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色彩とジェンダー

【私たちは「色」を選択しながら生きている。しかし色彩は「意味」を持たざるを得ない。その最たるものがジェンダーとの固い結びつきである。多様性が求められる社会で色彩の呪縛から逃れる方法は】

蘆田 裕史(京都精華大准教授)

「色」の選択は「意味」を持つ

 私たちは色を選びながら生きている。服や文房具、家具や家電、スマートフォンや車など、モノを買うときには色の選択がつきまとうことが少なくない。

 だが、やっかいなことに、色を選ぶ行為はなんらかの意味を持ってしまう。より正確に言えば、色そのものがすでに意味を帯びており、それを選ぶことに意味が生じてしまうのである。

 つまり、色の選択という私たちの行為はまったく自由なものではない。なかには「私がピンクを好きだからピンクを選んでいる」と考える人もいるかもしれないが、そのピンクという色にはすでに社会的・文化的な意味が付与されてしまっていることに注意をする必要がある。 

歴史的に見た、色彩の「意味」

 歴史をふりかえると、古来、色彩は地位や属性を表すものとして用いられてきた。

 古代ローマでは、ローマ市民は「トガ」と呼ばれる服を着ていたが、一般の市民は自然の羊毛色の無地のトガ、皇帝や執政官は赤紫の絹に金糸の刺繍がほどこされたトガ、元老院議員は赤紫の線条の入ったトガ、といったように、身分によって色や柄が異なっていた。日本でも、推古天皇の時代に制定された冠位十二階の位が色によって分けられていたことは周知の通りである。

 色は染料を使って染められる。合成染料が発明されたのは19世紀半ばなので、それ以前は天然染料しか存在しなかった。天然染料には動物性(昆虫や貝殻)のものと植物性のものがあり、希少性が高いものほどコストがかかることになり、それが身分の高さを表す色となる。こうして考えると、服の色は経済とも密接に関わっていると言える。

 また、ネガティブな意味を持つがゆえに、忌避されたり他者を印づけるのに使われたりする色もあった。 

 たとえばヨーロッパにおいては、15世紀末まで大人の服に黄色を使うことはほとんどなかったが、それは黄色が裏切り者という意味を持っていたこと、ユダヤ人であることを可視化させるための色として使っていたことなどが理由としてある。

 同じように、多色使いに対する嫌悪感があったり、(色彩ではなく柄の話になるが)縞模様が社会から疎外された人々に着せられた服だったりと、色彩も模様も個人が自由に選べるものではなかった。

 現代では、ボーダーのカットソーやストライプのシャツを着ているからといって社会から疎外されたとみなされることはないし、黄色の服を着ているからといって後ろ指を指されることもない。好きな服を着ることができる私たちにとって、歴史上見られたような色の制約からは解き放たれたかのように思われる。

色彩の持つ「意味」の最たるものはジェンダー

 しかしながら、さまざまな局面において色彩が意味を帯びているという事実はいまだ残っている。その最たるものがジェンダーとの結びつきである。

 たとえば赤ちゃんが生まれたとき、男の子であればブルーの服を着せ、女の子であればピンクの服を着せると——意識的にであれ無意識的にであれ——考えている人はかなりの割合でいるだろう。このブルー/ピンクの色分けは幼少期になっても基本的に変わることがない。

 とはいえ、この色分けは長い伝統というわけではない。生物学者のアン・ファウスト=スターリングはその著書『セックス/ジェンダー』のなかで、女の子がピンクで男の子がブルーという色分けは社会的に作り出されたものであり、普遍的なものではないと論じている。

 ファウスト=スターリングは著書のなかで、1910年代のアメリカの新聞では「男の子にはピンク、女の子にはブルーがふさわしい」という記事が掲載されていることを紹介している。つまり、100年前は現在と逆の価値観があったのだ。その後、第二次大戦を経てピンク=女性、ブルー=男性というコードが確立したとされている。

 この色分けは服に関してのみ行われるわけではない。子ども向けの玩具やアニメのキャラクターの造形に関しても同様である。

 女の子向けのアニメの代表と言える『プリキュア』シリーズのヒロインのコスチュームにはピンクが使われることが多く、作品のイメージヴィジュアルもピンクが基調となりがちである。同様に、女の子向けとされるおもちゃにもピンクが使われることが通例で(最近では男の子用/女の子用と分けるのをやめるメーカーも出てきているが)、総じて女の子用のおもちゃは男の子用のそれよりもカラフルである。

 小学生に入ると今度はランドセルである。最近でこそランドセルの色は多様になっているが、おおよそ平成に入る頃までは「男子は黒、女子は赤」という色分けが主流だった。それに対して、現在ではランドセルの色のバリエーションが多様になっていると感じている人も多いだろう。

