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放送界の先人たち~磯村尚徳氏

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【放送界に携わった偉大な先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から「ニュースセンター9時」の初代キャスターを務め、ミスターNHKと呼ばれた磯村尚徳氏のインタビューをお届けする】

放送人の会


放送人の会とは

 一般社団法人「放送人の会」という団体があります。NHK、民放、プロダクションなどの枠を超えて、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に強い関心をもつ人々が、個人として参加している団体です。

 「放送人の会」では、「放送人の証言」として215人におよぶ大先輩たちのロングインタビューを映像として収録しており、この記録を文化財として社会に還元することを目的として、iU(情報経営イノベーション専門職大学)とともにデジタルアーカイブプロジェクトとして企画を進めております。既に昨年春からYouTubeに30人の証言をパイロット版としてアップし、一般公開をしております。

 今回「調査情報デジタル」でも先達の「証言」を紹介したいと考え、テキスト版の抄録を初公開いたします。前回は「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などで知られる演出家の鴨下信一氏のインタビューをご紹介しました。

 今後も随時文字ベースで公開したいと思っています。

磯村尚徳氏とは

 1974年に始まったNHKのニュース番組「ニュースセンター9時」の初代キャスターを勤め、ミスターNHKと呼ばれた。

 1929年東京生まれ、幼少期は駐在武官だった父親と一緒にトルコで過ごし、現地のフランス人学校に通う。1953年にNHK入局、インドシナ、中東、ワシントン特派員を歴任したのち外信部長に。

 1974年4月から「ニュースセンター9時」の初代編集長兼キャスター。

 1991年都知事選立候補のためNHK退職。その後パリ日本文化会館館長などを務めたほか、1998年の長野五輪では開会式の総合司会を担当した。2023年12月6日、94歳で没。(なお「ニュースセンター9時」は「NC9(エヌシーナイン)」と略称され、1988年まで続いた。)

本証言について

 2005年6月14日収録、A4版テキスト33ページにわたるテキストから抄録。

 聞き手は、放送人の会会員でNHK出身の各務孝氏と、RKB毎日放送出身のドラマ演出家、久野浩平氏(いずれも故人)。校正・注釈はNHK出身の隈部紀生氏と北村充史氏、TBS出身の岡田裕克氏。

磯村尚徳氏の証言(抄)

どうしてもフランスに行きたかった!

各務 磯村さんは確か、1953年にNHKに入局されたわけですけれども、もうそのときから、将来、国際ジャーナリストとして生きていこうという、強いご覚悟のもとに入局されたわけですか。

磯村 そんなきれい事ではございませんで、私の場合には、外国、それも特にフランスに行きたいという希望を持っていました。

 東大受験に失敗したものですから、役人で、特に外務省の外交官で東大出でないというのは、大変なので、じゃ別の道を選ぼうということで。フランスに行ける最短の道は、当時は商社か、あとはジャーナリズムですね。

 いろいろ諸先輩に当たったら、NHKに入っておけば、一番手っ取り早く外国に行けそうだ、朝日や毎日より若くしてフランスに出してもらえるだろう。大変高邁なジャーナリスト精神などではなくて(笑)、フランスに行きたしと思っていて、ジャーナリズムがたまさかそこにあったので入ったというだけのことでございます。

各務 確か私の記憶では、磯村さんは入局された翌年に、フランスとベトナムが戦争をしていて、その特派員としてレポートをされたのではないですか。

磯村 そうなんです。まさに運がいいといいますか、先輩のおっしゃったとおりで、入局して翌年、1954年にインドシナ戦争という、フランスとベトミンというベトナム共産党との戦いが起こります。

 これは大変な事態だろうということで、当時の前田外信部長※の決断で貴重な外貨を使って、さて誰を出そうかということになりました。戦地ですからね。いまは逆で、イラクの戦争なんていうと、みんな労働組合員ではない管理職を出します。万一のことがあった場合に、組合員ではあとがうるさい。当時は逆でして、若ければ係累が少ないだろうということで(笑)。それがまず一つ。

