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放送法はテレビ局を縛る敵なのか?~その 意義と意味を読む~

【昨年も国会でたびたび議論になった放送局の政治的公平。その法的な根拠となっているのが放送法だ。しかし、放送現場に身を置きながらも、そもそも放送法が放送局の「表現の自由」や「政治的公平」をどのように扱っているのかあまり詳しくないという人は少なくない。放送法研究やジャーナリズム論の第一人者である立教大学社会学部長の砂川浩慶教授が解説する】

砂川 浩慶 (立教大学社会学部長・教授) 


放送法は誰の味方か

 「放送法、聞いたことはあるが、読んだことはない」。
そんな声を昔はよく聞きました。特にテレビ局に勤める人は何か自慢げに、そう語ったものです。その度に「折角、その業界に勤めているのだから、その業界の枠組みを縛る法律を知ればいいのに」と思ったものです。

 かつて「失楽園」(1997年)というドラマのプロデューサーが「放送コードに挑戦する」と述べました。これも放送法の構造を考えれば「自主自立」ですので、「自分で自分に挑戦する」と言っていることになります。「枠組みを知らないんだ」と思ったものです。
 
 このような例は昔の話です。かつて放送法を知らないことは放送業界に関わる人でも問題ではありませんでした。しかし、NHKのみならず民放の研修でも、放送法についての講義が増えているようです。コンプライアンスが強調されるようになったとの見方もありますが、むしろインターネットの普及によって、改めて放送界で枠組みを知ることが必要になったと思っています。

 かつて、民放連の「月刊民放」で新人特集の記事を頼まれました。
「放送法は放送局の敵ですか?味方ですか?いきなり聞かれても困りますね。この小論を読み終わったら、是非、味方だと確信してほしいものです」という書き出しで論を始めました。この小論も「市民の味方である放送法」との観点で解説していきたいと思います。

73歳の放送法

 放送法が施行されたのは1950年6月1日。現在73歳です。2010年に放送関連の4つの法律を合わせ巨大放送法となりましたが、そもそもは、電波法、電波監理委員会設置法とともに電波3法として誕生しました。敗戦から5年、戦後民主主義の立ち上がり期として「表現の自由」が前面に出たものでした。「表現の自由」の大切さは現在でも輝きを失っていませんし、むしろウクライナや中東の戦争、アメリカの大統領選挙などを見るにつけ、重要視されることとなっています。

電波3法、残りの2つは?

 「放送法」の前に「電波監理委員会設置法」と「電波法」を解説したいと思います。

 日本では総務省が放送を所掌する担当省庁となっています。しかし、日本以外の先進国を見ると、独立した第3者機関が担う仕組みになっています。日本のように国家権力である総務省が扱うものではありません。各国の機関は「独立行政機関」と呼ばれますが、「電波監理委員会」はこの独立行政機関でした。1952年4月にサンフランシスコ講和条約によって日本が独立国家となるとすぐにこの委員会を廃止しました。その後も幾度となく、この独立行政委員会構想は示されますが、日本では総務省が所掌したまま、今にいたっています。

 民主党政権下で、総務省に日本でも独立行政機関を考える懇談会が開かれたことはありますが、骨抜きの答申となりました。自分たちの力をそぐ動きに機敏に反応し、徹底的に順応させるのが、日本の官僚機構、自民党政権だということは覚えておいてください。

 なぜ、各国が行政から一定程度の独立した機関を採用しているのかは、人類の歴史に遡ります。それは洋の東西を問わず、権力者による言論弾圧が行われてきたからです。「焚書坑儒」「魔女狩り」などの言葉が残るように、権力を持つと自分の都合の良い意見しか聞かず、反論を認めないことが続いてきました。権力は必ず腐るのです。

