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メディア生態系が触発する<情動>現象

【メディアとの関係において関心が高まっている「情動」。そもそも「情動」とは何か。「感情」との違いはどこにあるのか】

伊藤守(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)

現代メディア生態系の変容

 現在のメディア生態系の特徴を考えるとき、看過できないのが情動現象である。認知心理学や現代哲学の分野を中心とした人文社会系、さらに意外に思われるかもしれないが脳科学や人工知能の研究分野など理工学系の分野を含め、幅広くアカデミックな研究領域で情動への関心が急速に高まり、多くの著作が刊行されている。メディア研究の分野も例外ではない。

 元米国大統領ドナルド・トランプが自らツイッターを活用して、自身の主張を有権者にダイレクトに発信して多くの有権者の支持を集めたことや、2021年1月6日「2020年大統領選挙で不正があった」と訴えてトランプ支持者が国会議事堂を襲撃した際に、支持者が集合した会場にトランプが登場し、過激な、襲撃を容認するかのような発言をおこない、襲撃を煽ったとされる事件は、一般市民の感情や情動が大規模な集合的行動を引き起こす重要な契機として機能したことをあらためて示した。理性的な議論と熟議に基づくべきとされる民主主義の在り方が、こうした嫌悪や怒りの感情や情動によって棄損される事態は、典型的なポピュリズムとして語られることも多い。

 国内外の政治を左右するほどのこうした集合的行動のみならず、ソーシャル・メディアを媒介した一般市民の社会的コミュニケーションにおいても、「炎上」と言われる現象や、意見の異なる他者を一方的にバッシングするサイバーカスケード現象が数多く見られるようになっている。

 ソーシャル・メディアが広く浸透した時代に、こうした現象がいかなる複合的な要因によって、どのようなメカニズムで生起しているか。メディア研究の焦点の一つとして、メディアと感情や情動との関係に対する関心が高まっているのである。

情動とはなにか

 これまで一般には(またアカデミックな研究分野でも)感情と情動という概念は厳密に区別されずに使われてきた。感情(emotion)と情動(affection)を明確に区別して使用するようになったのは最近のことである。では、両者の違いはどこにあるのか。

 感情とは意識された心身の状態、それに対して情動とは意識される手前の、つまり「前―意識的」な心身の状態である、と述べておこう。

 たとえば、ある甲高い声が聞こえたとき、その一瞬、身体は強張り、鼓動が高まり、身動きできない。そんな状況を思い浮かべることができるだろう。それが誰の声かもわからないまま、である。そして数秒経過したのちに、「恐かった」という感情が生まれる。すなわち、前者の「鼓動の高まり」「身体の強張り」が情動現象であり、数秒経過したのちに「恐かった」という意識して自覚できた心身の状況が感情なのである。

 あるいは別のケースで説明すれば、応援するサッカーチームのA選手が試合終了間際に劇的な逆転ゴールを決めたシーンを想像してみよう。そのシーンを見た一瞬、観客が客席から意識することなく立ち上がり、腕を空に向けて突き上げるだろう。そして、そのあとに「歓喜」と「喜び」の感情が沸き起こり、観客同士で抱き合うシーンが生起する。繰り返すが、前者の「前―意識的な」身体の運動が情動現象であり、その後に訪れるのが「歓喜」「喜び」といった感情である。

 怒り、喜び、激高、歓喜、恐怖といった語彙で表現される感情が感受される手前で、身体が対象世界の出来事にダイレクトに巻き込まれ、「身体の内臓的動揺」とアメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが述べたような状態が生まれる。これが情動ないし情動現象である。

 やや哲学的な文章だが引用しておこう。「身体は私たちがそれについてもつ認識を超えており、同時に思惟もまた私たちがそれについてもつ意識を超えている。身体の内には私たちの認識を超えたものがあるように、精神の内にもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの意識を超えたものがある。」(ジル・ドゥルーズ『スピノザ:実践の哲学』)