※ 前田義徳(1906~83)のち第10代のNHK会長に就任、朝日新聞出身。

 もう一つは、フランス語が出来る人を局内で探したら、皆さん兵隊さんか何かに取られて、ほとんどおられない。

 今度、NHKに放送記者で入った磯村というのはフランス語が割合出来るらしいということで、フランス語の試験の成績も良かったものですから、そういうことで白羽の矢が立ちまして、ちょっと危なっかしいけど、とにかくやれということでまいりました。

ひとりで、録音機を背負ってベトナムへ

磯村 そのときNHK、管理職も30人ぐらいしかいなかったと思いますが、会長以下管理職が全部並んで、その前を私が。当時は録音機です。これも古い話で恐縮ですけれど、いまをときめく世界企業のソニー製ですが、ソニーとは言わないで、東通工※とかって言いましたね。手巻きの録音機で、それの初めてぐらいのケースです。その重いやつを担いでまいりました。全管理職の前を通って、「行ってまいります」ということで皆さんの拍手を浴びながら行く。

※  東京通信工業㈱ ソニーの前身。音声テープ録音機(デンスケ)は当時の取材で活躍した。

各務 まだラジオですね。

磯村 ラジオです。1953年にテレビは始まったのですが、当時のテレビニュースというのは、ご承知のように、今みたいな現場からどんどんというのではなくて、海外便り的な、時間が経っても腐らないネタを普通の16ミリ(フィルム)で撮って、4~5日後に見るというような時代ですから、全くラジオ・オンリーですね。ですから、音声だけをテレビでも一部は使いましたけれども、ほとんどは全部、ラジオのための放送で行ったわけです。

各務 最初のインドシナ戦争のときは、東通工のテープレコーダーでとられた音声は空輸して放送したわけですか。

磯村 その時は、フランスの持っている放送局が、ハノイとかサイゴンとか、主だった都市にありましてね。これも今の方は想像出来ないと思いますが、当時(1954年)は国際電話というのは高いうえに音の質がすごく悪くて、プロの使い物にはならないんですね。

 特にああいう辺鄙なところの場合は海底ケーブルもありませんし、完全な無線ですから、放送局同士の、放送局からしゃべるとマイクですから音声もいいですし、それから一番いい周波数を取りますので、同じ短波でも一番状態のいいあれで聞けるわけです。

 ですから、私はそういう前線などで取材してきた録音テープと自分のリポートを、深夜とか早朝とか、サイゴン放送やハノイ放送の空いた時間にスタジオに入って日本向けにやらせてもらいました。

 戦後間もない日本からまいりました私のような敗戦国の人間にとっては、サイゴンの街なんかを歩くとパリの街そのものなんですね。まことに違った文明に来たみたいな感じで大変に強い印象を受けて、その後ますますフランスが好きになって(笑)、フランスで一生飯を食うきっかけになったのはそのせいだろうと思いますね。

憧れのパリから派閥記者として大野伴睦番へ

磯村 その後、中東の出来事を取材していましたら、一応そこそこの仕事はしたのでしょう。かねての望みであったパリ特派員にするということで、私は東京に帰らないでカイロから直接、パリに赴任することになりました。それでパリに1958年から62年まで4年間程おりました。

 その外国の特派員生活をやって東京に帰りましたら、上司が少しは日本のことを勉強しろということで、先輩の温情で政治部に。その政治部も、最も日本的なところをおまえの勉強のためにあれするということで、大野派担当になったわけです。

 そのときの各社の中で、今をときめく渡邉恒雄※さんが大野派の派閥記者の各社の代表で、私はよく冗談に「牢名主みたいなものだなあ」と言ってからかっていました。

 ナベツネさんはいま巨人軍のことやなんかでいろいろ叩かれていますけれども、昔から飛び抜けて優秀な記者でした。大野伴睦さんというのは、全く日本的義理人情の、田中角栄さんにしんにゅうを掛けたような方です。

※ 渡邉恒雄(1926~ )読売新聞社主筆。大野伴睦は当時の自民党派閥の領袖のひとり。

渡邉恒雄さんのこと

磯村 ちょっと横道にそれますけれども、渡邉恒雄さんというのは、東大の哲学を出ていて横文字もよく読める。しゃべる方は駄目だけど。そういうような人が入り込んで、実に日本的政治家の心をつかんだというのを横で見ていまして、「日本の政治というのはこういうものかなあ」と大変勉強させてもらいました。