 先進各国が独立行政機関を設置しているのも、放送という国民に直接情報を伝え、民主主義の基盤を作っている表現メディアの“自由”に配意した結果なのです。

 「電波法」は国民の共有財産である「電波」をどう使うかを決めています。第1条(目的)は「電波の公平且つ能率的な利用を確保することによつて、公共の福祉を増進することを目的とする」と「公共の福祉」の増進が目的であることを明記しています。これに基づき、様々なことが決められていますが、第5条(欠格事由)では、無線局の免許を与えてはいけないものを定めています。外国の政府や法人などとともに「日本の国籍を有しない人」としています。

 そもそも電波は、国連の専門機関の一つであるITU(国際電気通信連合)で、その使い方を決めています。世界を3つに分け、日本は第3地域:アジア・オセアニアに属し、地域内での使い方を決められています。国連の機関の割り当てですので、国ごととなります。従って、その国の「国籍」が必要となります。ただ、戦前の反省に立ち、「国そのものが免許を持つこと」、国営放送は認めていません。

 また、特定の人が多数の免許を得ることを防ぐ規定もあります。放送に関しては、さらに細かく規定されています。マスメディア集中排除原則といわれるものですが、ご案内のように日本は新聞と放送がグループ化しています。この規定が形骸化しているとの指摘があります。

 国民の共有財産である、放送用電波(周波数)を一つの組織、放送局が占有するのですから、そこには「公共性」が不可欠となります。自社の利益第一に放送局が「公共性」を発揮しないのであれば、電波を使う意義はなくなることを放送局に関わる皆さんには肝に銘じていただきたいと思うのです。

放送法のベースは「表現の自由」

 いよいよ「放送法」です。

 放送法のベースは憲法第21条(表現の自由)です。

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
  2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 憲法第21条は「表現の自由」「検閲の禁止」「通信の秘密」がキーワードです。いずれも戦前の言論弾圧の反省にたったものです。このうち、「表現の自由」は放送法で具体化され、「検閲の禁止」「通信の秘密」は、携帯電話会社などを規律する電気通信事業法で規定されています。

 まず、放送法の第1条(目的)で「表現の自由」が出てきます。

第1条(目的)この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一  放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二  放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三  放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

 この目的は主語が不明確ですが、「保障」「確保」という言葉遣いからも、免許を与えている総務省(行政)が主語と私は考えます。

 この2項で「放送による表現の自由の確保」を述べ、その前段で「放送の不偏不党、真実及び自律」を放送局に対して総務省が保障することが示されています。よく「放送局は不偏不党であるべき」との意見を目にしますが、それを保障するのは行政であることを理解してください。

 さらに3項では、「放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」もうたわれているのです。今の放送を「民主主義の発達」に資するように行政がコミットしているか甚だ疑問です。

番組編集の自由と留意点

 具体的な条文でも「放送による表現の自由」は規定されています。

第3条(放送番組編集の自由)
  放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

 放送番組は誰からも干渉されたり、規律されたりすることがないのです。ただ、注意が必要なのが、太字にした部分です。逆読みすれば、法律で定めたことがあれば、編集の自由は制限を受けますよ、と書かれています。具体的には、公職選挙法に基づく「政見放送」、災害対策基本法での「指定公共機関」「指定地方公共機関」などです。

 いわゆるメディア規制が他の法律で規定されれば実効力を持ちます。メディア規制の動きに眼を配り、対応していくことが必要です。

放送での「表現の自由」の構造

 下記の図表に、放送における「表現の自由」の構造を示しました。憲法第21条に基づき、放送法の1条、3条で「表現の自由」を定めています。このような自由が与えられているのは、人類の歴史に学び民主主義社会において表現の自由が極めて重要だからです。

 さらに放送法は自主自律・自主自立を基調として、第5条(番組基準)で自ら番組基準を定めることを求めています。各社はこれに基づき、番組基準を設けています。広告放送である民放においては、共通する事項が多いため、民放連の放送基準が全体的な規定となっています。

