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曖昧な弱者とその敵意―弱者バッシングの背景に

【一般に社会的弱者とされている人々へのバッシングがネット上で続いている。その背景には「新しい弱者」「曖昧な弱者」の存在がある。メディアはこの問題にどう取り組むべきだろうか】

伊藤 昌亮(成蹊大学文学部教授)


薄く広がるヘイトスピーチ

 ヘイトスピーチが止まらない。といっても、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などがかつて街頭で繰り広げていたような、激烈で直接的なものではない。よりやんわりとした、どこか皮肉っぽい言いまわしのもので、しかも在日外国人などだけではなく、より多様な社会的弱者を「ディス」ろうとするものだ。とりわけ若い世代のオピニオンリーダーと目される人々から、インターネット上の新たなメディアを通じて、そうした発言が繰り返しなされている。

 たとえば2021年8月には「メンタリスト」のDaiGoが自らのYouTube番組で、生活保護受給者やホームレスを誹謗する発言をし、大きな問題となった。また、同年12月には経済学者の成田悠輔がABEMAの番組で、「高齢者は集団自決すればよい」などと発言し、海外のメディアにも取り上げられるなど、大きな論議を呼んだ。さらに2022年10月には「2ちゃんねる」の創設者のひろゆきが、やはりABEMAの番組との関連で、沖縄の市民運動を中傷する発言をTwitterに投稿し、大きな論議を呼んだ。加えて同年にはゲームクリエイターの暇空茜が、女性運動団体のColaboに対してYouTubeやTwitterで批判を繰り返し、いくつかの訴訟を含む大きな問題となった。

 このように生活保護受給者、ホームレス、高齢者、沖縄の人々、女性など、一般に社会的弱者とされている人々へのバッシングが繰り返されている。2010年代を通じて反レイシズム運動やフェミニズム運動が盛り上がり、2016年6月にはヘイトスピーチ解消法が施行されるなど、反差別の動きが着実に広がってきたにもかかわらず、その一方でヘイトスピーチが止むことはなく、それはいわば薄く広がりながら、今やネット空間を覆ってしまっているかのように見える。

 こうした「弱者バッシング」はなぜ繰り返されるのだろうか。そこには誰からの、どのような敵意が込められているのだろうか。本論ではこれらの点について考えてみたい。

明確な弱者と曖昧な弱者

 ここでまず、かつてのヘイトスピーチの急先鋒だった在特会の幹部の発言から、今日的なヘイトスピーチの論理を探ってみよう。その幹部は「我々の運動は階級闘争だ」として、次のように語っていた。「恵まれた人々によって在日などの外国人が庇護されている。差別されてるのは我々のほうですよ」(1)。

 ここで言われている「恵まれた人々」とは、社会的弱者を「庇護」している人々であり、リベラル派、とりわけ知識人、ジャーナリスト、市民運動団体などを指すものだろう。「在日などの外国人」はそうした人々によって「庇護」されているが、一方で「我々」は「庇護」されておらず、むしろ「差別」されているという。

 いいかえれば前者は社会的弱者と見なされているが、後者は見なされていない、ということだろう。つまり「我々」もまた弱者であるにもかかわらず、そう見なされていないため、「庇護」の対象から外されてしまっている、というわけだ。そのため「差別」されていると感じられるのだろう。

 ここでリベラル派の「弱者像」、つまり社会的弱者とは誰かという点についてあらためて考えてみよう。

 元来、リベラリズムはその歴史的経緯から、いくつかの立場で社会的弱者を定義し、その支援に努めてきたと考えられる。その一つは従来の福祉国家論の立場であり、そこでは社会保障や公的扶助の主たる対象者として、高齢者、障害者、失業者などが想定されている。

 もう一つは近年のアイデンティティポリティクスの立場であり、そこではとりわけジェンダーとエスニシティ(民族性)に関わるマイノリティとして、女性、LGBTQ、在日外国人などが想定されている。加えてとくに日本の場合には、戦後民主主義の立場から、さまざまなかたちの戦争被害者がそこに含まれることになった。

 これらの存在、すなわち高齢者、障害者、失業者、女性、LGBTQ、在日外国人、戦争被害者などが、いわばリベラル派の「弱者リスト」の構成員であり、社会的弱者とは誰かという点について、社会一般の了解となっているものだと言えるだろう。

 しかし今日では、このリストに収まり切らない「新しい弱者」が現れてきているように思われる。たとえばひろゆきは彼なりの見方に基づく弱者像として、「コミュ障」「ひきこもり」「ニート」「うつ病の人」などを挙げ、そうした人々への共感を表明している。また、成田が高齢者を攻撃する発言をしたとき、そこで暗黙的に想定されていた弱者とは、「若者」という存在だったのだろう。