 ですから、ナベツネさんとの縁はそこから始まりまして、逆に彼が読売新聞のワシントン支局長でワシントンに来たときは、ご恩返しといいますか、私が今度は通訳をしたり、だいぶお手助けをしました。それ以来、仲はいいんですけどね。まあ、これはあまり本筋には関係ないことですが。

 それから経済も勉強しろと言われて経済部に行ったりしました。結局、東京には3年しかいなかったのですが、そのあと管理職になりまして、ワシントンの支局に行けということで、都合いたしますとワシントンに7年ぐらいおりました。

テレビに出演するようになったわけ

磯村 日本について言えばだんだんと国際上に復帰してくる1964年から71年までの間です。どんどんベトナム戦争の泥沼に入っていくアメリカというものも経験しました。ニクソン大統領の登場、そして沖縄返還交渉、日米繊維交渉といったような時代ですね。

 帰ってまいりまして東京で外信部長という役職をやらされたのですが、最初の仕事が、ニクソン大統領の訪中(1972年2月)でした。歴史の目撃者みたいな。初めてアメリカの大統領が北京に着いた時の状況が、今の方にはごく普通のことですけど、衛星中継で。

 画像はそんなに良くなかったのですが、とにかく中継されて、そういうものを普通のアナウンサーの方では咄嗟にコメントが出来ないということで、アナウンサーが状況描写をして、外信部長の私がコメンテーターとしてしゃべったんです。

 そんな中継とかいろいろなものをやっていたものですから、それを上司が聞いていて、「これから記者がどんどん現場でしゃべることになる。新しいスタイルの番組をやるのだったら磯村にそのままやらせろ」と言われた。それで「ニュースセンター9時」になるわけです。

ソ連より躍動感がなかったNHKニュース

磯村 研究チームのころに我々は、当時のソ連のテレビの、主な時間帯のニュースのカセットを全部取り寄せて、研究チームで見たんです。共産圏のテレビは、当時、さすがに北朝鮮のテレビはなかったですけどね(笑)。いまの北朝鮮のテレビを時々ご覧になるでしょ。あれのような感じだったですね、あのころのNHKのテレビニュースは。

各務 そうですね。

磯村 ソ連のテレビニュースでもやはり躍動感がある。NHKのはない。これは何とかしなくちゃいけないというので、我々がこういうものでいきたいという雛型を上司に見せると同時に、編集してもらった外国のニュースのフラッシュをお見せしました。

 これはかなり説得力があったようで、守旧派も「じゃやっぱりやらせてみるか」ということになった。ただ、やらせてみるについては、7時のニュースはNHKのニュースの生命線だから、9時ぐらいのところでやったらどうかということでした。

ニュースキャスターの誕生

磯村 「キャスター」というのは、後に週刊誌が、それも決してNHKには好意的とは言えない「週刊新潮」が名付けた和製英語です。

 私の「ニュースセンター9時」が始まったときに記事を書きまして、磯村というのはなんかこの頃やっていて、キャスターと言うらしい。言うらしいって、彼らが名付けたようなものなんですけどね(笑)。

 「キャスターとは何かというと、評論家ほどの見識はいまだ持たず、アナウンサーより日本語が下手な人間のことを言う」。そのようなことを言われてコンチキショウと思ったのですが(笑)、そんなことを言われるぐらいのあれで、とにかく私がキャスター。これは正式な英語ではいまだにアンカーマンと言いますが、そういう役をやる。

 本当の意味でアンカーマンと言わせるには、編集権まで持たなきゃだめなんですよね。人から押し付けられたもの、ただ並べられた材料をしゃべっているだけじゃね。そういう意味では、大変でしたけれども、一応オーソドックスに私が全責任を持つ。

 ニュースのオーダー1つ決めるにしても、7時のニュースは報道局全体の意志で決めるのだけど、このプロジェクトチームでやるのは自由裁量を認める。いまで言えば特区ですね。よく規制緩和特区なんて言いますでしょ。経済特区というのがあったけれども、何かそういう特区的な扱いを受けていましたので、かなり自由にやらせてもらいました。

