーマンスを発揮することで可能性を示したいと語った。
水泳日本代表の木村敬一選手(パラ知ル!FITin 東京」より)
「パラの水泳は道具を使わず自分の体だけで勝負する種目なので、光を失った、手や足を失ったという障害が分かりやすい競技です。残っている部分をこれだけ鍛えれば、これだけ速く泳ぐことができるという、人類の無限の可能性を感じてほしいと思っています」
また、リオ大会で6位に入賞したトライアスロンの秦由加子選手は、コロナ禍で開催されることの重みを次のように噛み締めた。
「今回はコロナ禍で開催される大会ということで、大会運営やボランティアなど本当にいろいろな方が、大袈裟ではなく命をかけて関わってくださっています。この状況で開催していただいて、選手として出場するのであれば、やはり誰かの命を助けるような、心に残る大会にしたい」
トライアスロン日本代表の秦由加子選手(パラ知ル!FITin 東京」より)
「パラリンピックを今まで知らなかった人でも、少しは見たり聞いたりする機会があると思います。その人たちが将来何かの障害を負ってしまったり、病気になって体が動かなくなったり、あるいは友達や家族が同じような壁にぶつかる時があるかもしれません。その時に、パラリンピックにこういう人がいたなという印象が少しでも心に残っていれば、その人の救いにもなるのではないでしょうか。多くの人の心に残る大会になればと思っています」
選手にとってパラリンピックの意義は、金メダルを目指すことだけではない。創意工夫を凝らして自分の限界に挑むことで、世の中に存在するバリアを減らしていくことや、障害があることをマイナスではなくポジティブに捉えることの必要性を、見ている人に気づいてもらう。その結果、より良い社会を作るための変革を起こす。これが、パラリンピックムーブメントと呼ばれるものだ。東京が世界で初めての2度目の夏季大会開催地であることの意義を、最も理解しているのは選手ではないだろうか。
新型コロナの感染拡大が、東京2020パラリンピックにどのような影響を及ぼすのかは現時点では分からない。それでも、パラリンピックが社会を変えてきた歴史と、選手たちが伝えようとしていることを、少しでも多くの人に知ってもらえればと思う。
お台場海浜公園の水上に設置されたオリンピックシンボル。8月下旬にはパラリンピックシンボルが設置される予定
<執筆者略歴>
田中 圭太郎(たなか・けいたろう)
ジャーナリスト・ライター。1973年生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業、大分放送に入社。報道部15年、東京支社営業部4年を経て2016年からフリーランス。雑誌・Webで大学をめぐる問題、教育、社会問題、宇宙ビジネス、飲食ビジネス、障害者雇用・バリアフリー、パラリンピック、大相撲など幅広いジャンルで執筆している。著書は『パラリンピックと日本 知られざる60年史』(集英社)。
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