 ここでは、精神(mind)と意識(consciousness)とが対照されるが、重要なのは「身体の内臓的動揺」たる情動が「私たちがそれについてもつ認識を超え」た、知覚の作用を伴っていることである。「ミクロ知覚」とでもいうべき身体の能力である。ある危険な状況に遭遇した時、その危険の正体を意識することなく(意識する一瞬の時間的余裕もなく)、咄嗟に身をひるがえしてその危険から逃れようとする知覚の運動、それが情動と一体の「ミクロ知覚」である。

情動の社会性

 このような情動の働きを脳科学の視点から明らかにしたのが、すでに日本でも多くの翻訳があるアントニオ・R.ダマシオの研究である。彼によれば、神経系(信号)と血管(ホルモン)を通して脳の扁桃体に感知され、前帯状回に届くことで、その動物がなんであるかを知らないままに、また意識しないままに、情動現象が生起するという。脳科学の知見である。しかしながら、この情動現象を、身体に生得的な自然的な現象として把握することは避けねばならない。もちろん、脳科学の知見が示すように、人間に限らず動物も含めた身体に固有の活動であることは間違いない。だが、情動が触発されるメカニズムには社会的な環境が大きく関与しているからである。

 トランプ現象に立ち戻ろう。彼の歯に衣を着せぬ過激な発言が多くの国民の心を揺さぶり、火をつけて、行動に駆り立てる背景には、新自由主義経済政策が主導するグローバル経済によって経済力の低下や貧困を強いられた白人の中産階級によるこれまでの政権への不満や不安が存在することが繰り返し指摘されてきた。誰が、そして誰に、怒りの矛先を向けるか、誰が、誰に、歓喜の声を発するのか。情動はたしかに個人の身体から発動するのだが、多くの市民や有権者が共通に、特定の社会的文脈において生まれた出来事を経験してきたからこそ、集合的な怒りや感情の高ぶりによる集合的行動が引き起こされ、怒りの感情が次々と人々に「感染」するのである。さらに同じような状況が起きる可能性に直面した際にも、その記憶がよみがえり、不安や怒りに至る情動が触発される。つまり、一瞬のうちに強度の情動が喚起され、感情にむすびつくプロセスは、身体的/私的なことがらであると同時に、社会的あるいは公共的なことがらとして考えねばならない。アルフレッド・N.ホワイトヘッドにしたがって述べるなら、情動は私的に誕生するが、社会的経歴を刻印されているのだ。つまり、貧富の格差、性別、肌の色、階級の違いといった指標に深く関与し、それらが情動的パタンを統御する主体指向を枠づけているのである。

 あらためて強調すれば、「存在しようとしている世界に対する決定的な関与の感受」として生成するミクロ知覚を伴う「内臓的動揺」たる情動は、私的であり、かつ同時に公共的・社会的な現象なのである。

声、文字、映像と情動

 ソーシャル・メディアが浸透した中での情動現象の高まりについて冒頭で述べたが、もちろん情動を触媒するメディアの機能はインターネットが登場する以前から存在した。このことを軽視してはならない。ソーシャル・メディアのみが情動現象と深いつながりを持っているわけではない。

 情報や知識を伝達する機械がメディアである。これが通常の理解だ。またこの理解が誤っているわけでない。しかし、この見方は重要なことがらを忘れてはいないだろうか。メディアは情報や知識を伝えるだけではない。メディアは感情を伝える、より正確に言えば、文字や映像や動画を通して、伝える側の感情や意図や信念も伝達し、それを受けとった側の人々にも情動を触発して、共感や共振を引き起こすからである。

 基本的に文字という媒体を通して伝える新聞や雑誌も、視聴覚情報を伝えるテレビも、意識的に、あるいは無意識的に、感情を誘発し、情動を調整する技術につねに関心を払ってきたと筆者は考えている。