 一番よく言うのは、相撲の北の湖が最短距離の21歳2か月で横綱になるというニュースをトップに持ってきたり、長島の引退というのもトップにきました。いまでは日本も、事件の中心部にメインキャスターが行くということをしょっちゅうやっていますけれども、私自身もいろいろな外国に出張して、そこから放送するというようなこともいたしました。

番組のプロンプター導入はTBSが早かった

磯村 今の話になりますけれど、テレプロンプターという技術革新があって、いまはカメラを向いてしゃべっていると全部そこに字が出てきますから、ほとんどのキャスターと称する人たちは全部読んでいますね。ちょっと大写しになって目の動きを見ればすぐ分かります。

 本当にテレプロンプターを使わないで自由闊達にやっていたのは、最盛時の久米宏さんとか、最近の筑紫さんとか、そういう人であって、NHKでは私以後まず、残念ながらこれだけは空前絶後で、私の前にもそれはいないし、後でも、原稿を見ないでしゃべるという人はまずいないと思いますね。

各務 田英夫※さんがやはり証言なさっているんです。それを聞きましたら、テレプロンプターをアメリカで勉強してきて、TBSで作らせたという話をなさっていますね。

※ 田 英夫 (1923~2009)共同通信からTBSに。のち参議院議員。

磯村 ええ。その田さんの話は面白いんです。田さんらしく近代的なのですが、それまでにTBSは入江徳郎さんとか、古谷(綱正)さんとか、毎日新聞とか朝日新聞出の記者としては優秀な人たちがいた※。入江さんは(朝日新聞の)泣虫記者として有名な方だし、古谷さんも毎日新聞で一家を成した方ですよね。入江さんというのは非常にお人柄だから、当時はしょうがない。

※入江徳郎(1913~89)、古谷綱正(1912~89)ともに「JNNニュースコープ」のキャスターを務めた。

 テレプロンプターがまだ無いときは、フロアディレクターが、後ろに大きな字で原稿を書いて見せるわけですね。ところが、入江さんは正直だから、「早く次のをめくれ」と催促したというのが残っているそうです(笑)。そういうのからテレプロンプターにきたのです。

 それも私の場合には1週間使っていたのですが、どうも、あると読むんです、人間はやはり弱い存在なので。テレプロンプターなり何なり書いたものがあれば読んでしまいます。

 私は項目を忘れるといけないし、数字も間違えるといけないから、そういうのはちゃんと大きな字で秘書に書いてもらうし、私の手元にありまして、今お話ししているような調子で、普通に語り掛けるということをやったんですね。いま、語り掛けるという感じで、原稿もなくやっている人というのは非常に少ない。

 確かにおっしゃるとおり、正確に言えば、田さんがTBSでなすった、報道経験のある記者が画面に顔を出すというものの走りでしたから、私はそういう意味での初めてのケースではないのですけれども、初心が生きていないのが大変残念なところで、もうちょっと放送人だということを認識して、書くことが命だというような馬鹿なことを言わないで(笑)。

「ニュースセンター9時」を辞めたかったわけ

磯村 やはりテレビというのは正直にいろいろなものを出しますから、自信がない、自分が得手としていないものをしゃべるときには、目の中にチラッとした不安の影が宿るとか、どうしてもそれが表情のどこかに全部見えてしまうわけです。

 それは茶の間で見ている人たちが敏感に感じ取るものなので。そういう全人格を表すようなものだから、しかも私は、ニュースの選択みたいな編集長の役も一緒にしなければいけない。非常な激職になるわけで、出来るだけ早く辞めたいと思っていたんです。

 ちょうど国際化の時代に入っていたころで国際ニュースは確かに多かったのですが、ニュースの根幹をなすのはやはり近場のことです。そうすると、切った張ったも含めて社会部的なニュースになる。いまは世相が悪くて、それこそ社会部的な変な事件が起きますけど、当時でもやはりいろいろありましたよね。

 そういうときは、私はもうしょうがないので、自分が知らないことはしゃべらないという流儀にしていまして、その現場を取材している記者にパンと渡してしまうんですね。で、その人にしゃべってもらう。

 そういうことで幾分はもったのですが、確かに、自分が得意としている問題じゃない問題に話が行ったときには、いかに丸投げをしても、やはりどこかあまり情熱のない丸投げで(笑)。それとか、メインキャスターというのは立場上、いろいろ質問もしなければいけません。質問をする時もあまり的確な質問も出来ないし、だめなんで。私が3年で降りたときの最大の理由はそれでした。長くは茶の間をごまかせないので、やはり本職に戻して欲しいということで辞めさせてもらったのです。