 これらの「新しい弱者」は、しかしリベラル派の「弱者リスト」の構成員のように、明確な属性によって定義されるものではない。たとえば「若者」という属性一般が弱者のそれかというと、そうとは言えないだろう。

 いいかえればこれらの存在は、今日の複雑な社会の中で、その弱者性がさまざまなかたちで現れてきているものであり、それゆえに曖昧な存在だと言えるだろう。従来の社会的弱者を「明確な弱者」と呼ぶとすれば、こうした存在を「曖昧な弱者」と呼ぶこともできるのではないだろうか。在特会の幹部が「我々」と言うことしかできなかったのも、その弱者性の曖昧さのゆえだろう。

「真の弱者」の階級闘争

 ここでその幹部の発言に立ち戻ってみよう。そこでは「恵まれた人々」すなわち「強者」であるリベラル派により、「在日などの外国人」すなわち「明確な弱者」が「庇護」されている一方で、「我々」すなわち「曖昧な弱者」は「庇護」されておらず、そこに「差別」的な扱いがあるとされている。

 しかもいわゆる在日特権などの「特権」が、「強者」から「明確な弱者」に与えられているため、「明確な弱者」は実際には弱者ではなく、「偽の弱者」にすぎず、「我々」こそが「真の弱者」なのだ、という含意がそこにはあるのだろう。その結果、「強者」とそれに守られた「偽の弱者」に対する「真の弱者」の戦いが、「階級闘争」と表現されることになる。

 こうした論理は、社会的な事実に照らせば荒唐無稽なものであることは言を俟たない。しかしそれにもかかわらず、それが一時期、一部の社会運動を支える論理として熱烈に支持されていたことも事実だ。

 さらに今日ではこうした論理が、より薄められたかたちでではあれ、ネット上のオピニオンリーダーたちの、ヘイトスピーチまがいの発言の支えになっているのではないだろうか。実際、そこでバッシングの対象とされているのは、リベラル派の「弱者リスト」の構成員である「明確な弱者」ばかりであり、また、生活保護や高齢者福祉などがある種の「特権」として扱われているような含意も窺われる。

 だとすれば彼らは、リベラル派の「弱者リスト」からこぼれ落ちてしまった「曖昧な弱者」に理解を示し、その立場に寄り添おうとしていると見ることもできるだろう。だからこそ、今日の複雑な社会の中でその弱者性をさまざまなかたちで「こじらせて」しまっている若い世代から、とくに大きな支持が得られるのだろう。

 しかしそのために、つまり「曖昧な弱者」への共感を表明するために彼らがしばしばやってしまっているのが、「明確な弱者」への反感を表明することだ。つまり彼らは、「曖昧な弱者」への共感を「明確な弱者」への反感に転換してしまっている。その結果、ヘイトスピーチまがいの発言が飛び出してくることになる。

 だとすれば彼らは、「曖昧な弱者」という漠然とした層をその支持者として取り込むべく、「明確な弱者」とそれを守っている「強者」を、ある種の「特権」に守られた既得権益層として攻撃するという意味で、一種のポピュリストだと見ることもできるだろう。

 かつてアメリカのドナルド・トランプ元大統領が、「ラストベルトの白人労働者」という「曖昧な弱者」を可視化し、自らの支持層として取り込むべく、マイノリティという「明確な弱者」とエスタブリッシュメントという「強者」を攻撃したのと同じような構図が、こうしたところにも現れているのかもしれない。

実存的弱者と属性的弱者

 ここであらためて考えてみよう。弱者性とは元来、人それぞれに固有のものだろう。強者としての属性をどれだけ持っていようとも、その人の生そのものの中に何かしらの問題があれば、それが弱者性となりうる。そうした弱者性を、個々の実存そのものから来るそれという意味で、「実存的弱者性」と呼ぶことにしよう。

 しかし福祉政策や文化政策など、一定の社会政策によって社会的弱者を支援しようとするとき、個々の実存の問題に個別に対応しているわけにもいかない。そこで特定の属性によって弱者性を定義し、そこに支援を振り向けていくことになる。そうした弱者性を「属性的弱者性」と呼ぶことにしよう。

 これまでリベラリズムは、福祉国家論、アイデンティティポリティクス、戦後民主主義などの立場に立ちながら、「属性的弱者」を慎重に定義し、その「弱者リスト」を運用してきた。しかし今日では、そこに定義されている属性には回収されない、新たな「実存的弱者」がさまざまに現れてきている。いいかえれば「属性的弱者」の定義と「実存的弱者」の実態との乖離が、これまでになく大きくなっているのではないだろうか。