 事実、メーカーによっては50色以上を揃えているところもある。だが、実際に選ばれる色はジェンダーによって一定の傾向が見られる。

 2022年4月に小学校に入学した子ども(の親)を対象にした、日本鞄協会・ランドセル工業会の調査によると、男子は1位が黒(58.4%)、2位が紺(17.6%)、3位が青(9.6%)、4位が緑(4.9%)で、女子は1位が紫/薄紫(24.1%)、2位が桃(21.0%)、3位が赤(17.0%)、4位が水色(15.6%)であった。こうして見てみると、選択肢が増えたにもかかわらず、いまだにジェンダーによる色のコード化が根強く残っていることがわかるだろう。

 トイレのピクトグラムは男性が青、女性が赤で表される場合がほとんどであるし、男性服は暗い色、女性服は明るい色の商品が多い(ファッション雑誌の表紙もそれに対応して、男性向けは色味が暗く、女性向けは色味が明るい)。

 家電や文具などのプロダクトデザインにおいても、ピンクは女性向けの色として使われることがいまだに多く、これについては10年ほど前に「ダサピンク」現象として批判的な議論がなされている(この問題については堀越英美『女の子は本当にピンクが好きなのか』に詳しい)。

色彩と「多様性」~色彩の呪縛から自由になるために

 近年ではダイバーシティや多様性といった言葉が一種の流行語となり、個人個人の違いがそのまま認められる社会が理想のものと考えられる傾向がある。既存のジェンダー観に縛られることなく色を選択できるような社会が到来すれば、私たちは生きやすくなるだろう。だが、同時に、そのような社会を実現することは難しいとも思われる。なぜなら、「流行」という現象が存在するからである。

 世の中には普遍的なものもあれば、時代によって変わるものもあり、後者は「流行」とみなすことができる。ある程度長く続くものは「様式」と呼ばれたりもするが、それも一種の流行だと考えられる。

 この流行は、いずれ廃れることが決まっている。廃れることがなければ流行ではなく「慣習」、すなわち固定化された伝統のようなものとなるからだ。

 だが、流行という現象それ自体が廃れることなく存在し続けることは、歴史を見れば明らかであろう。古代から現代まで、流行が存在しなかった社会など存在しないといっても過言ではない。

 社会学者のゲオルク・ジンメルは、流行には「同一化」と「差異化」という、逆向きのベクトルを持つ二つの欲望が見出されると論じている。私たちの多くは人と同じでいることに安心感を覚え、同じような嗜好を持ったコミュニティに属したいと願う。そのような場合に働くのが同一化の欲望である。

 一方で、自分が属するコミュニティの存在意義を認めるためには、他のコミュニティと違っている必要がある。それゆえ、私たちは「差異化」を求めもする。さらに言えば、同じコミュニティのなかでも、完全な同一化を目指すことはなく、ディテールにおいて差異化がはかられる場合がほとんどであろう。私たちの社会に流行が存在し続けることの根底には、この二つの欲望があることを認めなければならない。

 だとすると、ランドセルの色にせよ玩具にせよ、ある時代・ある文化において、一定の傾向が現れることは免れることができないのではないだろうか。

 だが、そこから逃れる選択肢が用意されていることも重要である。ランドセルが黒/赤の二色しかなければ、出生時に割り当てられたジェンダーに違和感を持つ人は毎日の生活が苦しいものとなるだろうし、そもそもジェンダーがバイナリーであり、すべての人がそのどちらかに割り振られるものだと思い込ませることにもつながる。

 ジンメルの流行論をふまえると、半数以上の男子が黒いランドセルを選んだとしても、半数以上の女子がパステルカラーのランドセルを選んだとしても、そのこと自体には仕方のない側面もある。そこには既存のジェンダー観や親の趣味嗜好の押しつけといった問題はあるだろうが、それを解決したとしても、どうしても流行は生じるのだから。

 そのように考えるならば、大切なのは個人に選択肢が与えられていること、そして選択の結果に対して他人が口出しをしないことだ。そうすることで、私たちは色彩の呪縛から徐々に自由になることができるだろう。

参考文献:
深井晃子監修『世界服飾史』美術出版社、2010年
徳井淑子『図説 ヨーロッパ服飾史』河出書房新社、2010年
アン・ファウスト-スターリング『セックス/ジェンダー——性分化をとらえ直す』世織書房、2018年
堀越英美『女の子は本当にピンクが好きなのか』河出書房新社、2019年
ミシェル・パストゥロー(石井直志・野崎三郎訳)『ヨーロッパの色彩』パピルス、1995年
ゲオルク・ジンメル(岸本督司・古川真宏・渡辺洋平訳)「モードの哲学」(原著1905年)『vanitas』No. 003、アダチプレス、2014年
ランドセルから考える、色とジェンダー——ピンクは、黒は、誰の色?」『朝日新聞デジタル』2022年5月20日

<執筆者略歴>
蘆田 裕史(あしだ・ひろし)
京都精華大学准教授。
京都大学薬学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。国立国際美術館研究補佐員、日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て現職。ファッション批評誌『vanitas』編集委員のほか、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。 
著書に『言葉と衣服』(アダチプレス、2021年)、『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』(共編著、フィルムアート社、2022年)、訳書に『ファッションと哲学』(監訳、フィルムアート社、2018年)など。

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