ロッキード事件と「ニュースセンター9時」

各務 もう一つ、磯村さん時代の「NC9」で一番視聴者の印象に残っているのは、例の田中角栄さんの所へ当時のNHK会長の小野さんが、出勤前に見舞いに行ったということがあります。それが引き金になって辞職されましたよね。確かその晩の「NC9」で、磯村さんがそれをアンカーマンとしてお詫びになったということがありました。あれは独自の判断でなすったわけですか。

磯村 そうです。要するに、当時の小野会長が、昔の上司であった人が出所した時にお見舞いに行ったということは、日本人の道徳としては……、それも裏口から行ったのですが、どこかでばれてしまって大騒ぎになりましたね※。

※ 小野吉郎 NHK第11代会長。郵政事務次官時代に田中角栄郵政相に仕える。1976年ロッキード事件で逮捕後、保釈された田中角栄の私邸に当時の小野会長が見舞いに訪れ問題となった。

 部内でもいろいろなあれがあって、やはり頬っ被りするわけにはいかないので、とにかくそういう事実だけでも伝えておこう。そういうことが盛んに出たのですが、とにかく会長の進退は会長がお決めになるので、ニュースでは取り上げないという方針でずーっと来ていたわけですね。

 先ほどからのお話のコンテキストにありますように、自分を偽らないでそういうものをきちんと出す。自分の責任をもってやる。そのようなことであったわけです。それなのに、これだけ世間を騒がしているのに何もNHKが答えない。しかも、「ニュースセンター9時」が答えないというのはどう見てもおかしいと思いましたのでね。

 今だから言うと、私はもうそろそろ疲れ切っていまして、できたらNHKを辞めて、幸いにもフランスで飯が食っていけるから、それとなくいろいろ就職活動もいたしまして、フランスに行けそうなメドも立ったし、これは辞め時かなと思った(笑)。それぐらいの覚悟でですね。

 ただ、道連れにして迷惑をかけてはいけませんので。私もこう見えても日本人なのでそういう浪花節的なところがありますので、それを一つ、いろいろ考えていたんです。そうしたら、いろいろな騒ぎになっているのに7時のニュースでもやらない。じゃこれがやるどきだと思って、勝部君だけを呼びました。

※ 勝部領樹(1931~2018) NC9二代目キャスターとなる。社会部出身。

 勝部君はその晩の編集責任者だったものですから、「僕はこれからこういうことを言うけれども、あなたは全く知らないことにしておいてもらって、スタッフの連中も全員知らないことだし、『ニュースセンター9時』まで道連れにするつもりはないので」。

 そういうことでパッと葉書を見せまして、こんなに皆さんからいただいている。これに対して何もまだ正式のお答えをしていない。ニュース自体もお答えしていない。これから申し上げることは私が上司に諮らないで私個人のあれで申し上げる。

 これまで「ニュースセンター9時」は視聴者の声にどんどんお答えする対話路線というか、視聴者とあれすることを偉そうに言ってきた手前上申し上げると、今回の出来事は非常に遺憾だし、先輩のなすったことだけれども、誠に残念なことだと思う。皆さんの憤りもよく分かるので、私はこの事実をまずお伝えしたいということを言ったわけです。終わったらもう大変な騒ぎでした(笑)。

 そうしたら皮肉なことに、局外の視聴者の評判がものすごく良かったわけです。もう掛かってくる電話は、「よくぞ言ってくれた。これまでNHKだけは一言もそのことに触れなかったのが、さすが『ニュースセンター9時』で磯村が言ってくれた。これなら俺も受信料を払う」というような話ばっかりで。そのうちに小野さんは、その翌々日でしたか、一両日中だったと思いますが、お辞めになった。

いろいろ言われたキャスター引退

磯村 局内でも、「何だ、磯村だけいい格好しやがって」というのがもちろん多いですね。私も組織の人間としてはちょっと過ぎたことだと思いましたので。そういうこともあって、他人の書いた原稿をしゃべっているだけならまだ何年でも続けられるけれども、編集長と両方を兼ねてやっているわけだから、降ろさせてくださいということを申し上げて。