 スポーツの実況を伝えるアナウンサーの声や、スペクタクルな映像を流す映画や、災害地の状況をリアルに伝えるテレビだけでなく、「台湾海峡をめぐる軍事的脅威」という文字も情動を触発し、感情を喚起する。つまり、あらゆる記号が情動を触発する。このことを明らかにしたのは、アメリカの哲学者・記号論者であるチャールズ・S.パースである。

 とりわけテレビはこの間、この傾向を強めてきたのではないだろうか。一般にニュースや情報番組の「娯楽化」と言われてきた核心にあるのは、芸能人やタレントにハードワードを語らせることで視聴者の「注目」や「注意」を引いて―これこそが情動を触発するテクノロジーである―、問題の所在を思考させる回路よりも、「好感」「親密感」を醸成し、あるいは「不満」や「怒り」を生起させる回路を構成することにあったと見ることができる。あるいはニュース番組の冒頭でいきなり「台風による暴風雨」の映像や「殺害現場」の映像を流す技法は、視聴率を稼ぐという意図と並行して、情動を喚起してメディアに視聴者をつなぎとめる効果として機能している。ソーシャル・メディアと情動の複雑な関係は、こうしたオールドメディアと視聴者との長年の関係の延長線上にある。もちろん、たんなる延長ではなく、はるかに高度化したかたちで、である。

SNSによる情動現象の拡大にどう立ち向かうか

 ソーシャル・メディアの特徴は、プライデートなメディアでありつつ同時にパブリックなメディアであるという両義性にある。多くの場合、プライベートメディアであるからこそ「本音」と称する「好き嫌い」の「感情」が伝播し、それがパブリックな空間に拡散して大きな渦となって、ソーシャル・メディア時代に特有の独自のリアリティを生成していく。社会全体が高速化・加速度化するなか、瞬時のレスポンスをあらゆる社会的場面で求められる状況では、慎重に思考するよりも瞬時の情動的反応によるレスポンスが求められる。この社会的推移に適合的なメディアがソーシャル・メディアである。

 その象徴的な事例は、文字を書く時間を節約した「いいね」をクリックする行為ではないだろうか。「いいね」のクリック行為は、端的に言えば「好き嫌い」の「感情」の伝播である。匿名で、しかも140字という短文で投稿されるツイッターは、短文であるからこそ「本音」と称する「好き嫌い」の「感情」を伝播するうえで有効なメディア特性を備えているように筆者には見える。「好感」が伝播すればたしかに「ファンコミュニティ」「趣味仲間」など人と人をつなぐメディアとして機能する一方で、「反感」が伝播すれば社会に大きな亀裂と分断を生じさせかねない。

 情動現象が生まれる背景には多くの社会的要因が潜んでいる。しかし、現在の複合的なメディア生態系は、情動を触発し、伝播し、多くの人々に感染させる回路ないしインフラストラクチャとして機能しており、これまでのメディア環境とは大いに異なる段階を構築しているのだ。

 これにどう対応していくのか、きわめて難しい課題である。だが、方策がないわけではない。ユーザーに「一旦立ちどまって思考する時間」を与える技術的な機能を組み込むなどソーシャル・メディアの技術改良を図ること、ニュースや報道に携わる側が視聴者に「より深い思考を促す」あらたな制作・編集技法を開拓すること―それこそ急務の課題だと筆者は考える―、そしてユーザー自身が「本音」と称する自身の瞬時の行為が本当に「本音」として発信してよいのかどうか自省することを促すメディア教育を展開していくことなど多くの検討すべき課題がある。未来に起きるかもしれない危機に対する「不安」が拡大する中、「不安」にかられた情動現象が社会的分断や国家間の対立や紛争を生起させることのないよう、いかに対応するか、メディアの機能をあらためて多くの人びとが考えるべき歴史的地点に立たされている。

<執筆者略歴>
伊藤守(いとう・まもる)
早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専門分野は社会学、メディア研究、社会情報学。
1954年、山形県生まれ。法政大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得満期退学。
札幌学院大学社会情報学部助教授、同教授、新潟大学人文学部教授、早稲田大学教育学部教授を経て、2004年9月より現職。

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