 その狭間に立ち、それぞれの「実存的弱者性」を抱え込んでいる人々は、自らをうまく定義してくれる属性が存在しないため、ときにそれを捏造し、新たな「属性的弱者性」を仮構しようとする。

 その典型的な例が「弱者男性」というものだろう。そこには実体はなく、実際にどのような者が「弱者男性」なのかという基準も明らかではない。それはただ「女性」という属性に対抗するためだけに仮構された、いわば対抗的な階級概念にすぎない。そのためそこからは、「女性」という「偽の弱者」に対する「真の弱者」の階級闘争が、反フェミニズム運動などとして繰り広げられることになる。

 するとそうした動きを捉え、「弱者男性」という「曖昧な弱者」を自らの支持層として取り込むべく、一部のオピニオンリーダーがその論調を過激化させていきながら、ヘイトスピーチを繰り広げる。

 今日、ネット上で盛んに繰り広げられている反フェミニズム、さらにはミソジニーの動きの背後には、こうした構図があるのではないだろうか。そしてそれは、今日的なヘイトスピーチの構造の縮図でもある。

メディア環境の問題として

 ではこうした状況に、メディアはどう取り組んでいくべきなのだろうか。最後にこの問題を、今日のメディア環境をめぐる問題として捉え直してみよう。

 近年、テレビがつまらなくなった、などという声がよく聞かれる。その理由としてよく挙げられるのは、既存のテレビ局がコンプライアンスや、いわゆるポリティカルコレクトネスに配慮し、マイノリティなどをめぐる表現に気を使いすぎているからだ、というものだ。つまり「明確な弱者」に配慮しすぎている、ということだろう。

 そうした不平を言う人々は、既存のメディアが「明確な弱者」に配慮しすぎる一方で、「曖昧な弱者」にあまり寄り添っていないと感じているのではないだろうか。そこで新たなメディア、たとえばYouTube、SNS、インターネット放送などでは、そうした人々の歓心を買うために、「曖昧な弱者」に寄り添う姿勢を強く示そうとして、「明確な弱者」をあえて「ディス」る、というアプローチが採られがちになる。

 その際、既存のメディアは、「明確な弱者」と結託しているエスタブリッシュメントとして位置付けられ、一方で新たなメディアは、そうした秩序への果敢な挑戦者として位置付けられる。そのため後者では、既成の秩序に挑戦するものとして、あえて常識外れ、タブー破りの発言をすることが歓迎されるような雰囲気になりがちだ。その結果、ヘイトスピーチまがいの発言が誘発されてしまうのではないだろうか。

 このようにこの問題の背後には、テレビとインターネットが複合して形作られている今日のメディア環境の中で、新旧のメディアが競合しているという状況があるように思われる。

 そこではもちろん、ヘイトスピーチを誘発してしまう新たなメディアの責任がまず厳しく問われなければならないだろう。しかしその一方で、既存のメディアはこうした状況に無関心でいてもよいのだろうか。

 それがエスタブリッシュメントと見なされ、いわば安全圏から「明確な弱者」を庇護しているだけの「強者」として捉えられるばかりだと、そうした立場への反発から、やがてポピュリズム的な感情が膨れ上がり、一部のポピュリストに煽動されるかたちで、より深刻なヘイトスピーチがそこから生み出されてしまうことにもなりかねない。

 そうした事態を避けるためには、むしろ既存のメディアこそが、一方で「明確な弱者」を支援するという姿勢を確実に保持しながら、他方で「曖昧な弱者」を発見し、理解するという姿勢を、いいかえれば「実存的弱者性」のさまざまな現れをきめ細かに拾い上げていくという姿勢を、より明確に打ち出していくべきなのではないだろうか。

【注】
(1)安田浩一(2013)「正義感の暴走~先鋭化する在特会とレイシズム~」安田浩一・岩田温・古谷経衡・森鷹久『ヘイトスピーチとネット右翼―先鋭化する在特会』オークラ出版。

<執筆者略歴>
伊藤昌亮(いとう・まさあき)
1961年生まれ。成蹊大学文学部教授。専門はデジタルメディア論。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。日本IBM、ソフトバンク株式会社勤務、愛知淑徳大学現代社会学部准教授、フリードリヒアレクサンダー大学日本学講座客員研究員などを経て現職。著書に『フラッシュモブズ』(NTT出版)、『デモのメディア論』(筑摩書房)、『ネット右派の歴史社会学』(青弓社)、『炎上社会を考える』(中央公論新社)など。

 

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