各務 辞めさせたらまた大変だ。

磯村 ええ。でも結局、それから半年ですか、とにかく望みどおり辞めて、パリに行かせてもらいたいということを盛んに言っていたのですが、NHKではパリというのは出世の道ではありませんから(笑)。「よく3年間、『ニュースセンター9時』で頑張ったからアメリカ総局長にする」「アメリカは7年行ってもうたくさんです。それなら辞めさせていただきます」。

 そうしたら「週刊文春」でしたか、「ミスターNHK、婦女子のごとくパリにあこがれ、夢のヨーロッパ総局長に」とあった。「婦女子のごとく」というのが気に食わないんですよね(笑)。要するにそんな時代でした。

冷戦後の世界

各務 磯村さんがボーン・上田賞※を受章されたのは何によってされたのでしょうか。

※ ボーン・上田記念国際記者賞 1950年に創設されたジャーナリズムの賞。

磯村 何といっても「ニュースセンター9時」で国際ニュースをテレビの視聴者に近づけたというのが、直接の受賞理由です。でもあの選考委員会というのは、新聞社の幹部ですからみんなプロの方ですからね。私の自慢話になりますけれども、「あの時・世界は」の中で「ワルシャワの墓標」※ というのをやりました。

※ NHK特集 1978年「あの時・世界は・・・ 磯村尚徳・戦後世界史の旅」、N特(現在のNHKスペシャル)大型企画のはしり。

各務 ああ、ありましたですね。

磯村 要するに第二次大戦後、アメリカとソビエトの二大陣営に分裂していく。その原因になった不信感の最たるものが、例えばポーランドの戦後処理であり、いわゆる独ソ不可侵条約というようなナチス・ドイツとスターリンの共産主義との密約によって、国盗り物語のようなことが起きた。それでヤルタ協定というものがあって、こういう世界の秩序が出来た。

 カチンの森事件※というのがありますね。それまでソ連にとっては絶対タブーで、日本のメディアもソ連に遠慮して全く取り上げなかったのをあえて取り上げたわけですね。

※1940年ポーランドに侵攻したソ連軍が、捕虜にした多数のポーランド軍将校を虐殺し、カチンの森に埋めた事件。1990年ゴルバチョフ政権はこの事実を認めた。

 いまにして思うと、冷戦の終結を予兆させるようないろいろな取り上げ方をしたということで、プロの間では大変ご評価を受けて、あの賞に至ったのだと思います。

田中金脈とNHK

磯村 ちょっと話がプレーバックしますけれども、ロッキード事件のときも、我が社の政治部も朝日新聞の政治部もどこも大体あの種のことは知ってたわけです。ところが、やはり派閥記者の悲しさで、村八分になりますからどこもそれを破らない。そこへ全くフリーのライターである立花(隆)さんが、「文藝春秋」に「田中金脈研究」というのを出します。

 これが出た段階でもまだ、朝日新聞もNHKも大メディアは書かないし、放送しなかった。その状態がかなり続いていたのですが、田中総理は在日の海外特派員協会(The Foreign Correspondents Club)へ出て質問を受け、それに答えているわけですね。これが公のメディア、つまり月刊誌や週刊誌ではないメディアで初めて取り上げた最初です。

 これをどうしようか。うちの7時のニュースは見送ってしまったわけですね。私はこれは絶対あれだと。

 海外特派員協会のメンバーになるには、外国人の特派員か、日本人でも外国に3年以上勤務した者はその資格があります。私は当然その会員でしたから、会員で会見を聞いたごとくにして。実はそこのカセットも手に入れていたのですが、それを出すとまた、記者会の同意がどうのこうのということでいろいろうるさいですから、実際に会見に出た外国人の記者から要旨だけを教えてもらって、それを紹介したんですね。

 どうしても昔話ですから自慢になりますけれども、これもNHKとしてもちろん初めて田中金脈に触れた報道です。そこら辺も当時の政治部は、特に田中担当は「磯村の野郎!」と苦々しく思ったでしょうね(笑)。だけどこれもその意味では、冷戦の終わりの始まりとともに、数少ない功績の一つだと思っています。(了)

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