 この他、「放送番組の編集等に関する通則」(第3条~第14条)で、放送番組審議機関の設置(第6・7条)、訂正放送(第9条)、放送番組の保存(第10条)などが定められています。特に民放に関する規定として第12条(広告放送の識別のための措置)があります。

 この趣旨は、視聴者・聴取者に分かるように、番組とCMは分けろ、というものです。現在、BPO(放送倫理・番組向上機構)で議論されている、ステマ(ステルス・マーケティング)番組が問題視されるのは、視聴者の誤認というこの規定と同じ問題があるからです。

「番組編集準則は倫理規定」

 この通則の中で、ある意味、最も有名なのが第4条(国内放送等の放送番組の編集等)です。番組編集に当たり①公安及び善良な風俗を害しないこと、②政治的に公平であること、③報道は事実をまげないですること、④意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること、を求めています。④は論点の多角的提示とも言われます。

 番組編集準則とも呼ばれる、この規定で、特に問題となるのが、太字にした「政治的に公平であること」です。従来、総務省は「一つの番組内では判断せず、番組全体で考える」といっていました。

 1965年、自民党の田中角栄・大蔵大臣(当時)が出演する「大蔵大臣アワーふところ放談」が政治的公平違反との指摘を受けての回答です。その後、自民党は2003年に民主党のマニフェストを長時間放送したといって政治的公平違反を訴えるなどしています。2016年2月には、自民党の高市早苗総務大臣によって「停波発言」問題がありました。結局、政府見解は変えないとしながら、一つの番組のみでも、政治的公平を確保していない例をあげるなど踏み込んだ政府見解をまとめました。④の論点の多角的提示からもこれには無理があります。

 このような総務省・自民党の対応に対して、放送界・学会は「番組編集準則は倫理規定にすぎない」と主張していますし、私もそう思います。2017年に発表されたBPO放送倫理検証委員会「2016年の選挙をめぐるテレビ放送についての意見」でも、番組編集準則は「倫理規定」としています。

 表現の自由に基づく放送法で表現行為に罰則がつけば、放送法が憲法違反になってしまうからです。そもそもこの意見は安倍政権からの圧力によってテレビの政治番組が萎縮しているとの認識が背景にあります。昨年、総務省の内部リークによって暴露された2015年の政治的公平に関する自民党から総務省への解釈変更問題も放送に圧力を加えたい執念を感じます。

市民・国民を放送局は「味方」にできるか?

 ここまで述べてきたように放送法は「表現の自由」をベースにしています。「表現の自由」は放送局だけが持っているものではなく、国民全体が持っています。放送局の「表現の自由」が規制を受ければ国民の「表現の自由」も規制を受けるとの考えから放送法は「自由」を広く認めているのです。その意味で、放送法は放送局にとって「味方」です。ただ、先にあげたBPO意見は「憲法が保障する表現の自由、番組編集の自由を存分に活用し、放送局の創意工夫によって、量においても質においても豊かな選挙に関する報道と評論がなされるよう期待したい」と締めくくられています。

 放送局の「表現の自由」が認められているのは、その先に市民・国民の知る権利、国民の「表現の自由」があるからです。そのためには市民・国民が信頼してくれる存在、「味方」であることが第一となります。マスゴミ批判やオワコンといわれるのは、それを果たしていないとの不満がある証拠です。放送法の枠組みを知った上で、放送が民主主義、表現の自由を体現しているのかが問われます。これからの放送が「輝く」存在であることを期待して、小論を締めくくります。

〈執筆者略歴〉
砂川 浩慶(すなかわ・ひろよし)
1986年、 早稲田大学教育学部 卒業
   同年、 日本民間放送連盟職員
2006年、 日本民間放送連盟退職
   同年、 立教大学社会学部メディア社会学科 助教授
2016年、 立教大学社会学部メディア社会学科 教授
2023年、 立教大学社会学部長に就任し現職
著書に「放送法を読みとく」(商事法務)、「安倍官邸とテレビ」(集英社)

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